第8話

文字数 3,146文字

 葵が傷ついたのが分かった。いつも乏しい表情の中からだって、僕は葵の気持ちを汲み取れた。さっきの顔は誰が見たって傷ついていると分かる程、葵の表情は歪んでいた。僕がそんなになるまで傷つけたんだ。それでも、口から飛び出す、ままならないことに対する八つ当たりを止めることができなかった。
 僕の目に映る姉はいつも格好良かったし、ひたむきな努力と、伸ばせば光る才能とが合わさって、いつだって結果を残した。いつか、僕も姉のようになれるのだと思っていた。
 「千秋は男の子だから」両親にそう言われて、少しずつ僕に真似できないことが増えていった。年を重ねる度に少しずつ。男だからということだけでなく、僕は姉よりも少し不出来で、何でも真似できるわけではなかった。両親はそれに早いうちから気づいているようだった。僕はそれも理解するのが遅くて、そんなところも姉より不出来だと思った。それでも、姉を追いかけることはやめられなくて、ここまで来てしまった。
 首席で高校に入学できなかったあの日も、声変わりで低くなっていく声に不安を覚えたあの日も、気に入っていた人形を捨てられてしまったあの日も、初めてスカートを履くことを許してもらえなくなって、泣いていたあの日も、葵は僕を否定したり笑ったりしなかった。それだけが、いつでも僕の救いだった。
 美晴ちゃんのようになれないのは、葵のせいなんかじゃない。ずっと可愛くいられないのは、男だからという理由だけじゃない。僕が不出来なくせに、届かないものに欲張って手を伸ばし続けているからだ。
 家に帰って、洗面所の鏡越しに見る自分の顔を見つめる。姉の面影なんて、どこから感じていたのかと自分で笑ってしまう。なんてみっともない人間なのだろうと、鏡越しに見える喉仏をぐりぐりと擦り上げた。

「先生、除光液って持っていますか」
 朝一番に職員室を訪ねて、担任を捕まえて言う。担任の笹原先生は、ん?と、やや首を傾げて、僕の言っていることを理解しようとしていた。見せた方が早いだろうと、両の手を先生に向かって差し出すと。僕の爪先を見つめた後、何を言いたいのかが分かったようで、あぁー。と声をあげた。
 葵の家から出る時にネイルを落とすのを忘れがちになっていたせいか、今回は自分の家で落とすことも忘れてしまっていた。母や美晴ちゃんに言いづらいな。と先延ばしにしているうちに、忘れてしまっていた。
 笹原先生が他の先生に尋ねてくれている後ろ姿を見ながら、少し体を小さくして、存在感を少しでも消そうと試みる。こんなことで職員室を訪ねたことは初めてだから、どんな態度でここにいればいいのか分からない。うつむいて、指先に視線を向けると、少しでも周りの人に見ないように無駄に努力をしてしまう。
「おーい、あるってよ」
 笹原先生が、声を出して手招きする。機敏な動きで先生の方に向かおうとすると、こっちのもお願いしまーす。と生徒指導の先生が幸田を引き連れてこちらに向かってきた。
「あれー千秋君も捕まったんだ」
 幸田はそう言ってへらへらと笑いながら馴れ馴れしく声をかけてきた。
「友達にやられたの、落とし忘れてた」
「もしかして、葵ちゃん?」
 私も今度ネイルやってもらおー。と生徒指導の先生を前にして、反省の色を見せようとしない姿に、呆気にとられる。噂通りに癖が強そうだ。 
 こっちの部屋で落としなさいと、教科の準備室に押しやられる。こちらは自己申告をしたのだけれど、幸田と扱いは同じになりそうで、気が滅入る。一回目の違反では大した傷にならないけれど、違反切符を切られるのは、あまり気分のいいものではない。用意されたコットンに除光液を垂らすと、独特な匂いが部屋に充満して、思わず顔をしかめる。
「葵ちゃんのこと、ちゃんと甘やかしてる?」
 幸田が、慣れた手つきでネイルを落としながら、唐突にしゃべりだす。
「葵ちゃんたぶん爆発に備えてるから」
 雑に扱うと、千秋君に向かって爆発しちゃうかもよ。視線は自分の指先に集中していて、真剣な様子だ。これが自分の指先に対してなのか、話の内容に対してなのかは分からないけれど、幸田は何か勘違いをしているようだ。
「何言ってんのかちょっと分かんないけど、もしかして、僕と葵が付き合ってると思ってる?」
「え。違うの」
 先程まで指先に夢中だった視線が、鋭くこちらに向けられて、僕の言葉に対する反応の素早さに、つい圧倒される。なんだコイツ。
「はぁ、頼りになんないじゃん」
 あーあ。と幸田はでかい態度で、傍に置かれているパイプ椅子に足を組んで行儀悪く座った。この様子を先生が見れば、もう一枚違反切符を切られそうなぐらいだ。
「そんなことないし。昔から面倒見てやってるわ」
「ふーん」
 幸田の態度が少し癇に障って、こちらもいくらか雑な話し方をするけれど、幸田は僕が彼氏じゃないと分かると、途端に興味を失くしたようだ。爪の先をいじって退屈そうにしだした。
「まぁ、昨日喧嘩したから、それも無理そうだけど」
 事実として、淡々と幸田に伝える。葵に僕の話を振られても困るし、葵のことだから、遠慮してこの事実も話さないだろうから。少し牽制のつもりもあった。
「やっぱり頼りになんないじゃん。はぁ、うちが仲取り持つから、早く仲直りしなよ」
 仕方ないとでも言うように、若干面倒くさそうに言う幸田を見て、本当にこんな奴と一緒に時間を共有できているのかと、葵の神経を疑ってみる。
「幸田こそ、葵に変な絡み方してるだろ。そっちの問題に巻き込むなよ」
「は?お泊りしたし、メイクしてもらったし、一緒に寝たし、次の約束もしたし、普通に仲良いわ」
 泊りについては聞いた。でも、メイクの話なんて聞いてない。
「僕も家に泊まるし、メイクしてもらうし、約束とかなくてもいいフリーパスだけど」
 幸田に張り合うように、言葉を並べる。幸田に葵のことで言い負かされるのは、何か違う気がしたからだ。
「そんな贅沢しておいて、喧嘩するとかちょっと意味わからん」
 もっと詳細をくれ。と幸田がから促されるままに、昨日のことも美晴ちゃんのことも、葵の母親のことも、これでもかという重たい話を詰め合わせて幸田に話していく。幸田はときどき何とも言えない表情をしながら、僕の口から言葉を引き出す。
「同じ人間で居られるわけないっしょ。私もママもお互いの真似して美意識高めたりするけど、そんなの自分が可愛くなりたいだけだし。千秋君はお姉ちゃんより、可愛く生きればよくね?こんな顔面持ってて損でしょ。お姉ちゃんより可愛くなって、好きなことすればいいじゃん」
 一通り聞き終えると、幸田は総評とでも言うようにさらりと言ってのけると、千秋君が葵ちゃんの彼氏じゃなくて良かった。なんか面倒臭そう。と失礼なことを言ってくる。
 腹を立てている自分と、幸田のあっけらかんとした言葉に、そんな考え方もあるのかとどこか腑に落ちている自分がいる。
「私も一学期ネガだったけど、葵ちゃんのおかげで立ち直ったし、二股してたクソ男は許してやろうかと思ってる」
 フォローしてくれようとしているのか、残念なエピソードを披露してくれるけれど、相変わらず癖が強い。
「もしかして、神崎さんの?」
「そう。てか、有名過ぎない?しんどいわ」
「神崎さんも枕詞に使われて可哀そうだよね」
「それな」
 結局二人して、いつまでやってるんだと先生に指導を受けた。もう一枚切符を切られそうになるところで、幸田が土下座をして先生と僕の度肝を抜くと、何だか有耶無耶になったまま僕たちは開放された。思い切りが良すぎて、本当に葵は幸田と一緒にいて大丈夫なのかと、更に心配する羽目になってしまったけれど、幸田が葵を気に入っている限りは、どうにもならなさそうだ。

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