第15話

文字数 3,427文字

 ドアを閉めると力が抜けて、後ろ手に閉めたドアによりかかると、ガゼルはそのままずるずると座り込む。約三十年ぶりに見る部屋は、やはり記憶にあるままの姿で、机の上に無造作に置かれたペンの位置まで変化はない。ただその記憶と違っているのは、日が落ちて暗くなっているということぐらいである。

 何も変わっていない。当然だった。この部屋に流れた時間はたった十一時間なのだ。

 思わず顔を手でおおう。

 何と遠い隔たりだろうか。置いて行かれたのは、いったいどちらの方なのだろう。自分か、それとも世界なのか。何ひとつ変わっていないこの世界全てがウソくさく、全てが絵空事であるかのようだった。




 やはり、先ほどのガゼルの様子が気になり、適当にみつくろった食事を持って、ジーナはガゼルの部屋へ向かった。
 ノックしてみるがやはり返事はなく、そっとドアを開ける。部屋の中に明かりは灯っておらず、眠ってしまったのだろうかと見回してみると、窓辺の椅子にガゼルの姿があった。

「起きてるんなら、明かりぐらい点けたらどうだい」
 明るく言ってみるが、ガゼルは椅子の上で膝を抱えこんだまま、顔を上げようとはしなかった。
「少しみつくろってきたけど何か食べるかい? 寝てるのかい? ガゼル?」
 言いながらそばの机の上にトレイを置き、ガゼルの肩に手を置いてみると、わずかに肩が揺らぐ。
「ジーナ」
「なに」
「人の記憶って、どういうものなんだろう」
「記憶?」
「記憶って、人の中にある魔法で頭に焼き付けるんだろうか? それとも、何か別の魔法だと思う?」
「魔法かどうかって言われても……」
 ガゼルはいったい何を言わんとしているのか。ジーナは尻つぼみに言ってそばにあった椅子を引き寄せて腰を下ろす。
「どうしたんだよいったい」
「……忘れないんだ」
「忘れない?」
「昔、いや、今日かな、そう、今日ここを出た時のことも、クリフォードと法印をくぐって過去へ行ったことも、そこで何をしたかも、全部覚えてるんだ。四百二十一日目の朝何の夢を見たか、千四百五十六日目の天気も、その百日後の夜にクリフォードと何を話したかも、まるで今日起こった出来事みたいに覚えてる」

 ガゼルはそろそろと息をつくと、そこでようやく顔を上げたが、明かりを点けない部屋は暗くて表情はうかがえない。

「たぶん、そうなんだ。それが私……俺の身に『今日』起こったことだからなんだ。俺には、三十三年分の時間が『今日』の中に流れた。
 だから、覚えてるんだ。朝、何を言って出かけたか。私は『今日』確かに、修行を拒否するつもりで出て行ったんだ。だけど、私は昨日も十日前も、十年前もちゃんと修行をしてた。もう、魔法のあつかいで困ることなんかほとんどないし、ファリア文字も記号の配列も全部覚えた。俺は『今日』出て行ったのに、もう『今』は朝よりもずっと司祭に近づいてて、クリフォードが魔法を解放することは、しかたないのかもしれないって、思いかけてるんだ」
「ガゼル」
 思わず肩をつかんだジーナの手を取る。
「ジーナ、私はいったい何になるんだろう。こんなものを跳び越えて、いったい何になるっていうんだ?」
 かすかな月明かりがガゼルの瞳に映って、まるで泣いているように見えた。

「旅の中で、多くの死を見たよ。病で死ぬ者、人の手で殺される者、獣に食われる者、老いて死ぬ者、自然に殺される者、自分を殺す者。そしてそれを私が助けてやることができなかったことも、ちゃんと覚えてる。思い出すと今でも苦しい。なのに、俺はクリフォードが死ぬことをしかたがないと思うのか? 『今日』俺は本当に、絶対に魔法の解放をさせないつもりで出かけたんだ。みんなからクリフォードを奪うことだけは止めようと思って……」
「もういいよ」
 それ以上言うなというように、ジーナはガゼルの体を抱え込む。その体は強ばっていて、しきりに息を吸い込もうとあえいでいる。
「ちゃんと息を吐きなさい」
「ジーナ、このまま何も感じなくなったらどうしよう。誰が死のうと生きようと、うれしくも悲しくもなくて、それでもあと数百年も生きていくなんて、そんなものが司祭なのか? 司祭っていったい何?」
「大丈夫だよ、ガゼル」できるだけ穏やかな声をと思うが、のどの奥が熱くてたまらなかった。「お前は大丈夫だ。だいたい、クリフォードを見ればわかるだろう? 何も感じてないように見えるかい? そりゃあいつもは腹が立つぐらい何にも動じないけど、お前のこととなるととたんに、怒ったり迷ったり喜んだりしてる。二百五十七年生きてああなんだよ。お前だって、心が動かないような人間になんてなれやしないよ」
「そうかな」
「なれるもんならなってみなよ。じょうずに怒らせてやるから」
 憎らしい言い方に、ガゼルがふと笑みをもらすと、ジーナはガゼルの背中を軽く叩く。
「ありがとう、ジーナ」
「なに、私はまだお前の守り役だからね」
 またガゼルは小さく笑った。



 勢いよく開いたドアに、クリフォードは目を落としていた本から顔を上げる。
 ジーナは大股に歩み寄ると、クリフォードの胸ぐらをつかんだ。
「こらこら、ジーナ。魔法使いが司祭の胸ぐらをつかむなんて、そうそうあっちゃいけないことだ」
「もう修行はやめにしな」
「どうして」
「あの子の様子を見てごらんよ。これ以上は無理だ」
 ジーナの瞳の鋭さに、クリフォードはやれやれと苦笑する。
「時をわたったんだ。多少は混乱もするさ」
「多少? バカ言うんじゃないよ。だいたい、時の魔法は使うことも知ることも禁止されているはずじゃないか。司祭のあんたがそんなものを使ってどうするんだ」
「どうして禁じられているか、わかったろう?」

 思わずジーナは目を見開いた。

「時を自由にわたり歩くには、人は(もろ)すぎる。人も自然の生き物だ。自然の流れの中に生きるようにできている。不自然な時の中では、どうしても対応が難しい部分が出てくる。そして、過去をくつがえすことも、未来をのぞくことも、せっかく天から与えられた学びのチャンスを自ら減らすことに他ならない。だから、時の魔法は失われたのだよ」
「あんた、それをわかってて……」
「他にすべがなかった」
「だからって、クリフォード、ガゼルを何だと思ってるんだ! あんたがここまで育ててきた子じゃないか。何としてでも他の方法を探してやろうとは思わなかったのか」
「君がそれを聞くのか?」
 そのクリフォードの笑みに、ジーナは息をつめる。そしてそれ以上言葉を(つむ)ぐことができずにうつむいた。

「ジーナ、ガゼルは本当にできのいい子なんだ。必ず乗り越える。それに、彼が司祭を継いだ後も、君たちがそばにいてくれるだろう?」
「私らじゃダメなことだってあるよ」
 クリフォードは困ったように笑って、まだ(えり)をつかんだままのジーナの手をはずすと、そのままその手をにぎる。

「いつも名前を呼んでくれてありがとう、ジーナ」
 唐突な言葉に、ジーナが顔を上げるとクリフォードはにこりと笑う。
「いきなり何だよ。今、そんな話をしてやしないだろう」
「いや、君と話せる時間は本当にあとわずかだから、言うべきことは思い出したときに言っておかなければと思ってね」
「何言ってるんだよ」
「私はいたってまじめに言ってるんだ」そう言ってクリフォードは、ジーナの手をにぎっている手元に目を落とす。「カルディ前司祭がいなくなってからは、もうずっと名前を呼ばれることもなかったからね。本当に自分の名前なんて忘れかけていたんだ。だけど君は、魔法使いのくせに始めから最後まで私のことを司祭とは呼ばなかったね」
「二、三回は呼んだよ」
 記憶にないな、とクリフォードはおかしそうに笑う。
「だけど、名前を呼ばれなくなるというのは淋しいものだ。だから、これからもガゼルの名を呼んでやってくれないだろうか。君が付けた、美しい名前だ」
 ジーナはキッとクリフォードを睨むと、その手をふりほどいた。
「あんたに言われなくとも、私はガゼルを司祭様なんて呼ぶ気はないよ。だいたい、ガゼルが司祭になるのなんて、私が死んだ後だろうと思ってたんだからね」
「ありがとう、ジーナ」
 そう言ってクリフォードがまた笑むと、もういいよ、と怒鳴ってジーナは勢いよく司祭の間を出て行った。その後ろ姿を見送りながら、クリフォードは肘をついた手のひらにアゴをのせる。

「君にはいつも怒鳴られてばかりだったね」

 ぽつりと言って苦笑すると、手元にあった本をふたたび開いた。
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