(二十四)人波駅

文字数 2,482文字

 おや何だ?このざわめき。押し寄せては引いてゆく、まるで波の音、何て心地いい。もしかしてここは海?
 目を覚ました。わたしはシートに座り窓にもたれていた。車掌が倒れていたわたしを起こしてくれたのだろう。列車は停車していた。外を見ると辺りはもう薄暗い。空にきらりと何かが光っている。また爆撃機か?爆撃機のライト?いやそうではない。光は同じ位置にとどまって動かなかった。しかもやさしいその光はわたしをじっと見ていてくれるよう。ああ星だ、一番星。一番星が瞬いているのだ。何という美しさだろう。戦闘の炎は既に消え去り爆撃音ももう止んでいた。ここは何処?さっきの波音は?
『人波駅』
 看板の文字が目にとまった。駅?そうか、駅のホームに停車していたのか。人波駅?人波、海の波ではなく人の波?宵のラッシュ時なのだろう確かに駅は人の波で溢れていた。絶え間ない人の波、人々の途絶えることを知らない足音の波また波が押し寄せては引いてゆく。もしかしてそうか!さっき波の音だと思ったのはこの雑踏のざわめきだったのだな。
 人波駅。目を閉じて、ああ確かに波の音に聴こえるではないか。まるで何処か遠い海の波打ち際に佇んでいるようだ。見上げると遠くにネオンの看板が見えた。それはまるで遠い夜の浜の漁り火にも似て綺麗だった。店の名を書いたネオンの文字が波のように連なる。
『Heaven』
『OASIS』
『Eden』
 ああ、なんと哀しい言葉だろう。今世界は戦争をしている。世界は何処も戦場なのだ。もう一度目を閉じて人々の絶え間なく続く足音の波を確かめた。いつまでも続く、いつまで続くのか?押し寄せては引いてゆく、あたかも遠い海の潮騒のように。

 ふと波が、いや足音が一瞬途絶えた。驚いて目を開いた。そこには相変わらずの人波が。いや待て、変だぞ。止まっている?よく見ると目に映る雑踏の風景が止まっていた。どういうことだ?驚いたわたしは列車を降りてプラットホームに立った。どうなっているのだ?わたしは歩き出し恐る恐る雑踏へと近付いていった。すると突然、停止した人波の風景の中からひとりの男が姿を現した。まるで壁に描かれた風景画の中から抜け出して来るように。え?驚いたわたしは立ち止まり後退りした。けれど男はわたしに気付いた。男はわたしへと歩いてくる。人波はまだ止まったままホームには男の足音だけが響いた。男はわたしへと辿り着いた。
「やあ」
 男はわたしに声をかけた。その瞬間それまで停止していた人波が動き出した。まるで止まった時計の針が再び時を刻み始めたかのように。足音の波また波が押し寄せては引き、押し寄せては。わたしは恐る恐る男の顔を見た。
「おお、きみか」
 わたしは大きく叫んだ。それは科学者Sだった。その瞬間発車のベルが鳴った。

「それでは署名を」
 彼が口を開いた。
『Heaven』
『OASIS』
『Eden』
 人波駅を後にした列車はネオンの波の中を走った。彼とわたしは向かい合ってシートに座った。
 署名?わたしは彼の顔を見つめた。彼の横顔にネオンサインの色彩が映った。彼は一通の手紙を差し出した。わたしは静かにその手紙を受け取った。これはまるであの時と同じ。あれは、そうだ、ひまわり畑駅を発車した後のこと。何もかもがあの時と同じ。しかし何かが違う。何だ、何が違う?わたしは恐る恐る手紙を開いた。
 ああ、これは。
 わたしはため息を吐いた。手紙が違う。その手紙はアメリカ合衆国大統領へと宛てた4番目の手紙だった。新型爆弾の研究開発において科学者と政府との間にコミュニケーションが不足していることをその手紙は指摘していた。けれどただそれだけのことだった。
「きみ、これだけでいいのかね?」
 わたしは彼に問いかけた。けれど彼はきょとんとした顔でわたしを見つめた。
「だから、何と言うか、もっとだね」
 けれど彼の反応は鈍かった。わたしは声を荒らげた。
「きみ、このままじゃあの国が」
 すると彼は不思議そうな顔でわたしを見た。
「あの国?あの国がどうかしたのかい?」
 ん?彼は静かに言葉を続けた。
「ぼくたちの最大の懸念はドイツだよ」
 なに?何を言っているのだ!ドイツはもういいのだよ。このままだとあの国が、このままだとあの国に。
 そう叫ぼうとしてけれどわたしは言葉を失った。そうか、そうだった。この列車は過去の時間駅を走っているのだ。だから今は4番目の手紙について彼と打ち合わせをした、あれは確か3月の終わり。そうだ、だから今この列車はまだ3月の終わり!ということはドイツが降伏したことさえ(ドイツが降伏したのは5月なのだから)彼はまだ知らないのだ。
 沈黙が雪のように落ちた。深い沈黙だけがわたしを包み込んだ。さっき人波駅での、あの人波の絶え間ない足音が耳に甦った。あの押し寄せては引いてゆく人々の足音、そして吐息、鼓動、夢、願い、それらの波また波が。
『Heaven』
『OASIS』
『Eden』
 何処に?一体何処にそんなものがあるのかね?目を窓に向け明滅するネオンライトの波へとわたしは問いかけた。
「大丈夫かい?」
 彼が心配そうにわたしの顔を覗き込んだ。
「ああ、いや何でもない」
 わたしは力なく笑い返した。わたしは黙って署名を終え、彼へと手紙を返した。
「一日も早くこれを大統領に届けなければ」
 彼は微笑んだが、わたしは返す言葉が見つからなかった。もう無駄なのだ。無駄だったのだ、こんなことは。

 それから彼とわたしは何も言わず流れゆくネオン街の景色を眺めた。ネオンに混じって、おや?ちらほら白いものが見えた。雪か?雪だ。なんと季節外な、名残りの雪、あるいは嘆きの雪か。
「雪だ、ほら」
 彼へと指差した。けれど彼は答えた。
「え、何処に?ぼくには見えないな」
 何?そうか。そうだったね。あの日は雪など降っていなかった。そうだ、そしてわたしたちはこうやってただじっとしている間にも流れ去る時の中に何かを失ってゆくのだ。もう二度と取り返すことの出来ない何かを。
「すまない、冗談だよ」
 わたしは小さく答えた。けれどもう目の前に彼の姿はなかった。
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