第12話

文字数 1,618文字

 出し物をしている生徒棟から離れて、職員室のある管理棟の空き教室まで千秋を連れだって歩く。手にはいつも家で使っているメイク道具が詰まったポーチを提げて。文化祭の準備のために、日頃はあまり使われていない教室も準備用に開放されているらしいよ。という花井君からの情報もあって、目星をつけておいた。出し物をする教室と離れているせいか、人の通りは疎らだ。
 一番の隅の教室を開けると人影はなく、机やいすが端に追いやられている。日頃は倉庫のような扱いのようだ。換気のためにカーテンと窓を開けると、少しは陽も入ってくるようで柔らかな日差しが教室に差し込んでくる。
「少し埃っぽいけど、いいよね」
「こんな教室も空いてんだ。てか、こんなとこがあるとか知らんし」
「私のなけなしの情報網です」
「やめろ。泣けるわ」
 わざとらしい泣きまねに、ふん、と。鼻をならしながら机と椅子の埃をはらって準備をする。窓の外に吸い寄せられていく埃がキラキラと鈍く光っている。
 椅子を向かい合わせに置いて、傍に置いた机にはメイク道具を準備していく。千秋と二人きりということだけが、いつもの空間と変わらない。教室の独特な木の匂いと、遠くから聴こえる生徒のはしゃいだ声がいつもとは違うのだと私に伝えてくる。
 今日で最後。あの空間に私たちが戻ってくることは無いのだ。一つ息を吐くと、千秋と向かい合わせに座る。
「なんか少し優しい感じのピンクのリップ、あったじゃん?今日はあれがいいんだけど」
 千秋がいつもと変わらない調子で、いつもとは違うことを言いだす。いつもこっちから聞いても大したリクエストなんてしてくれなかったのに。
「承知した」
「武士かよ」
 一呼吸おいてリクエストに応えると、千秋が噴き出して笑う。
 慣れないリクエストにどう返せばいいのか分からなくて、自分でもどうかと思う返事をしてしまう。千秋のツッコミも当然だ。何でもないふりをして、メイク道具を片手にいつものようにその顔を丁寧に彩っていく。
 一言も発しない静かな空間に私はすっかり集中しきって、いつもの要領で仕上げていく。まあるい綺麗な額。よく通った鼻筋。くっきりとした二重の幅。そして、薄く小さな唇。
 最後にその薄い唇に淡いピンクを乗せながら、私は心の中で唱えた。呪文のように繰り返し。もうこんなメイクや可愛い服が無くたって、千秋が千秋でいられるように。
 淡いピンクはこれから着替える制服姿にもよく映えるだろう。控えめな可愛さが逆に目を引きそうだ。何より、千秋の薄い小さな唇によく似合う。
「…できたよ」
「うん。ありがと」
 そのまま女子の制服に着替えさせて、千秋に似合う着こなしに少しアレンジする。カーディガンの色。スカートの長さ。靴下の丈。本当はいつ外に連れ出してもいいように、いつもどこから見ても完璧な女の子に見えるようにしていたなんて言ったら。千秋はなんて言うだろう。最後だけれど、これは私だけの秘密にしておく。
 頭から足の先まで最終チェックをして、歩き方と座り方の注意をすると、そつなく動いて見せてくれる。相変わらずこういうところは器用だ。内心嫉妬をしながら、千秋のドヤ顔を見ていると、ピンクを味方につけた千秋が手の甲を私に差し出す。
「エスコートさせてやろう」
 今日も抜群に可愛くて、むかつく。
「でたでた、そういうの」
 下から差し出された手を握ると、二人で顔を見合わせてなんだか可笑しくなってしまって。肩を震わせる。声を出せばいいのに、お互いの笑いを我慢する顔にも笑えてしまう。静かな教室で二人でそんな風に笑い合っているのを、他の人が見たら気味悪がるだろう。最後に我慢できずに笑い声を漏らすと、少し汗ばんだ千秋の手を握り直す。気持ち下がったように見える眉はメイクのせいだし、少し震える手は私の握力が強いせいだ。大丈夫。短く息を吐いて、千秋の手を引く。
 握り返してくれる手の温もりを感じながら、私は教室の扉をゆっくりと開いた。
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