第9話

文字数 4,903文字

 自転車のかごに線香と蝋燭、ライター、二リットルの水が入ったペットボトルをつっこんで、商店街で買った花をその上に乗せる。自転車のかごはそれなりに深さがある方だけれど、重たいものとかごからはみ出している花束のバランスが悪くて、少し運転しづらい。住宅街を通りすぎて、少し狭くなった路地を抜けると、開けた場所に墓がこれでもかと密集した墓地が見えてくる。
 お母さんの命日に一人で墓参りに行くようになったのは、中学生になってからだった。お父さんと私の生活を知って、面倒を見に来てくれていた祖母が亡くなってから、見よう見まねで行くようになった。
 墓参りの前には必ず、祖母が常連だった花屋に寄るようにしている。お店のおばちゃんは、親戚のおばちゃんみたいに今の私の生活を聞きたがったし、花屋に関係ないお菓子のおまけをくれて、祖母のことと、母のことを語りたがった。私は毎年通っていても、おばちゃんの親切を受け取るのがへたくそで、いつも変わり映えしない返事しかできていない。それにいつも落ち込みながら自転車を漕ぐ羽目になっている。それも今回で四回目だ。
 お盆は賑わっている墓地も、今日は誰も見当たらなくて静かだ。母の墓のある方向を目指して歩みを進めていくと、母の墓には既に鮮やかな花が生けられているのが見える。
 少し緊張して辺りを見渡すけれど、人影はどこにもない。緊張が解けるのと同時に、ここまで来るのに使ったエネルギーが、今になって一気に消費されていくような疲れが、どっと体に押し寄せてくる気がした。息を一つ吐いて、先ほどより行儀の悪い、だるそうな歩みで墓の前まで来ると、既にされていると分かっていながら、簡単な掃除を始める。花が生けられている所に買ってきた花を無理矢理追加すると、蠟燭と線香に火を点けて、それを黙って見つめる。風に揺られて動く蝋燭の火が生きているみたいで、それを飽きるまで見つめてから、火を消して墓を後にする。
 いつ頃父は来たのだろうか。時間が被らなくて良かった。会ったって、ここで何を話せばいいのか分からないから。あの頃、母のお見舞いに行くために病院に通っていた私たちは、いったい何を話していただろうか。
 母はいつでも私や父が来るのを楽しみにしていた。父が持ってくる花にいつも嬉しそうに微笑んでいた。あの時、私は父が手にする、父には似合わない可愛い花束に、母への愛を確かに感じていた。
 少し顔色良く見えるでしょ。お父さんや葵には少しでも可愛いお母さんって思われたいな。そう言って冗談めかして笑う母は、私の目には顔色良く、元気そうに見えて、もう少しで退院できるのではないかという淡い期待を持たせた。
「お母さん、私が塗ってあげる」
 そう言って、見よう見まねで慎重にブラシを口元に運んで色を重ねた。鏡を見た母は、うん。ばっちり。次からは葵に塗ってもらおうかな。そういって顔を綻ばせた。特別なことなんかいらなかった。ただ、優しく微笑んでくれる母が、笑って元気になってくれるならそれでよかった。
母の葬儀が終わって、私の手元にはあの淡いピンクのリップが残った。母が残してくれたものは、それ以外にもたくさんあったけれど、亡くなる前の母と過ごした日々を象徴するそのリップが、私には母を強く感じさせてくれるものだった。とてもではないけれど、手放すことが出来なかった。
 私は小学校三年生ぐらいになると鍵っ子になった。そしてしばらくすると、父は家に帰って来ることが少なくなっていった。
 そんなとき、千秋に出会った。最初の頃は、シンデレラに魔法をかける、魔法使いのような気分だった。薄い唇には、淡いピンクのリップが良く似合っていた。昔の千秋は着ていた服のせいもあって、よく女の子に間違われていた。
 こんなことをしたって何かが変わるわけでもない。そんなことは分かっている。でも、母との約束を果たせない私にも、美晴ちゃんになれない千秋にも、こんなことでなければ満たされない心の隙間が確かにあったのだと思う。
 そうやって互いの傷を舐め合うように、少しだけ現実から目を背けてきた。抱えている気持ちを他の誰かに話す勇気を、私たちは持ち合わせていなかった。話して何かが変わるとは到底思えなかったからだ。それでも本当は、父のことをいつも誰かに相談したかった。私の行動が正しいのか。雲をつかむような感覚で、私はいつも自分が不安だった。母との交換日記を読み返してみたって、そこに答えはない。
 私の家が父子家庭だと知って、気にかけてくれる先生とか、学校行事で両親が来てくれて、嬉しそうにしているクラスメイトのこととか、そういうのより、どうしたらいいのか分からないとき、頼りになる母が私のそばにいないことを痛感する。そんなとき、私はどうしようもなく、母の声が聴きたかった。
 ままならないことを前に私たちはどれだけ心を削ればいいのだろうか。

 家に帰ると、玄関には履き古されたスニーカーが少し雑に脱がれていて、こっちにも顔を出していたのか、と冷静に状況を理解した。線香の匂いが漂っていて、靴を脱ぐとそのまま和室へと足を運ぶ。
 父の体格のいい後ろ姿が動かずに縮こまっている様子から、仏壇に手を合わせていることが分かった。母が好きだった花が仏壇の前に当然のように置かれているのが、背中越しに見える。頭の奥が、心臓が、ひりつくのを感じる。
「…おかえり」
 私の存在に気づいていたようで、顔も合わせないまま、ぼそりとその場に溶けてしまうような何の感情もない声がした。
 何を言ってくれれば正解なのかは、分からなかった。ただ、その一言が私を突き動かした。遺影を見つめる父の顔の横を私の腕が通りすぎる。花束をつかんだ手が確かに自分のものなのに他人の手のように感じた。それから、その手は、目の前にある頭に花束を叩きつけた。花束を追っていた鋭い瞳が見開かれて、馬鹿みたいに幼くみえることさえ、腹立たしくて、そのまま花束を畳に叩きつけた。
「このっ。くそじじいっ」
 少し裏返った声で吐き捨てる。花びらが舞って畳に力なく落ちていくのが見えた。息が上がって、頭もいつもと違って、ぎゅと締め付けられるような鈍い痛みがある。それから自分がやってしまったことから逃げるように、私は家を飛び出した。
 こんなときに限って、秋の涼しさは発揮されなくて、いつまでも夏の暑さにしがみついているみたいだ。さっきやってしまったことが、頭の中で何回も再生されているからなのか、家を飛び出してきたからなのか、それともこの暑さのせいなのか、頭が痛くなって吐き気がしてきた。
「葵ちゃん?」
 吐き気に耐えられなくて、塀にもたれてしゃがみこんだ私の耳に、よく通る聞きなれた声がした。美晴ちゃんだ。声のする方を見ると、心配そうに眉を下げて、私に合わせて屈みこんでくれている。
「顔が真っ白だよ。大丈夫?気分悪いの?」
 少し温い手が、私の背中をさすってくれる。声を出すのも辛くて黙ってうなずくと。美晴ちゃんは私の肩を抱いて、ゆっくり立ち上がらせてくれると、近くにあった自動販売機の陰に座らせてくれた。
「軽い熱中症かもしれないね。少し濃く感じるかもしれないけど、ゆっくり飲んで」
 そう言って、自動販売機で買ったスポーツドリンクを渡してくれた。私は美晴ちゃんの言うとおりにゆっくりと時間をかけて喉に水分を通していく。冷たさが心地いい。次第に吐き気が無くなって来るのが分かる。
「ありがとう」
 やっと吐き気が遠のいて声が出せた。
「どういたしまして」
 隣に腰かけた美晴ちゃんがハンカチで汗を拭っている。その仕草を目で追うと、持っている日傘を私の方に傾けてくれているのが見えた。こいうところは、千秋も美晴ちゃんも変わらなくて、さりげない気遣いとか優しさというのは、どうすれば身に付くのだろうと、自分がもどかしく思える。
「まだ暑いから外に出るときは、暑さ対策と日焼け対策は必須だよ」
 美晴ちゃんが優しく笑う。二つしか離れていないのに、美晴ちゃんの優しい顔を見ると安心するのは昔からだ。
「うん。夏が終わった気になってた」
 確かに。と笑った美晴ちゃんは、塾の帰りだったらしい。中学とは違って、高校の受験の方が少し辛いかも。と疲れた顔をする美晴ちゃんの顔を見ると、確かにうっすらと隈が出来ていて、大学受験というものに恐ろしさを感じてしまう。
「美晴ちゃんは、どこの大学に行くの?」
 口に出した後、聞いても良かったのか不安に思いながら、手の中で転がしているペットボトルを見つめる。
「京都の大学に行くつもり」
 思わず顔を上げる。それでね、と視線を真直ぐ向けたまま、ついでのように美晴ちゃんが口を開く。
「私、家を出ようと思ってたんだ。独り立ちしたいなって。別に家族のこと、嫌いになったわけじゃないけど。なんとなくそう決めてたの。だから、大学は県外」
 それから私の方を見て、
「千秋もさ、親離れというかお姉ちゃん離れ?するべきだよね。もうそういう年頃なはずなのにね」
 そう言って冗談を言ったときのように、可笑しそうに美晴ちゃんは笑った。
 いかにも正しく、真直ぐに伸ばされた背筋が嫌いだと思った。迷いのない涼しげな瞳も、よく通るその声も。今までそんな気持ちを美晴ちゃんに抱いたことはなかったのに。
「そっか。そうだよね」
 相槌が勝手に口からこぼれて、そのまま私は立ち上がった。
「葵ちゃん、もう大丈夫?」
「…うん。調子戻ったみたい。ありがとう」
 途中まで送るよ。と言った美晴ちゃんに断りを入れて、大通りを選んで少し遠回りして家に帰る。家を出る時とは違って、心が妙に落ち着いている。むしろ何も無くなってしまったみたいで、少しだけ自分の意識がぼんやりしているような気がする。
 背が伸びた。手のひらが大きくなった。骨ばっていく体。そして、声変わり。分かっていながら、見て見ぬふりをしてきた色んなことが、今さら目の前につきつけられたような気がした。千秋と美晴ちゃんが姉妹だと言われなくなっていったように、歳を重ねる度に、私達の意思とは関係なくいろんなものが変化していく。学校の先生は、皆いつも変わったことがあって楽しそうだね。なんて言うけれど、そんな愉快なものなんかじゃなくて、みぞおちが引きつるような、息苦しさがある。
 家の前に辿り着くと、鍵を持ってきていないことに気づいたけれど、ポストの中に予備の鍵を入れていたことを思い出して、ポストのダイヤルを回す。ぼんやりとした頭でもダイヤルの番号は覚えているのだから、人間の脳みそはよくできている。
 玄関のドアは不用心にも鍵がかかってなくて、恐る恐る開けると、あの履き古されたスニーカーは無くなっていて、少しほっとした。鍵も持たずに飛び出した私への気遣いだったのかもしれない。
 仏壇の前には、生き残った花が不器用に包み直されて、隅っこの方に置かれていた。ごみ箱の中には、私が散らした花たちが少し萎れた状態で捨てられていた。捨てられた花を見て、自分のやってしまったことが怖くなった。今さら後悔しても遅いのに、お前は取り返しのつかないことをしたのだと自分自身に分からせるように、ぼたぼたと、とめどなく涙が溢れてくる。
 お母さん、私頑張れない。お父さんの傍にいて、お父さんのこと大切にして、いつまでも仲良くしてね。なんて、そんなことできない。だって、滅多に帰ってこない。母さんのことを忘れて、他の女の所へ行ってしまう。そんな父親と、どうして仲良くなんてできると思う?
 いつもは、こんな思いをしている人は私だけではない。と、この苦しさを、自分の思いをうやむやにしてきた。だけど、今日だけは、そんな考えをも持つのはやめた。今日だけは、うやむやにしないで自分で自分を大事にしたいと思った。こんな苦しいのは自分だけだと思うようにした。可哀想だと思うようにした。自分が可哀想で泣いた。少しだけ声を出しても許されるような気さえした。
 私が大切にしなくたって、お父さんを大切にしてくれる人なんてたくさんいる。そんなことは、分かっていたのだ。

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