わたし編 二話

文字数 2,709文字

 わたしは子供たちから手が離れたこともあり、近所のスーパーで品出しのパートを始めていた。少しでも生活の足しにしようとした。けれど、コロナ禍であっさりと仕事を失う。子供たちの成長の伴い、教育費が家計に重くのしかかる。二人の塾費用だ。
 これには悩まされる。なにしろ小学生でも毎月ひとり万近くの出費となる。学年があがるほど高くなる。まだ、私立中学受験のためではなく補修目的だからよいが、受験用だとこの三倍もかかる。よく世間では「貧困負の連鎖」というが、この金額に如実に表れている。
 また、この塾は生徒たちの社交の場ともなっている。どんなに頭脳明晰な子でも塾に通う。ハブられないためだ。さらに、野球クラブチームのようにママたちの親交の場ともなる。これは、大抵の場合、自宅の近くの塾を選ぶため、学区域より緊密な関係となることが多い。

 ママ友たちは月に数回、集ってランチを楽しむようになっていた。常にSNSで流行の、映えるスポットを訪ね歩く。七人の固定メンバーで、気弱で優柔不断なわたしはいつも断れないでいた。お金もかかるし、そんなに食べれば太る。つましい夕食を子供たちに敷いてる手前、ママだけ美味しい物を食べる訳にもゆかない。
 女子は喋るだけで楽しい。これはストレス発散にもつながる。他人(ひと)をそしるは蜜の味、と言われるが、夫の悪口から始まって、姑(しゅうとめ)、担任の先生、学校長、クラスのママ、と対象は果てしない。たぶん、このメンバーから外れれば、陰口の矛先になるだろう。そう考えると恐ろしい。
 わたしはいつの日からか、胃薬を持参するようになっていた。七人の声を聴くと胃がキリキリと痛み出すようになった。神経性胃炎の典型的な特徴らしい。

 わたしにはもうひとつ、悩みがあった。それは、母が若年性アルツハイマー症に罹ったこと。まだ六十代での発症だった。父は古希を迎え、持病の脊椎管狭窄症による間欠跛行で満足に歩けなかった。支援にゆくのはわたししかいない。
 週に一度は郊外の両親宅に向かい、一週間分の買い物と食事の用意をする。言うのは簡単だが、相当な労力だ。しかも、年々年老いてゆく両親を見るのはそれだけで辛いものがある。ましてや、認知症の進んだ母は過去の記憶があやふやとなる。親子の絆が徐々に失われる。そんな切なさも味わう。
 わたしは鬱々としだし、時に爆発することもたびたび。その都度、被害に見舞われるのは家族たち。家事を何もしてくれない夫とは言い争いが絶えず、子供たちの不行跡には罵声を浴びせた。ただ子供ちも大きくなり反抗するようになる。もはや、ただの叱りでは通用しない。時に、理不尽と感じた時には、長男から「黙れ、クソばばあ」との激しい抵抗にも見舞われる。
 さらに、悩ましい事件が発生した。長男が万引きで補導されたのだ。場所は、近所のショッピングモール、万引きしたものは、スポーツ用品専門店に並ぶプロテインだった。2500円のひと缶を背負ってたリュックの中に詰め込んだ。
 店前や店内で挙動不審な動作を繰り返していた処を、たまたま巡回していた万引Gメンに捕縛された。小学生とのこともあり、まずは親に通報が来る。わたしはスマホで、ただちにショップモールの店長室に呼ばれた。
 接待用のソファーに息子は小さくなって座っていた。隣には万引Gメンが、正面にはモール全体の店長とスポーツ用品店々長が相対していた。わたしはまるで、コメツキバッタのように、何度も頭を下げて謝った。

「万引は軽く見られがちですが、窃盗罪です。また、常態化すると各種の暴力事件にも発展します。今回は初回でもあり、警察並びに児童相談所への通告は差し控えますが、ご両親からよくよくお話ししてください。なお、商品は返還して貰えれば、よいとのお店の判断もあり、弁済の必要はありません」
 わたしは、ことが荒立たなかったことに内心ホッとした。ソファー机にはリュックから取り出されたプロテイン缶が申し訳なさげに所在なく置かれていた。しかし息子の方はとうとう謝罪の言葉もなく、頭ひとつも下げなかった。
 もちろんのこと、どうしてプロテイン缶なのか、ワケも話そうとしなかった。ここで怒ってもなんの解決にもならないことをわたしも気付いていた。他人のものを盗むことが悪い、なんてことは小学生だって知っている。
 ただ、繰り返せば、タダでは済まない事をわたしは彼に知らせた。警察官に取り調べを受け、未成年者の場合には管轄権を持つ児童相談所に送致される。児相ではとことん理由を聞かれるし、その後も監視の対象になる。それは、あなたの将来にとってマイナスになるよ、と伝えた。
 その晩のこと、わたしは夫に事実を伝えた。夫は深刻には受け止めなかった。よくあることと、自分も幼少期に文房具屋さんでカッターナイフを万引した実話を披露する。そして、プロテインは筋肉増強のためのサプリメントだし、野球をやっているから単純に身体を大きくしたかったんじゃないか、と結論付けてしまった。
 でも、それだったら、わたしにひとこと言えば、彼の預金通帳(お年玉などを貯めたもの、数万円はある)から出してあげたのに。
 ことは、そう単純なことではない気がわたしにはした。その晩のこと、長男の部屋からはすすり泣く声が聞こえていた。

 悪事千里を走る―

 その諺の通りに、長男の万引事件は学校中に広まった。警察やら自相から警告があった訳ではないので、学校側は聴いて聞かぬふりを決め込む。ただ否定しないのだから噂はひとり歩きしてゆく。彼は悪い子のレッテルを貼られることになる。当然、親しかった友人たちも一歩引くし、クラスの中でも孤立する。それでもやってゆけたのは、体育が得意だったから。運土神経抜群の長男は何をやらせてもクラスで一番上手だった。
 けれど、少年野球クラブでの処遇は違った。あからさまに一軍メンバーから外した。この監督のモットーは文武両道。つまり、心の捻じ曲がった者には、スポーツは出来ないとでも思っているのだろう。少年野球の二軍とは、下級生の相手をせよとのことだ。グローブやバットも満足に持てない者相手に、モチベを維持するのは大変なことだ。
 よくしたもので、月謝を入れる袋も持たせなくなった。もう、来なくてよいと言っている。スポーツとはちょっと横道に逸れた人間の心を元に戻せるものじゃないの。そして精神を人間性を鍛えるものじゃないの。わたしにはよく理解が出来なかった。
 最後にママ友から食事に誘われなくなった。それは嬉しい事だったが、どうせ我が家の不幸話しで、もちきりになっていると思うと、何だか悔しい気持ちにもなった。
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