兄編 二話

文字数 2,243文字

 その朝、二階から降りて来た母は、すぐに異変に気付き父親に相談した。結果、仔猫を家にあげることに決まった。冷え込んだ早朝に、カラスから仔猫を護ろうと、必死に庭先で物干し竿を振り回している病床の息子を見たら、そう判断するより仕方がなかったのだろう。ただ、母はお湯で絞った布で丹念に仔猫の足先を拭った。
 幸い、九時過ぎには主治医と連絡が付き、大丈夫だろう、との見解も貰った。実際に持ち上げると仔猫は実に軽くて小さかった。声もニャーニャーではなく、ミャンミャンと、か細く聞こえる。仔猫は、取り囲むように正座した家族四人の膝頭に、順繰りに鼻先を摺り寄せて来た。ご挨拶のつもり。その仕草がなんとも愛くるしかった。
 名前を決めることになった。まずは古典的な、たま、とら、ちび、から始まる。そこに女の子であることを加味して、雫、楓、澪、などを経てフランソワーズ、カテリーナなどとなる。だけど、どう見てもミックスネコなので、兄が、おもちはどうかと言い出した。
 ちょうど正月で、毛の柄模様が焼き餅についた(おこげ)の具合に似ていたからだそう。誰も異存はなかった。とうのおもちは兄の布団に潜り込んで眠ってしまった。
 母は飼いネコに必要な用品を買い揃えて来た。餌皿とお水皿、それに肝心な餌。仔猫とのこともあり、それ用の固形のものとジェル状のものを数点、それとトイレ、猫砂、爪とぎ。首輪も三種類も買って来た。
 おもちは元気よく餌を食べ、それはそれはおっきなウンチを出した。それを見て皆が笑った。あんな小さな体なのに出るものはデカい。そのアンバランスが可笑しかった。
 さてさて、おもちはまずは兄の布団の周辺を活動の拠点に据えたようだ。野良猫ちゃんから暖かなお家(うち)に引き上げてくれたんだから、兄を第一に考えなくては仁義を欠く。そこから少しずつ歩き廻る範囲を広げてゆく。なんにしても鼻クンクンだ。それと、兎のようなお耳。よく伸びる。
 ネコ族の嗅覚・聴覚は優れたものだ。兄の元を離れてまずは台所に。そこに餌と水が置いてある。猫の視線から見ると、この世界はとてつもなく広大なものに見えるはず。また反面、ちょっとのことが恐ろしいものに映る。例えば、ドタドタと母が階段を下りる音、また、固定電話やスマホの着信音。そのつど、おもちは身を縮こませ、鼻を持ち上げ、耳をグルグル回転させる。

 一方、わたしたちは、始めてのネコ育て。全ての情報をネットから収集した。端から置き餌は成長には悪いらしい。決まった時刻(夕方)に定量与える。なので今は餌皿には何も入っていない。おもちは一度クンクンと嗅ぎ、空なのを確かめてから台所の隅々を歩き廻る。
 ネコはとにかく薄暗く狭い場所が大好き。冷蔵庫と食器棚のわずかな隙間に入り込む。ただ先には何もないので、バックして出て来た。万事そんな具合に探検して回る。台所に飽きると、今度は玄関に向かう。ここには猫砂(トイレ)が置いてある。
 教えてないのにでっかなウンチをした。これは市販の猫砂にネコの本能を搔き立てる臭いを忍ばせているらしい。自然と排泄の場所と分かる。今もトイレに入って、砂の臭いを嗅ぎ、前脚で砂をほじる。ただ、用はないらしい。直ぐに出て、玄関の隅々を廻る。置いてある靴の臭いからこの家族のものだと判定しているようだ。
 次いで廊下を戻って、本物のトイレを過ぎて階段下へ。目いっぱい身体を伸ばしてようやく一段上ったが、道は遥か彼方。どうやら上るのは諦めたらしい。廊下に戻り、別のルートで兄の部屋に戻って来た。これだけで三十分かかった。でも、仔猫にとっては大冒険。疲れ果てて、横たわる兄の枕元で蹲ってしまった。

 次の日、日曜日の朝に一大事が起きる。おもちの姿が見えなくなった。兄が大騒ぎをする。外に出て行ってしまったのではないか。二階から両親とわたしが兄の元へ。そこから、おもちの捜索が始まる。一階のどこを探しても見つからない。というか、そんなに広い家ではない。まだ二階には自力で行けないので、場所は限られる。
「おもち、オモチ、何処にいるの?」
 父は庭先に出て外を捜し始めた。ただ、兄によると、本日はまだサッシ窓を開けていないという。昨夜は確かにおもちと一緒に床に就いたと主張する。では、玄関から堂々と出て行ったのか? 犯人は、今朝、新聞を取りに玄関口に出た母と断定され、皆に非難される。
「ホントに、ドアを開けた時に脚元にいなかったのか?」
 追及は熱を帯びる。焦る、母。
 と、私は兄の部屋の押し入れが少し開いているのを発見した。もしかして、私は押し入れの探索を開始した。なんで普段から整理しておかないのか。母はこ煩いくせに、自分の領分はゴチャゴチャにしている。ひとつずつ、置いてあるものを取り出す。
 そして数分後に、一番奥にしまってある、衣類が詰まった段ボールの中に、寝ているおもちを発見した。みなの心配をよそにちっちゃく丸くなって寝ていた。
「おもち、居たよ、押し入れのなか、、」
 みな安堵しバカバカしさに呆れる。兄は、まだ寝帯びているおもちを抱きしめた。
「なんだ、庭でカラスにやられたのかと思った。心配かけやがって…」
 その時、この言葉に家族全員が顔を見合わせた。
 今まで心配事と云えば、兄のことだけだった。それなのに兄は、おもちの心配をしている。母も父も、わたしも笑い転げた。本当に心底から可笑しかったのだ。
 そしてそれは、現実から一歩遠ざかることが出来た、はじめての瞬間でもあった。 
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