第6話

文字数 2,375文字

 今日は韓国のアイドル風です。葵がそう宣言して、いつものように丁寧にメイクを仕上げていく。いつもはふわふわしたレースやリボンが付いた服を着せたがるから、それに合うようにメイクも合わせていたのだな、と仕上がっていく様子を鏡で確認しながら、葵に感心する。いつもと違うテイストの服装は、少しカジュアルで、こちらの方が意外と露出があって防御力が少ないなと思う。
 幸田が泊まりに来た時に、韓国のアイドルの動画を見て影響を受けたらしい。こういう時だけ吸収が早すぎる。葵が早々に投げ出した数学の公式が、可哀そうになってきた。幸田との関係もいよいよ訳が分からなくて、コイツ騙されてねーかな。と疑ってみるけれど、本当のところは正直分からない。何もないならいいけど。花井との関係も本人は分かっていないながら、続いているようだから、人間関係なんてそんなものなのかもしれない。変な奴に好かれるな。と自分を棚に上げて思っていた。
 いつものように時間を潰して、最後にメイクを落としてスキンケアをすると、葵の家を後にする。夏の終わりが近づいているからか、蝉が地面に横たわっていることが増えてきた。平家物語なんか勉強しなくても、儚いという感覚は蝉の一生を知ることで事足りそうだと、その呆気ない姿を横目に慎重に通り過ぎる。
 家に辿り着いたら、いつも通り、ただいま。と声を響かせて玄関の扉を閉めると、何か家の空気というか、雰囲気がいつもと違うことに気がつく。
 手を洗ってリビングまで来ると、パソコンを脇に備えた美晴ちゃんが、テーブルの上に大学のパンフレットを広げて、困った顔をした母と向き合っている姿が見えた。
「ただいま」
 真剣な様子の二人に、とりあえず帰ってきたことを知らせると、母は困った顔のまま、美晴ちゃんは笑顔でこちらを振り向いて、おかえり。と言ってくれる。二人の表情の差に少し戸惑ってしまう。
「いいところに帰ってきた!千秋も、一緒に話聞いて」
 そう言って美晴ちゃんは僕を呼び寄せる。パンフレットの浸食を免れている、母の隣の席に着くと、母がカフェオレの入ったマグカップを用意してくれる。結構長い話になるのだろうか。
「お母さんが手強くて、なかなか首を縦に振ってくれないの」
 そういって、美晴ちゃんが大学のパンフレットを指さす。美晴ちゃんの行きたい学科が載っているようだ。僕も来年、再来年には母とこんな風に話をするのだろうかと思いながら、パンフレットに目を向ける。すぐにパンフレットにある、「京都」の文字に気がついて美晴ちゃんに問いかけた。
「京都に行くの?」
「そう。一人暮らしになるから、お母さんが心配して話が進まないの」
 美晴ちゃんは明るい声でそう言うと、母への説得を続ける。
 その声をぼんやりと聞きながら、マグカップを握ってカフェオレを口にしようと視線を落とすと、カップを握った手の先の、落とし忘れたネイルカラーが目に入る。いつものマグカップを掴んでいるだけなのに、あの空間で見る自分の手とは全く違うものに見えてしまう。
「あれ、千秋。ネイルしてる?もしかして一日してたの?気づかなかった」
 美晴ちゃんが目敏くそれに気がついて、僕の手元をまじまじと見つめる。手首の筋と浮き出た血管が、可愛いネイルカラーに不釣り合いで、美晴ちゃんの視線を避けるように僕は軽く指先を丸めた。
「学校で注意されなかったの?大丈夫?」
 母はそう言って、美晴ちゃんの進路を心配するのと同じぐらい、心配そうに眉を寄せると僕の指先を手に取り、丸めた指先を開いてくる。
「除光液持ってくるから、忘れないうちに落としなさい」
「でも、何だか、小さい時のこと思い出すね」 
 僕の目を見ながら、言い聞かせるように言う母をなだめるように、美晴ちゃんが笑いながら口を挟んでくる。母も、そうね。懐かしいわ。と言って口元を緩めている。
 それから、前はあんなことがあった。と僕が堂々と美晴ちゃんのことを真似していた時のことを、二人で語り出す。
「さすがに真似はしなくなって、随分お姉ちゃん離れしたわね」
「そう思ったのに、同じ高校選んでくるんだから」
 そう言って、美晴ちゃんは拗ねたような声を出す。
「じゃあ、千秋は、家から通える大学にしたらいいじゃない」
「もう、お母さん。親離れもしなきゃ」
 母はいろいろ言いつつも、美晴ちゃんのお願いを既に聞き入れるつもりらしい。心配しながらも言葉の端々に、美晴ちゃんへの信頼が見え隠れしている。美晴ちゃんもそれが分かっているようだ。
「お姉ちゃん離れすることになるのに、それじゃ、だめじゃない」
 ね。千秋。美晴ちゃんが僕に同意を求める。
「そうだよね。それじゃ、だめだよ」
 指先のネイルを撫でながら、美晴ちゃんの真似をして微笑む。ほらぁ。千秋もそう言ってるし、その話はまた今度。そう言って美晴ちゃんは大学の話を続ける。
 マグカップのカフェオレを飲み干すと、台所で軽く濯ぐ。それから、美晴ちゃんと母を残してリビングを後にした。あの場所でうまく呼吸ができる自信がなかった。懐かしくなんてない。僕にとっては何の笑い話でもないのだから。
 日曜日に僕がしていることを知ったら何ていうだろうか。美晴ちゃんに、あんたになりたくて、こんなネイルや化粧を繰り返しているって言ったら、どんな顔をするだろうか。
 父も母も、僕たちを姉弟だからと縛ることは無かった。好きなことをしなさい。といつだって僕たちの背中を押してくれていた。美晴ちゃんと同じものを選ばなくてもいいと言ってくれたこともあった。自分が恵まれていることは分かっている。それでも、僕が美晴ちゃんを追いかけず、何も得られない人間になった時、同じことを言って、笑って背中を押してくれるのだろうか。追いかけ続けてきたものに指先すら掠らなくなった時、僕は何になるのだろうか。

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