わたし編 七話

文字数 1,107文字

 わたしはいつもの両親宅への定期便に、次男とおもちを載せた。おもちはまだ小さい事もあり、大人しく軽自動車に収まっていた。
 若年性アルツハイマー認知症を患う母は縁側のいつもの座椅子に腰かけていた。認知症では、身だしなみも委細構わなくなってしまう。伸びた白髪は櫛も通さずに首、肩付近で暴れ、化粧気のない素肌は色艶を失う。全身に精気がない。一週間も経たないのに、十歳も老けた印象だ。
 かかりつけの医師は、デイサービスなどを利用して近隣の介護施設で他人と触れ合うことを奨めた。確かに何か変化が無くては、認知症は日増しに進んでゆくように思われる。近頃ではわたしの名前まで忘れかけている。
 ただ、彼女は出掛けることを頑として受け付けなかった。こんななりで恥ずかしい、がその理由だった。同性としては痛いほど理解は出来た。なので、わたしは孫とネコをあてがうことにしたのだ。これは変わり映えのしない、日常の変化に成り得る。

 母は、ボロボロと泪を流し始めた。
「飛翔(ひしょう/兄の名前)、おまえはまだ生きてたんだ、おもちと一緒に。わたしはお前たちふたりのことを忘れたことはないよ。よく来てくれたね。お母さんは嬉しい」
 わたしは父と顔を見合わせた。
 まぁ、認知症にありがちな記憶錯誤だろうが、母の顔には血の気が戻っていた。母は懸命に立ち上がり台所に向おうとする。父に、何か飲み物とお菓子はないかと尋ねる。
「ああ、咲良も来てくれたんだ」
 私の名前まではっきりと口にした。もう一年以上、名前で呼ばれたことはない。オカシナ顔付をしている次男には、飛翔(叔父さん)で通しなさい、と頼んだ。息子も認知症のことはよく知っている。先の正月には、三度もお年玉を頂戴した。
「お年玉いっぱい貰ったんだから、お祖母ちゃまのいいなりにしてね」
 植物観察が身についた彼は、両親宅の花壇にも気を配る。荒れ果てた庭を整理し始めた。その横の芝生の上をおもちは転げ回っている。
 母はその様子を微笑みながら見つめ、時折、わたしと父に近況を尋ねた。
「飛翔は今年いくつになるんだっけ? 癌の治療ははかどっているのかい?」
 などと、突拍子もない事柄だけど、父とわたしは辛抱強く付き合う。これが母の現実なのだ。否定していいはずがない。
 この行為は、その後の次男のお仕事のひとつになったことは言うまでもない。ただ、いつも帰り際に、ポチ袋(お小遣い)を頂戴した。おもちの餌代(袋)はわたしが頂く。
 父の話しでは、わたしたちが帰ってからも母は、兄とおもちの想い出ばかり話しているそうな。しばし、認知症を吹き飛ばした楽し気な語らいは続く。
 わたしはひとつ親孝行ができた。おもちのお蔭でね。
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