第41話 仁愛

文字数 2,818文字

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N国連邦首都地区Aにあるチヌアの自宅の客間。チヌアとラシディは、来客を帰した後もその部屋に残り、相談を続けていた。ラシディは、いつも通り、エボニーのソファに腰かけていたが、チヌアが座るのは車椅子である。動けなくなった彼の顔は、ついさっきまでいたチソマガと変わらない。帰ったのはもう一人。ナトンである。チヌアの最もプライベートなメンバーが揃った打合せの議題は、逃亡したアナイスとラーヒズヤの行方だった。
ラシディは、コーヒーの入ったエボニーのアリタ・ウェアを置くと、改めての確認をした。二人だけでないと、口に出せない事である。
「チソマガは、何もしてない。大丈夫だ。俺が怖いのは、あいつがクローンの軍隊をつくる事だけだが、それもドビュッシーさえ抑えておけば、何も起きない。」
チヌアは、ラシディを見ながら、声を発した。勿論、スピーカーからである。
「じゃあ、誰が逃がした。」
ラシディは即答した。
「ヒュドールが怪しい。昔、一度来たブリンクマン。覚えてるか。」
チヌアの答えは、ラシディの言葉に被さった。
「イエス。」
ラシディは、気の毒そうに眉を潜めた。こんな妙なタイミングで話す様になったのが、未だに信じられないのである。明るいチヌアなら、いつか冗談に変えてみせるだろうが、これはない。
「入国者のリストを調べたら、奴がまた入国してた。何度も来てる。つながりは分からないが、ここ何年かは傭兵もだ。これだけ金がかけられる奴は限られる。」
動かないチヌアは、遠くを見たまま候補を挙げた。
「A国?」
ラシディは笑った。
「中央情報局はない。F国の対外治安総局もクリア。U国、G国、R国は調査中だ。死んだ傭兵はコケージャンだったから、C国の手配はまだだ。」
チヌアは、また、スピーカーから早めの質問をした。
「エイレネは?」
A国の軍事企業エイレネは、チヌアが手術に成功した後、頻繁に接触してくる。何かを掴んだかもしれないので、二人の頭痛の種の一つである。
ラシディは、顔を横に振った。
「やりそうだが、証拠はない。状況からするとヒュドールだ。」
チヌアの疑問は尽きない。
「ブリンクマンは死なない方法をわざわざ教えた。クローンの軍隊もつくれると言った。何故だと思う?」
ラシディも十分考えた事である。
「A国のクローン研究は、ヒュドールのクレメンスとアーキンのものだった。不死だけなら、ヒュドールだけで出来る。ただ、そこで止まったと聞いた。ガヴァスカルがいれば、軍隊まで出来るだろう。デュプレシはおまけだ。」
チヌアは口を挟んだ。
「逆も言える。」
ラシディは頷いた。
「そうだ。そうとも言える。軍隊をつくらせたくなかったのかもしれない。俺達がつくる前に取り上げたんなら、それも理解できる。」
機械仕掛けのチヌアの記憶は、極めて良好である。
「その可能性を自分で話したのが気になる。」
ラシディは笑った。
「あれは発想を一つ進めたんだろう。自分でクローンの軍隊を思いつくと、つくる方に走る。あんたは、やろうと思えば走れる。でも、先に教えられると、そこを超えようとする。つくるだけでいいのか。つくってもいいのか。俺の聞いた限りじゃあ、クレメンスもブリンクマンも悪い男じゃない。あんたと同じ匂いがするぐらいだ。」
スピーカーから笑い声を届けて、ラシディを笑わせたチヌアは、遠くを見たまま、話を続けた。あまりに分かり易い笑い声なので、一緒にいて、笑わないでいる事は難しい。
「ただ、私のプライドが傷ついたのは確かだ。私は、彼らに幸福な時間を与えたつもりだったのに、命がけで逃げられてしまった。」
ラシディは言葉を急いだ。
「理由による。デュプレシは、ユゴニオの所にいた。あの暮らしがどうとかじゃなく、思想にかぶれてたのかもしれない。」
チヌアの不安は止まらない。
「デュプレシは、クローンの軍隊をヒュドールがつくらないと分かれば、またガヴァスカルを連れ出すのか。」
ラシディは、少し間を開けた。もっと大事な問題があるのである。
「心配はそこじゃない。ヒュドールから逃げるのは難しい。うちとは訳が違う。それより、チソマガのクローンが心配だ。国によっちゃあ、あれを手に入れれば、すぐに軍隊までつくれる。」
チヌアは、また、言葉を被せた。
「守れないのか。」
ラシディは、顔を横に振った。
「女一人で逃げられた。うちの警備はザルだと思われた筈だ。もうすぐ、誰も俺を怖がらなくなる。そうなったら、もう止められない。」
その時、チヌアの機械に支えられる脳は、彼の心の奥底を露わにした。もしも、チヌアの脳が生身のままだったら、その言葉は抑えられたかもしれないが、機械の脳は何一つ躊躇わなかった。
「どうせ、誰かがつくる。クローンの兵隊をつくって、チソマガのクローンを守れないか。人数では勝ち目がない。訓練にも限度がある。」
ラシディは、チヌアの顔を凝視した。彼は、超えてはいけない壁を超えようとしている。耳を疑う発言である。
「本気か。子供達が泣くぞ。」
子供達とは、従業員やその家族の事である。皆が、チヌアを親と思って疑わない。何にも染まる事なく、神の示す道を進む。それが、皆のチヌアなのである。
しかし、ラシディの重い問いかけにも、チヌアは即答した。
「構わない。私はそう思った。甘えかもしれないが、愚かな国の暴走で産まれるクローンの軍隊から世界を守るため。息子のクローンを守るため。それが理由なら、許されないか。そこには、愛しかない。心からの愛だけだ。」
ラシディは、コーヒーを口に運び、目を閉じて首を垂れた。考える時間が必要である。
やがて、顔を上げたラシディは、チヌアの顔を慈しむ様に眺めた。
「あんたがそう思うんなら、ついていく。あんたは、絶対に間違えない。俺はそう思ってる。でも、どうする。誰のクローンにする。あんたのか?」
ラシディは、最初の一歩を踏み出す事を、その時、決めてしまった。チヌアの愛が海よりも深い事は知っている。その先の未来に何が起きても、後悔する筈がないのである。
チヌアは、もう一度、スピーカーから笑い声を届け、ラシディを笑わせた。
「永遠の地獄だ。皆に頼めば協力してくれるかもしれないが、それはやめたい。知りうる限り、最高の人間を選ぼう。選ばれた事が名誉と思える程。何万人つくっても、誰もが心を奪われ、誰もが憧れる。伝説になる様な若者がいい。」
チヌアが見せた答えに、ラシディは小さく頷いた。納得できる条件である。ラシディにとって、その条件を満たすのは若い日のチヌアだが、笑って流されたので、彼の希望は確実に別である。
「時間はかかる。」
「勿論だ。」
やはり、チヌアの答えは早い。どう考えても、ラーヒズヤが残した課題の一つである。
頷いたラシディは、もう一度口を開いた。
「最後に聞く。国には頼まないのか?」
N国の不安定な政情は、ジョークの領域である。チヌアは、もう一度、スピーカーから笑い声を届け、ラシディも声を出して笑った。
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