第2話

文字数 3,066文字

 朝から処理に追われている大量の書類から目を離し、目頭を押さえる。疲れたなぁと心の中でつぶやいて、ため息をこぼしながら視線を上げると、机のふちから琥珀色(こはくいろ)の目がふたつ真っ直ぐにこちらを見ていて、ベオークは飛び上がるほど驚いた。

「ふ、ふ、副司祭。いったいいつからいらしたんですか?」
 こそこそ言いながらあたりを見回す。幸い、近くには同僚が一人いるだけで、上司は出払っている。そしてその同僚は、うとうとと舟をこいでいて、ベオークはほっと胸をなで下ろす。この事務室にガゼルがいることと、ベオークがその相手をしていることは、あまり望ましいことではないのだ。
「さっき」
 ぶっきらぼうな言いように、機嫌が悪いことが見て取れた。
「どうしたんですか?」

 ぶすっとしたまま、机のふちから目だけを出して黙り込むガゼルに、ベオークは「ははあ」と笑う。
「お仕置きされたんですね?」
 ぎゅっと眉根がよる。おそらくいつものあれだろうと、ベオークは見当を付ける。
「今日はどんなのですか?」
 ガゼルは悔しそうな顔をしたものの、観念したようにアゴを机の上に載せた。その口元には、先がピンと上に跳ね上がった実に立派な口ひげが生えていた。
 ベオークは思わず吹き出して、必死に笑いを押し殺そうとうつむきながら肩をふるわせた。
 これが司祭流のお仕置きであり、ガゼルにはこれが実に効果的だった。

「このいたいけな少年に、こんないかつい物をくっつけるなんて、司祭様の所行(しょぎょう)とは思えないね」
「授業をさぼったりするからですよ」
 まだ肩をふるわせながら涙を拭うベオークに、ガゼルは口をとがらせる。
「だって、こんなにいい天気になったのに、部屋にこもって記号配列の勉強をするなんて、そっちの方がどうかしてるよ」
「最近雨が続いてましたもんね」
「ベオークはこんな所に毎日詰めてて、よく平気でいられるな」
「平気じゃありませんよ。でも仕事ですからしかたありません。今日の授業はもう終わったんですか? 戻らなくてもいいんですか?」
「つまんねえこと言うなよ」
「副司祭、そんな言葉遣いだと、またジーナさんに叱られますよ」
「いいんだよ。ジーナだって憎たらしい言い方するんだから」
「何を言ってるんですか。司祭になった時に困りますよ?」
「そんなの何十年も先の話じゃないか。その頃には立派な大人になっててやるよ」
 ベオークがやれやれとため息をついた時、勢いよく事務室のドアが開き、上司のむさ苦しい顔がのぞく。

「おっと、熊男のお戻りだ」

 事務室に響いた声に、ベオークはぎょっとしてガゼルをふり返ったが、そこにはもう彼の姿はない。

「何か言ったかね、ベオーク君」
 濃いひげにふちどられた上司の口元がいびつにつり上がっており、さっと血の気が引いた。
「あ、いえ、その、いや……」
「ベオーク!」



「お前には副司祭の自覚が足りん」
 クリフォードは努めて重厚な声で言った。
「これまで奔放(ほんぽう)に育てておきながら、突然副司祭に就任したんだから大人しく勉強しろって言われてもな」
「もう法庁には、魔法でお前に敵う者はおらんのだぞ。それに彼らにはそれぞれに仕事がある。それをお前のイタズラや気まぐれのためにわずらわせてはならん」
「じゃあクリフォードが四六時中見張ってればいいだろ」
「ああ言えばこう言う」
 いまいましそうに言って、クリフォードは椅子の背にもたれる。ガゼルはと言えば、部屋の出窓に腰かけて、足をぶらぶらさせながら外を眺めている。まだ消してもらえない口ひげを見られたくないらしい。

「俺はもう、こんなせま苦しい所に押し込められてるのには飽き飽きしてんだ。何で司祭は外に出ちゃいけないんだ。こんな所に何百年も閉じこめられるなんて、俺はごめんだね」
「べつに監禁されるわけじゃない。必要以上にぶらぶらするなというだけのことだ。しかしお前、曲がりなりにも副司祭なんだ。せめてその言葉遣いだけでも何とかしろ」
 クリフォードがなかばあきらめたように言い、ガゼルは、はいはい、と手をひらひらさせる。

 ここテサ国に、次期司祭となるべき子どもが生まれて十五年になる。

 司祭とは宿命(ウィルド)の名を持つ、千を越す魔法使いを統べる大魔法使いであり、大賢者である。魔法使いがその血統によって【星】から魔力を引き出す力を受け継いでいくのに対して、司祭は唯一魔力を血で受け継がない魔法使いである。
 司祭は常にたった一人。司祭がいないことも、二人いることも、初代司祭が誕生して以来一度もない。司祭になるべき子どもは、この国のどこかに星の印を持って生まれ、その星の子の誕生を、魔力の源である【星】に告げられた司祭が、その子を迎えに行くのである。そして司祭が自ら百年かけて司祭に育て上げるのだ。

 もちろん親は我が子を手放したがらない。時には命を絶ってしまう親もいたと言うが、星を持った子どもの魔力はすさまじく、赤子の時点で家を破壊することすらある。そんな子どもを、司祭以外の人間が育てるのには無理があるのだ。
 そして生まれてすぐに親元を離すのは、生まれながらに司祭となることを運命づけられた子どもが、肉親に執着するのを防ぐためでもあった。司祭は驚くほど強い魔力を持つため、司祭は慎重に星を持った子どもを育てるのだ。

 そうして育てられたのがガゼルなのだが、少々育て方を誤ったか、とクリフォードは最近ちょくちょく反省していた。通常の十五歳であれば、少々腕白でもイタズラ好きでもかまわないが、彼は次期司祭となる身であり、すでに副司祭に就任済みなのだ。こんな風にイタズラ三昧では、魔法使いたちの信用を落としかねない。
 こんなことなら、もう少し育児に関しての書物を読むとか、経験豊富な主婦に取材しておくのだった、と今さらながらに思う日があったりもする。生を受けてからすでに二百五十七年が経とうとしており、様々な知識と経験、そして強大な魔力を有するクリフォードではあるが、子育ては始めてと言ってよかった。

「今日、東の方で何かあった?」
 ガゼルの問いに、クリフォードのため息が導き出された。
「今日もセデのあたりで暴動があった。乾きのひどかった所だ」
「あんなに雨降ったじゃないか」
「たった五日、しとしと降り続いただけでは降ったとは言えん」
 ふうん、と生返事をしてふり返ってみると、クリフォードは疲れたようにテーブルに肘をつき、その指先にひたいを載せていた。

「雨を喚べないのか?」
「どこかで日照りが続くたびに私に出向けと言うのか?」
「行ってやればいいじゃないか」
「バカを言うな。人々をひざまずかせて、恵みを与え、金の椅子にふんぞり返っていろと言うのか。冗談じゃない。人間はな、不運が訪れた時にこそ考えなければならんのだ。それに対処する(すべ)を自分の力で導き出さねばならん。それが魔法使い頼みでは困るのだ」
「そういうもんか」
「そういうものだ」

 首の所で束ねられたクリフォードの白い髪が、西日を浴びて金色に染まっていた。その光が、彼の顔に深い陰影を刻む。

 最近、クリフォードはよくこんな風に疲れた顔をする。もちろん、通常ではあり得ない年齢を考えれば、クリフォードは恐ろしく元気だったが、こういう時、ふと、ガゼルは不安になる。

 その陰うつな表情の向こう側で、クリフォードはいったい何を考えているのだろうか。暴動を収めるのは基本的に軍の仕事であるし、自分の素行について悩んでいるのであれば、それでもよかったが、それと違うことはわかっている。しかし、それをかいま見ることが、ガゼルにはまだできなかった。
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