第1話

文字数 2,805文字

 幼い頃は陽炎が怖かった。
ゆらゆら揺れる向こう側の景色が違う世界のようで、そこに引きずり込まれて、二度と戻って来られないような気がした。そんなときは決まって、隣を歩くお父さんの手を強く握り直す。お父さんは、あちぃな。と言いながら私の汗ばむ手を必ず握り返してくれた。
 それだけで、私は向こう側へ歩いて行けた。


 セミの鳴き声が、ぴたりと閉ざした窓を隔てて、盛大に聞こえてくる。
夏の太陽がどれだけ眩しいのかってことをセミが知らせているみたい。音を聞くだけで、体感温度が上がっているような、そんな気がしてくる。この音を聞いてから、今日は絶対家から出ないと決めた。
 こんなに暑くても、何となく温かいものが食べたくなるのは、人間がのんきな生き物だからなのかもしれない。昨日テレビで見た、氷の塊に張り付いているシロクマに思いを馳せながら、他の生き物はこんな暑い日をどうやって過ごしているのだろうかと思った。私はシロクマを思いながらおでんの出汁を取っている、のんきな生き物の代表だ。今日の昼ごはんはおでん。季節外れだけど、冬にアイスが食べたくなるのと同じだと思う。
 コンビニなら、そんな天邪鬼な気持ちにもすぐに応えてくれる。だからといって暑さを我慢してコンビニに行くかはまた別の話。残念だけど、外の暑さに耐えられるような元気がない。冷房の温度をこれでもかというぐらいに下げ、下ごしらえをする。またつくるのも面倒だから夕飯用に多めで。圧力鍋で作るから、後はスイッチ一つだ。
 味付けは薄味にして、食べるときに味噌やからし、一味唐辛子をつけるのが好きだ。いつもできるだけシンプルで優しい味になるようにしている。
 料理の味付けぐらい優しいのがいい。
 いつだったか、調理実習中に思わず漏らした言葉に、同級生から変な顔をされたのを思い出す。お前、前世の辛い記憶でもあるわけ?何て言われてしまったけど、たった十五年しか生きていなくても、色々ある。
 数学が全く分からないこととか、目つきが鋭いこととか、女子の群れに馴染めないこととか、父が恋人の家に入り浸って帰ってこないこととか。色々ある。食べるものぐらい、優しいのがいい。
 鍋を加熱する熱気を感じて、少し汗ばんだ肌がべたついていくのが分かる。冷房の温度を更に下げて、扇風機をつける。地球には申し訳ないけど、電気代を払うのは自分ではないと思うと、もっと贅沢をしたくなった。これぐらいあの人にはなんでもなくても、少しだけ胸がすくような気持ちになる。
 一人で自己満足に浸っていると、おでんと扇風機が共存しているアンバランスな台所に、チャイムの音が響いてきた。
 インターホンのボタンを押すと、蝉の合唱が聞こえてきて、思わず顔をしかめる。画面には、険しい顔をした幼馴染が映っていた。よっぽど暑いのだろう。
「今日の暑さ、はんぱない」
 名乗りもせずに、外の暑さを伝えてくる。Tシャツにハーフパンツ。帽子と首から下げたタオルが夏休みの小学生みたいな印象を受けるのに、声に覇気がない。
「ちょっと待って」
 そう言って玄関に向かう。玄関のドアを開けると、外の熱気が一気に押し寄せてきた。それだけで、汗がじわりと滲む。今日はやはり外に出なくて正解だ。千秋がきちんと靴をそろえて、おじゃまします、と私しかいない我が家に挨拶をしてから上がってくる。
 私はそれをしっかりと見届けてから、玄関の鍵を閉めた。
「うわ、涼しっ。最高。最強に身体に悪そう」
 リビングに入るなり、喜んだり、貶したりして騒がしい。千秋の言葉を無視して、鍋の元に戻る。
「おでん作ってるから、丁度いいんだよ」
 圧力鍋に任せて、味が染みてくれるのを待つ。具沢山にしたから楽しみだ。
「は。夏におでん?しかもこんなクソ暑い日に?」
 千秋が露骨に渋い顔をしてくる。昨年も夏におでんを作って一緒に食べたのに。すっかり忘れているらしい。
「いらないの?」
「いや。食べたい」
「食べるんかい」
 さっきの渋い顔とは違った答えに、思わず口元が緩んでしまう。冬にアイス。夏におでん。食べたいときに食べるのがいいとは思うけど。
「春乃屋のケーキ買ってきたから、冷蔵庫入れさせて」
 千秋がクリーム色の手提げ箱を片手に台所に入って来る。
「ミルクレープある?」
「ある」
 小さな頃からその味を知っているケーキ屋で、私はいつもミルクレープを注文する。あの均等な生地と薄く重ねられたクリームに飽きもせず惹かれてしまうからだ。均等な層にかけられた手間を考えると、少しだけそのケーキが特別なもののように感じる。こんな変なこだわりも受け入れてくれる、好みを知り尽くしている相手と過ごすのはいつもの窮屈さとは無縁で、いろいろと難しく考えなくていいのがラクだ。
「三時の、おーやつは、けーき」
 千秋が変なリズムをつけて歌いだす。
「千秋、テーブル拭いて。あと、皿」
 千秋に指示を出しながら、圧力鍋を開ける。鍋から温かな湯気がふわりと広がって、美味しそうな薫りが一気に押し寄せてきた。今から美味しそうなおでんを食べる喜びと同時に、明日学校に行かなければならないという嫌なことを同時に思い出して、つい唸り声をあげてしまう。良いことと悪いことって、どうして同時に頭の中に湧いてくるのだろう。私の唸り声を聞いた千秋が。どうした。と怪訝そうな顔をしながらこちらを覗き込んでくる。
「大丈夫。おでんは無事。私が無事じゃないだけ」
「また急激なネガじゃん」
「だって、明日学校だし」
「今さらじゃね」
 千秋は呆れた顔をするけど、ネガティブなのは今に始まったことじゃない。高校に入って、中学ほど夏休みを手放しで喜べないのが辛い。夏休みも大した休みではなく、結局、授業や課題に追われているからだ。ただ、私のクラスは一日中授業というわけではないし、唸り声が出たのも、それだけが原因というわけではない。
「おでん食べて、気分上げる」
「…ケーキもある」
「最高」
 千秋とはこんな単純なやりとりでやっていけるのに。どうして他はうまくいかないんだろう。一度思い出した嫌なことはなかなか、頭から消え去ってくれない。少し憂鬱な気分になりながら、美味しそうなおでんに箸をつける。
「そういえば、新作のティントリップが届いたから、今日はそれ使ってみようよ」
「色が落ちないやつか」
「ちゃんとリムーバーで落とせるやつだから」
「うーい」
 適当に返事をする千秋の方を見る。熱い、うまいなんて言いながら、おでんを頬張っている。汁を飲み込む音と共に、喉仏が上下する。一緒に居るとあまり変化に気づけないけれど、少しずつ顔つきや体つきが変わってきているのだと時々思う。高校に入ってからは尚更。未だに可愛いなんて言われる顔つきも、幼さが抜けきったとき、格好良いに変わるのだろうか。
まだ、大丈夫。何がなんてうまく言えないけど。このまま変わらなければいいのに、なんて思ってしまう。


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