第5話

文字数 3,440文字

「法印におけるファリア文字の配列定義はこれで終了です。何か質問は?」
 そう言って分厚い本を机に戻したジュリオの声が、微妙なふるえを含んでいて、ガゼルはよせていた眉をさらに引きよせる。

「マジメに授業をやってください、先生」
 ガゼルの抑揚(よくよう)のない声に、ジュリオは観念したように吹き出した。
「だって君、そのヒゲはないよ」
 ジュリオはもう一度ガゼルの方を見やって、また笑った。今回のヒゲはいつものものよりずっと長くてなめらかで、さらさらとガゼルの腹の辺りまでたれている。ガゼルの麦わら色の髪と、その真っ白なヒゲが全くかみ合っておらず、その取って付けたような違和感が何とも言えない。

「先生、傷つきます」
「本当にちょっとは反省してください。それではこっちも授業に集中できません」
「そういうことは司祭におっしゃってください。これまで国中を駆け回ってきたのに、突然こんな所に押し込められて、礼儀正しく、身を慎み、話すときには美しい言葉を選び、足音もひかえめに。魔法使いの手本となれるよう、指先ひとつ動かすのにも神経を使うこと。なんて言われても、そう簡単には直りません。それなのに、毎回毎回こんなへんてこなヒゲをくっつけられては、もう立ち直れません」
 どこかうさん臭いガゼルの言葉遣いにジュリオは苦笑して、ガゼルの机に肘をついて顔をのぞき込む。
「君の気持ちはわかりますよ。だけど、どちらも司祭の愛情じゃないですか。君に立派な司祭になってほしいのは当然です。でも副司祭になれば原則法庁にいなければいけませんからね。そうなる前にテサという国を見せてあげたかったんですよ、きっと」
 そう言ってジュリオがにこりと笑むと、ガゼルは納得しなければならないのだろうがしたくない、というような微妙なふくれっつらを作った。

「ジュリオは十五のとき、何してた? やっぱりマジメに学院に通ってたの?」
 うーん、とジュリオは少しクセのある栗色の髪をかき混ぜるようになでながら、天井に目を向ける。
「その頃は確か、学院でファリア文字の配列と素数との関係を研究し始めた頃ですね」
「ああそう……」



「やってらんねぇ」
 ほとんど口の中で言って、ガゼルは屋根に開いた穴から顔を出す。法庁の中で気が休まるのは、もうこの屋根の上しかなかった。どの魔法使いもクリフォードの手下となり果てていて、と言うか、そもそもクリフォードは司祭なので当然なのだが、少しでも何かあるとすぐにクリフォードに知れてしまうのだ。

 ここなら都合の悪い人間はやってこない。ここへつながる抜け穴を知っている者は限られている。クリフォードも知らないではないが、確か今当主たちと会議中のはずだった。
 まったく厄介なことになったもんだ、とガゼルは深々とため息をついた。そしてハシゴを登り切り(むね)の上に立つと、金の鐘がつり下がっている小さな塔の脇から細く煙が上がっていた。

「こら、会議をさぼるとは何事だ」
 ガゼルがクリフォードの口調をまねると、ジーナはふり向くでもなく持っていたタバコ入れをほうり投げた。そしてそれは見事にガゼルのひたいを襲う。
「いってーな! 何すんだよ!」
「そんなんじゃ一生ヒゲ面だね」
「ジーナこそ、また会議さぼってるじゃないか!」
「当主の会議だろう?」
「だけど、オセルはその、ジーナがいないと会議にならないじゃないか」
「曲がりなりにも当主なんだから、たまには一人でやってもらわなくちゃ困るよ」
 面倒くさそうに言って、ジーナはまたキセルの煙を吐き出す。

 オセル家当主レーギ・オセルは御年八十五歳。少々記憶力があやしくなってきており、耳も遠い。そして会議の大半は居眠っているということもしばしばだった。足も悪くしているために、その介助をしているジーナが必然的に毎回会議をこなすハメになるのである。
 オセルは昔から当主をやりたがらない家系で、当主の位に就くことを『ゴミ箱へ入る』と言っている。もちろん、他の魔法使いの家では当主の位は名誉なことであり、交代のおりにはよくもめている。

「もういっそのこと、ジーナが当主になってしまえばいいのに」
「バカなこというんじゃないよ。お前と当主のお守りで精一杯なのに、誰がゴミ箱になんか入るもんかね」
「俺はもうジーナにお守りしてもらう必要なんかないね」
 ジーナは無言のままガゼルの方へ手を差し出す。それにタバコ入れを置いてやりながら隣にガゼルも腰を下ろす。今日も王都は恨めしいほどによく晴れていた。もう、あの日の下を駆け回ることができないのかと思うと、ずんと胸の奥が重くなった。

「あぁ。俺はもう人生に疲れたよ」
 ガゼルが悲愴感たっぷりに言うと、ジーナはぶはっと煙を吹き出して激しくむせ込んだ。おどろいてガゼルが背中をさすると、どうやらジーナは笑っているらしく、ガゼルは顔をしかめて手を止めた。
「あっはっはは。生意気に何言ってんのかね」
「何だよ。少年に悩みがないと思ったら大間違いなんだぞ」
「そりゃあ、ちまたの十五歳なら悩ましいこともあろうさ。でもお前には人生にくたびれるほどの悩みなんかあるもんか」
 なおも笑っているジーナを一瞥(いちべつ)し、ガゼルは抱えた膝にふくれっ面を乗せた。
「ジーナみないなのが少年を非行に走らせるんだ」
「じゃあ聞いてやるよ。何をそんなにお悩みなんだい」
 ジーナがニヤニヤしながらふり返ると、ガゼルは「もういい」と言って目をつぶった。その鼻先を不穏な気配がかすめていった。
「……最近、どうもおかしいよね。国のあちこちから悪いにおいがする。それに当主の会議って、こんなに頻繁(ひんぱん)にやるもんなのか?」

 ジーナはひょいと眉を持ち上げたものの、またニヤリとする。
「未来の司祭様は鼻がいいね。そうさ。この国は今どうしようもなくゴタゴタしてるのさ」
「日照りのせい?」
 去年の夏は雨が少なく、秋の実りは淋しいものだった。収穫高が例年の半分ほどに減少した地域もあったという。
「それもあるけどね」どこか物憂げに言ってジーナは、カツンと屋根に打ち付けてキセルの灰を落とす。「どこの誰だか知らないが、【星】の魔力を解放するすべがあるって言いふらして回ってるみたいなんだよ」
「解放ってまさか、魔法使い以外の人間にってことか?」
「一般人は何でも大きなことをする時には、魔法使いに頭を下げてお願いしなくちゃならない。それに時々、ごうつくばりな魔法使いが法外な料金を請求したりするからね。魔法が自分たちにもあつかえたらどんなにいいだろうって、それこそ大昔からみんな思ってた。そして、去年は不作で夏が来る前に倉庫の食料が淋しくなった。そんな時に、本当は魔法を解放する技があって、魔法使いが魔法を独占するために隠してる、って知ったらどうすると思う?」
「独占するために隠してるんじゃない。魔法を管理してるんだ」
「何百年も魔法使いはふんぞり返ってきたんだ。誰もそんな風に考えちゃくれないさ。それに、最近じゃ魔法使いの中にも解放すべきだと言う者も出てきてるみたいでね。いろんな所で騒ぎも起こってるし、話はどんどんややこしくなってきてるんだよ。
 だいたい、そんなに大騒ぎするほどのことじゃないのにね。だいぶ灌漑(かんがい)だって発達したんだ。日照り続きで不作だっていっても、深刻なのはセデのほんの狭い地域での話さ。そんなの、周りがちょっと助けてやりゃあいいだけのことだろう。
 要は、みんな魔法使いがねたましい。だから面倒を魔法使いのせいにしてしまいたいだけなのさ。そうすりゃ魔法使い様が何とかしてくれるはず、王様が何とかしてくれるはず、なんて甘いことを考えてんだよ」

 ふうん、と憂うつに言ってガゼルはため息をついた。
「そのことなのかな」
「何が」
「最近クリフォードがちょっと変って言うか、何も言わないんだけど、なんか上の空って感じの時があって。何かをすごく悩んでるんだと思うんだ。ジーナ、何か知ってる?」
 見上げてくる琥珀色の瞳がいつになく不安な色を宿していて、ジーナは「いや」と首をふりつつも、なるほどと苦笑した。

「今度、またクリフォードのハシゴを拝借して、市場にでも行ってみようかね」
 そう言ってジーナがニヤリとすると、ガゼルもまたニヤリと笑う。
「また何か値の付きそうな物でも見つけた?」
「副司祭様が何をおっしゃいますやら。街の様子を見聞することも必要かと思って申し上げただけのことですよ」
「じゃあ、また何か探しとく」
 ガゼルが楽しげに言うと、ジーナは「こら」とその頭をこづいた。
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