第1話

文字数 2,402文字

 強い風にバタバタと法衣(ウルムス)(すそ)がはためく。
 パラパラと顔にかかる麦わら色の髪をうるさそうにかきあげ、ガゼルは目の前に広がる王都ホルトゥス・レグルスを見わたす。今日もよく晴れていたが、どこかくすんだ空は王都の(よど)みを映しているようで、その東の方からわずかに漂ってくるものに、ふと目を細めた。

「北は雨、南は楽、西は良好、東には(うれ)い」

 ぽつりと言って下を見やると、自分を呼ぶ声がかすかに響き、緑の瓦の上に立ち上がってうんと伸びをする。
 バタバタと、すぐそばで星の紋章を描いた大きな旗が風にたなびいていた。

「さあ、嵐が通るぞ」

 心底楽しげに言って、ガゼルは屋根の上から飛び降りる。ふわ、と風が迎え、それに乗って滑空する。噴水の広場にアレフの姿があり、杖をかまえたのがわかった。

 アネモス

 言葉に導き出された魔法が、杖の端からはじけ、それは大きな風となった。
「わっ」
 思ったより強く吹いた風にあおられて、バランスを崩したガゼルが地面まであと数メートルというところで、アレフが杖をふり彼を地面にたたき落とす。そして、その杖の先をガゼルの腹の上に突き付けて押さえ込む。

「いってー」
 非難がましく顔をしかめてみせるが、アレフは何とも恐い顔でガゼルを見下ろしている。
 素行の悪いガゼルの前ではたいてい眉根を寄せていたが、彼はいたって真面目で温厚な青年である。いつもはきれいに整えられているクルミ色の髪が、先ほどの風で少し乱れていたが、いつものようにきっちりと留められたボタンや、杖からこぼれる魔法の正確さが、彼の人となりを表していた。

「今日は記号配列についての勉強を、と言ったはずだが」
「だって、退屈なんだもん」
 そう言って口をとがらせるガゼルに、アレフは疲れたようにため息を落とす。
「もうお前も副司祭になったんだ、もう少し大人になってもらわないと困る。そんなことじゃ修行がいつ終えられるかわからないぞ。百年というのは大まかな目安なんだからな」

 待ちかまえていた口答えがなく、不審に思って目を向けると、ガゼルはにっと不敵な笑みを浮かべた。

 まずい──そう思った時には、ガゼルが器用に足を絡めてアレフの杖を奪っていて、跳ね起きると同時に杖の先でアレフのひたいに触れる。と、アレフの体が石のように固まる。

「おい、こら、何するんだ」
 チチッとガゼルは憎らしく舌打ちをする。
「まだまだ甘いね」
「おい! 副司祭!」
 アレフのあわてた声ににこりとして、ガゼルは彼から少し離れた場所に彼の杖を置くと、楽しそうに駆け出す。
「こらっ! ガゼルー!!」



 アレフの叫び声を尻目に、ガゼルは弾むような足取りで庁舎へ戻る。広い廊下を進み、左へ曲がろうとしたところで、バーチの姿を見出してきびすを返す。

 今日はわりと人数が出ているらしいと悟って、ガゼルは柱の影に身を潜める。アレフは副司祭であるガゼルの十人いる教育係の一人で、今日は彼の担当日だったのだが、バーチはガゼルの教育係というわけではない、法庁勤めの魔法使いである。ただ、アレフと懇意(こんい)にしているために、こういう時にはよくかり出されている。

「そのへんが、運の尽き」
 ぽつりと言って、ガゼルは柱の影から(おど)り出て、流れるような手つきで法印を描く。

「あっ! 副司祭!」

 驚いた声が廊下に響きわたったが、その時にはもうバーチの姿はなく、代わりに羊が一匹呆然と立ちつくしていた。

「アレフは噴水の所にいるよ」
 バーチはあわてた様子でメエメエ言った。それにおかしそうに笑って、ガゼルはまたも楽しそうに駆けていった。



「まったくお前たちも()りないね」
 面倒くさそうに言いながら、ジーナが羊と石化したアレフに杖の先で触れると、アレフは呪縛を解かれて草の上に倒れこみ、羊の毛がどんどん薄くなってバーチの姿を取り戻す。
「ああ、ジーナ。いつも申し訳ない」
 バーチはいつもほのかに赤らんでいる頬を、さらに赤らめて頭をかいた。その横でアレフが頭を抱えて天を仰ぐ。
「あのガキ! またしても授業が遅れてしまうじゃないか!!」
 その様子にやれやれと首をふって、ジーナが杖を彼に返した。
「あんたみたいに真面目なやつには、あの子は荷が重いだろうね」
「真面目の何が悪い!」
 いや、とジーナは苦笑した。
「品行方正な子どもと同じように扱ってたんじゃ無理だってことだよ。ちったあ、そのできのいい頭を使いな」
 そう言ってジーナはこめかみをコツコツとつつき、それにアレフは何とも言えないうめき声を上げる。もだえるアレフをバーチがまあまあとなだめ、ジーナは内心舌を出しながら庁舎へ戻る。



 たったっ、と軽快に走りながらガゼルは次々と追っ手を戦闘不能にしていった。
 とにかく今日は授業など受けている気分ではない。五日も続いた雨が止み、ようやく空が機嫌を直したのだ。こんな時にわざわざ狭苦しい部屋に詰めていることはない。部屋の中にいるのは嫌いだった。ガゼルはどんな時でも空の下にいたかったし、一カ所に留まっていることが嫌でしかたなかった。

 さあ、どこへ行こう。街へ出てもいいし、クリフォードのハシゴを使ってどこか遠くへ行くのもいい。
 そんなことを楽しく考えていた時、出し抜けに廊下の壁から杖がつき出した。とっさにそれを跳び越えようとしたのだが、それに足をすくわれ、ガゼルはドサッと床にたたきつけられた。

 起き上がろうとしたものの、背に触れている杖からこぼれる魔法のせいで、胸が床から離れない。

「ずいぶんと機嫌がいいようだな、ガゼル?」

 そのゆったりとした声音に、今まで浮き立っていた心が急速に冷やされて、嫌な汗がにじんだ。

「あ、あの、ちょっとトイレに……」
「ほう」
「違うんだ、クリフォード。これは、その……」
「仕置きが必要だな」
 見なくても、彼が絶対に意地悪な笑い方をしているだろうことがわかる。
 杖から新たな魔法の気配がする。
「ああっ! ごめんなさいっ!」
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