兄編 一話

文字数 2,477文字

 咲良の兄は四つ違い。兄妹でも歳の差があると喧嘩も少ない。兄は妹の面倒をみようとする気概が顕著なのかもしれない。しかもこの兄は輝いていた。咲良が同じ小学校に入学した時には、五年生の兄は学級委員を務め、入学式にはまだ幼児の一年生を誘導する役目もこなしていた。また、運動神経がズバ抜けてよく、春の運動会では六年生に混じってリレー選手の花形だった。
 そんな兄のことを同級生たちは憧れの眼差しを向けた。そして妹の咲良は特別扱いされた。飛翔(ひしょう/兄の名前)君の妹ってだけで一目置かれた。咲良が二年生に進級してからは、この傾向がより一層顕著になる。
 最高学年の兄は卒業式で送辞を陳べ、また春秋の運動会ではそろって主役をこなした。さらに男子五十メートル競走では県大会の代表にもなる。学業の方も優秀で、作文は文科大臣優秀賞を戴き、県内の作文コンクールで発表もした。そうそう、お顔の方もジャニーズ系の子役のような顔付きで女子からは特段の人気がある。
 一方、咲良はというと、学業・運動ともごく普通。とくに優秀なものはなかった。ああ、姿形まで含めて。それでも、みんなからは、いいなぁ、あんなお兄ちゃんを持って、と羨ましがられた。咲良自身もちょっとした自慢でもあった。自分には無くて出来ないことをする兄を尊敬すらしていた。
 中学時代は重なることはなかったが、地元の公立中学に入った兄はすぐに頭角を現した。本格的にはじめたサッカー部では、一年生からレギュラーに選出され、チームを県大会地区予選突破に導いた。二年生の頃にはすでにサーカーの強豪高校のスカウトが視察に訪れていた。
 またルックスも180㎝近くの抜群のプロポーションとなる。他薦でジャニーズの書類審査にも合格した(本人は面接試験には行かなかった)。
 こうなると同じ家に同居してはいるものの、咲良は兄と滅多に顔を合わさくなった。何しろ部活で忙しいし、帰宅後は学業もこなさなくてはならない。食事の時も、朝練と夕練で兄は居なかった。五年生にもなると、おませな女子たちが兄の写真を欲しがった。あまりに執拗なのと、ハブされるのが怖くて、スマホで盗み撮りした写真を友人に渡した。
 兄は、その当時、Jリーグで活躍しヨーロッパの強豪チームに移籍した日本人選手の後継者になると誰もが信じて疑わなかった。サッカー人生は短くとも、イケメンの彼ならば引退後は芸能界で活躍できるとも期待されていた。

 そんな順風満帆な兄に大嵐がやって来た。こんなこと誰も想像できない。嫉妬した神様のイジワルとしかいいようがなかった。中学三年生の時、試合中にピッチに蹲る兄。当初は熱中症とのことだった。ただ、その後の度重なる不調から、不安に感じた監督が病院での診察を命じた。
 市立病院での診察結果は、てとも信じ難いものだった。誰もが医師の発言を疑った。

 若年性脳腫瘍―

 いまだ成長期に在る体内では、癌細胞の拡大も早い。医師は緊急手術を奨めた。幸いにも良性腫瘍で早期摘出で再発の危険度も下がると指摘された。すぐに都内の大学病院に転院し、摘出手術が行われた。
 手術は無事成功し、術後の経過も良好、何しろ若いこともあり、リハビリも難なくこなしひと月後には登校し、またピッチに姿を見せるようになった。この過程は「小児がんを克服した奇跡のストライカー」と題して、地方ニュース枠内でドキュメント報道もなされたほどだった。
 ピッチ上を縦横無尽に走る兄を観て、誰もが復活を遂げたと信じた。ところが三回目の定期検査で癌の再発が見つかる。しかも今度は悪性リンパ腫だった。これは血液細胞内のリンパ球が癌化するもの。これには直接的な手段である手術は通用しない。
 一般的には、いつ果てるともしれない(改善が見られるまで続く)化学療法や放射線療法が行われる。癌には有効であっても、必ず副作用を伴う。倦怠感、食欲不振、筋力の衰え、脱毛、と数えきれないくらいの負の現象が起こる。そしてそれは本人にとって辛い。また、見ている家族にも相当な負担だ。
 医師からは、まずは年単位で考えましょう、とサラリと告げられる。これはサッカー選手としての道を断念することを示唆している。だって、推薦入学先の高校も決まらない。いや高校進学だって出来やしない。
 やはり兄は相当に落ち込んだ。普段は見せない塞ぎようだった。そこに副作用の追い打ちがかかる。基本は自宅療養で施術のたびに通院する。家に居ても気分の悪い兄はほとんど寝たきりだった。小さな庭に隣接する客間が兄の居場所に変わった。兄は日がな一日、テレビを観たり、本を読んだり、スマホを眺めたり、意欲の欠片もない日常を送っていた。

 そこに、ちっちゃな変化が現れた。庭先に一匹の仔猫が現れたのだ。生後二週間ぐらいだろうか。まだ尻尾が長い棒、鉛筆に見えた。キジトラでお腹が白い。女の子のように見える。

 兄は庭の変化に真っ先に気付き、母親に知らせた。ちょうど真冬で、生後間もない時期には厳しい季節。ちっちゃな体は小刻みに震えていた。兄の要望もあって、暖かいミルクと毛布代わりに兄の古くなったネルシャツが与えられた。
 仔猫はミルクを舐めてネルシャツに潜り込んで寝てしまった。仕草がてとも可愛い。兄は夜になる前に家にいれるように母親に懇願したが、母は猫に潜む雑菌を気に掛けた。病原菌が抵抗力の弱った兄の身体に悪さをしかねないと考えたのだ。
 すぐに主治医に連絡をとるものの、あいにく出張とのことだった。仔猫はひと晩、庭先に取り残されることになった。兄はその晩、シャッターも下ろさず、カーテンも引かずにサッシ窓から仔猫を見守り続けたようだ。
 朝になって、庭先が急に騒がしくなった。カラスが現れたのだ。ちょうどのゴミ出しの日で、彼らは食べ物目当てにやってくる。そのついでに空の上から庭先に動くものを発見した、てなところだろう。仔猫にとってはカラスは天敵。
 兄はよろめく足で庭先に出て、物干し竿でカラスが近づくのを阻止し続けていた。一体、いつからそうしていたのか、家族は誰も知らない。
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