(十一)せみしぐれ駅
文字数 2,021文字
「どうかなさいましたか?」
振り返ると車掌だった。
「こんな所にお立ちになって」
わたしは不機嫌そうに答えた。
「ああ、雨だよ」
「雨ですか?」
車掌は不思議そうに尋ねた。
「そう、このじめじめした雨だ。この雨はいつまで降り続くのかね?いい加減わたしは」
そう叫ぼうとした瞬間、ところが突然眩しい太陽の光が差した。一瞬にして雨は止み空は晴れ渡り窓の外は一面眩しい緑の田園地帯になった。
なんだ?どうなっているのだ?
何処からか蝉の声が聴こえて来た。車掌は待っていたようにアナウンスをした。
「次はせみしぐれ駅。お降り遅れのないよう、お気を付け願います」
せみしぐれ駅?
わたしは思わず笑った。
ひまわり畑駅の次はせみしぐれか。変わった名前の駅ばかりなのだな。これから先もずっとこんな名前の駅が続くのだろうか?
車掌は歩き去り列車は黙々と走り続けた。田園地帯を過ぎ林の中に入ると駅があった。列車は止まった。
『せみしぐれ駅』
ホームの看板には確かにそう記されていた。
列車のドアが開くと想像を絶する蝉の大音響が待っていた。
おお、まさしくせみしぐれ駅。思わず耳を塞いだ。少しずつ耳を慣らしながら手を耳から離しわたしは改めて駅の風景を眺めた。木漏れ陽が林のあちらこちらから差し込んでくる。夏の昼下がりだ。
わたしはホームに降りて思い切り背を伸ばしせみしぐれと木漏れ陽の中に身を任せた。ホームのベンチに腰を降ろした。わたし以外誰もいない。もうせみしぐれの音にも慣れ今は静かな位だ。時折涼しい風が吹いていつしかわたしは眠ってしまったらしい。
「たいさどの」
ふと男の声で目が覚めた。あたりは静かだった。なんという静寂だろう、何かが、そうかせみしぐれが止んでいるのだ。男はわたしの目の前に立ってわたしを見ている。誰だろう?軍服を着ている。汗びっしょりではないか。
「大佐殿、お目覚めですか?」
大佐?わたしがか?しかし。
「ああ、すまない」
またしてもわたしは無意識のうちに答えた。どうやら今度は大佐らしい。わたしが大佐か。
「大佐殿。よくこんな蒸し風呂のような部屋で昼寝ができますね?」
部屋?ああそうか、彼にとってここは何処かの部屋なのだな。
「ああ確かに。今日は格別暑いねぇ」
わたしが答えると男は言葉を続けた。
「ところで大佐殿。例のコードネームは決まりましたか?」
「例の?」
「例の極秘プロジェクトですよ」
極秘プロジェクト?極秘?わたしはふとせみしぐれ駅の前、豪雨の中、雨宿りの飲み屋と称して列車に乗り込んできた二人の男の会話を思い出した。
確か、大統領が極秘計画を認可したと。果たしてそれのことか?
「ああそれか」
しばしわたしは沈黙した。答えがすぐに出て来なかったのだ。その間男は直立不動で待っていた。男の額から汗が吹き出る。汗は頬へと垂れ、ハンカチは持っていないのか?答えはまだ浮かんで来ない。男の汗はとうとう顎まで辿り着き音もなく床に落ちた。ふいに言葉がわたしの唇に浮かんだ。
「マンハッタン」
「マンハッタン?」
「そう、マンハッタン工兵管区のマンハッタンだ」
男は大佐と呼ばれたわたしの言葉に頷いて答えた。
「それではマンハッタン計画ですね」
マンハッタン計画?
大統領が認可した極秘プロジェクトのコードネームがマンハッタン計画。
マンハッタン計画。マンハッタン、そしてわたしの乗った列車がマンハッタン急行。何か関係があるのだろうか?
しかしそもそも極秘プロジェクトとは何だ?何を極秘に進めているというのだ?
「しかし大佐殿、本当にそんなものが製造できるのですか?」
男の言葉がわたしの思考を遮った。そんなもの?製造?
大佐と呼ばれたわたしは答えた。
「ああ確かにそうだな。しかしドイツに先を越されてはいかんし」
ドイツ?
ふと横を見るとわたしの隣に何かがあった。何だ?
それは蝉の抜け殻だった。
ん?
いつからそこにあったのか?抜け殻は、抜け殻の目でわたしを見ていた。まるでわたしを睨み付けるように。わたしのことがわかるのか?わたしが誰なのか。わたしは蝉の抜け殻を手に取り男に見せた。
「これは、きみが置いたのかね?」
ところが男は。
「何でしょうか、大佐殿?何か手に、何を持っていらっしゃるのですか?わたしには何も見えま」
男は言葉を言い終えるより早く消えた。わたしの目の前からすうっと男は消えてしまった。
それと同時に再びせみしぐれが辺りを包んだ。蝉たちが一斉に鳴き出したのだ。何という大音響。蝉たちは狂ったように鳴いた。まるで言葉にならない何か、怒り或いは悲しみを表すかのように。
おまえたち、一体何をそんなに鳴いているのだ?まるで生命を削るように。
わたしの手にはいっぴきの蝉の抜け殻が残されていた。わたしはそれをシャツの胸ポケットに入れた。なぜそうしたのかはわからない。
「そろそろ発車の時刻でございます」
発車のベルと車掌の言葉に押され、わたしは列車に戻った。
振り返ると車掌だった。
「こんな所にお立ちになって」
わたしは不機嫌そうに答えた。
「ああ、雨だよ」
「雨ですか?」
車掌は不思議そうに尋ねた。
「そう、このじめじめした雨だ。この雨はいつまで降り続くのかね?いい加減わたしは」
そう叫ぼうとした瞬間、ところが突然眩しい太陽の光が差した。一瞬にして雨は止み空は晴れ渡り窓の外は一面眩しい緑の田園地帯になった。
なんだ?どうなっているのだ?
何処からか蝉の声が聴こえて来た。車掌は待っていたようにアナウンスをした。
「次はせみしぐれ駅。お降り遅れのないよう、お気を付け願います」
せみしぐれ駅?
わたしは思わず笑った。
ひまわり畑駅の次はせみしぐれか。変わった名前の駅ばかりなのだな。これから先もずっとこんな名前の駅が続くのだろうか?
車掌は歩き去り列車は黙々と走り続けた。田園地帯を過ぎ林の中に入ると駅があった。列車は止まった。
『せみしぐれ駅』
ホームの看板には確かにそう記されていた。
列車のドアが開くと想像を絶する蝉の大音響が待っていた。
おお、まさしくせみしぐれ駅。思わず耳を塞いだ。少しずつ耳を慣らしながら手を耳から離しわたしは改めて駅の風景を眺めた。木漏れ陽が林のあちらこちらから差し込んでくる。夏の昼下がりだ。
わたしはホームに降りて思い切り背を伸ばしせみしぐれと木漏れ陽の中に身を任せた。ホームのベンチに腰を降ろした。わたし以外誰もいない。もうせみしぐれの音にも慣れ今は静かな位だ。時折涼しい風が吹いていつしかわたしは眠ってしまったらしい。
「たいさどの」
ふと男の声で目が覚めた。あたりは静かだった。なんという静寂だろう、何かが、そうかせみしぐれが止んでいるのだ。男はわたしの目の前に立ってわたしを見ている。誰だろう?軍服を着ている。汗びっしょりではないか。
「大佐殿、お目覚めですか?」
大佐?わたしがか?しかし。
「ああ、すまない」
またしてもわたしは無意識のうちに答えた。どうやら今度は大佐らしい。わたしが大佐か。
「大佐殿。よくこんな蒸し風呂のような部屋で昼寝ができますね?」
部屋?ああそうか、彼にとってここは何処かの部屋なのだな。
「ああ確かに。今日は格別暑いねぇ」
わたしが答えると男は言葉を続けた。
「ところで大佐殿。例のコードネームは決まりましたか?」
「例の?」
「例の極秘プロジェクトですよ」
極秘プロジェクト?極秘?わたしはふとせみしぐれ駅の前、豪雨の中、雨宿りの飲み屋と称して列車に乗り込んできた二人の男の会話を思い出した。
確か、大統領が極秘計画を認可したと。果たしてそれのことか?
「ああそれか」
しばしわたしは沈黙した。答えがすぐに出て来なかったのだ。その間男は直立不動で待っていた。男の額から汗が吹き出る。汗は頬へと垂れ、ハンカチは持っていないのか?答えはまだ浮かんで来ない。男の汗はとうとう顎まで辿り着き音もなく床に落ちた。ふいに言葉がわたしの唇に浮かんだ。
「マンハッタン」
「マンハッタン?」
「そう、マンハッタン工兵管区のマンハッタンだ」
男は大佐と呼ばれたわたしの言葉に頷いて答えた。
「それではマンハッタン計画ですね」
マンハッタン計画?
大統領が認可した極秘プロジェクトのコードネームがマンハッタン計画。
マンハッタン計画。マンハッタン、そしてわたしの乗った列車がマンハッタン急行。何か関係があるのだろうか?
しかしそもそも極秘プロジェクトとは何だ?何を極秘に進めているというのだ?
「しかし大佐殿、本当にそんなものが製造できるのですか?」
男の言葉がわたしの思考を遮った。そんなもの?製造?
大佐と呼ばれたわたしは答えた。
「ああ確かにそうだな。しかしドイツに先を越されてはいかんし」
ドイツ?
ふと横を見るとわたしの隣に何かがあった。何だ?
それは蝉の抜け殻だった。
ん?
いつからそこにあったのか?抜け殻は、抜け殻の目でわたしを見ていた。まるでわたしを睨み付けるように。わたしのことがわかるのか?わたしが誰なのか。わたしは蝉の抜け殻を手に取り男に見せた。
「これは、きみが置いたのかね?」
ところが男は。
「何でしょうか、大佐殿?何か手に、何を持っていらっしゃるのですか?わたしには何も見えま」
男は言葉を言い終えるより早く消えた。わたしの目の前からすうっと男は消えてしまった。
それと同時に再びせみしぐれが辺りを包んだ。蝉たちが一斉に鳴き出したのだ。何という大音響。蝉たちは狂ったように鳴いた。まるで言葉にならない何か、怒り或いは悲しみを表すかのように。
おまえたち、一体何をそんなに鳴いているのだ?まるで生命を削るように。
わたしの手にはいっぴきの蝉の抜け殻が残されていた。わたしはそれをシャツの胸ポケットに入れた。なぜそうしたのかはわからない。
「そろそろ発車の時刻でございます」
発車のベルと車掌の言葉に押され、わたしは列車に戻った。