第42話 人倫

文字数 9,979文字

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A国Y州S郡。ロレンツォは、デクラン率いる陸軍犯罪捜査官の一団を連れて、ヒュドール・リサーチ&エンジニアリングに踏み込んだ。空気を読むレイランドの許可が得られないのは分かっているが、ヒュドールの関与は疑う余地がない。あの子ヤギの脅しが物語っている。決して、放ってはおけないのである。
使ったのはデクランのルート。ハイ・ソサイエティのデクランの願いが通らない筈もなく、何故か職域が違う陸軍犯罪捜査司令部が動く事になった。見事な越権行為である。
仮に犯罪の痕跡を見つけた場合も、その証拠が正式に認められるかは疑わしいが、通常のルートを辿った場合も同じ事である。法的な手続きは別にして、何よりも将来の犯罪の芽を摘む。これは急務である。
軍人も多い陸軍犯罪捜査官達は、強靭な肉体を誇る。スーツ姿の違和感を隠せない。
強い日差しをサングラスで遮る彼らは、美しい植栽に溢れる研究施設内の空気を、物々しいものに変えた。

エントランス・ロビーに一番に乗り込んだデクランは、受付に出てきた総務部長の前で、謎の手紙を読んだ。
「被疑者、ヴィルヘルムス・ブリンクマン。被疑者に対するテロ等準備被疑事件について、下記の通り、捜索及び差し押えをする事を許可する。」
捜索差押許可状の様に聞こえるが、確実にフェイクである。背後のロレンツォは小さく笑ったが、総務部長の答えを待つ事なく、室内に入った。もう、一歩も引けない。ロレンツォの連邦捜査官としての人生で、最大の賭けである。

二時間後。その賭けは、サプライズと共に成功である事が証明された。
アナイス・デュプレシ。彼女が見つかったのである。
陸軍犯罪捜査官二人は、スーツ姿の彼女を両脇から挟み、チェアに腰かけていたロレンツォとデクランの前に連れてきた。理由は、彼女が隠し部屋にいた事と、彼女本人がトップと会いたがった事。確かな要注意人物である。
アナイスの姿を見た瞬間、デクランから女の趣味を聞かされ続けていたロレンツォの頭に、鮮明な記憶がフラッシュ・バックした。
エイレネの電磁パルス攻撃の時に、バンで見かけたホワイト・ブロンド。
あのシルエットは、今、目の前にいる彼女のもので間違いない。
アナイスは、九年の年月を経て、若干、年を重ねたものの、グレー・ヘアになったロレンツォとは比べ物にならない程若い。九年前に、たった一度だけ会った、あの時のままである。
別に、ロレンツォに異常な記憶力がある訳ではない。直後のスカーレットの誘拐とアナイスの疾走により、ロレンツォの記憶に、その姿が深く刻まれていた。それだけである。
ロレンツォは背筋を伸ばした。難解な事件が解ける前にありがちな空気を感じたのである。
「髪を染めないのは、犯罪者としての自覚がないからか。」
ホワイト・ブロンドは目を惹く。捕まりたくなければ、一番に髪を染める筈である。足を組んで座っていたロレンツォは、名前さえ呼ばずに、アナイスを挑発した。使ったのはA国語。歩み寄るつもりはないのである。不安のどん底に落ちてもらって構わない。
返事を待っている間、ロレンツォの頭の中で、パズルのピースは流れる様につながった。
F国でスカーレットを誘拐し、奪い取ったクローン技術をチヌアに売り込み、完成したアレースを更に奪って、ヒュドールに身を寄せた。ヴィルヘルムスと共謀して、アレースの価値を教える見せかけのテロ行為を繰返し、世界中にアレースを売っている。全てが可能性に過ぎないが、彼女の足跡からは、そんなシナリオが出来上がってしまう。何から何まで、この女は怪しいのである。
アナイスは、ロレンツォを観察してから口を開いた。
「あなたが髪を染めない理由は何?」
ロレンツォと面識のある事に、気付いたのである。まずは言葉が通じると分かると、デクランが立ち上がり、アナイスに顔を近づけた。
「チッピー。喉は乾いてないか。」
明らかに水攻めを始める気である。苦笑したロレンツォは、腰を上げて、デクランの手を掴み、チェアに引き戻した。ただ、決してアナイスを許す気はない。
ロレンツォは、もう一度足を組むと、アナイスに話しかけた。
「君のチェアはない。君の態度によっては、二十四時間。四十八時間。何日でもだ。」
アナイスが一切表情を変えないでいると、ロレンツォは言葉を続けた。
「ここで何をしてた。」
本当にその通りである。デクランと二人の捜査官は、一斉に声を上げて笑った。特別、何が面白いわけではない。威圧する事に意味がある。笑いは武器になる。聴取中に犯人の母親が死んだ後、ある捜査官は何も言わずに笑い続けた。それだけで、犯人は自白する。そういうものである。
アナイスは、微笑みながら答えた。彼女の人生で起きたイベントの中で、今日のイベントは決して大きい方ではない。
「全部は言えないわ。私が全てを知ってるわけじゃない。全部一人で話した場合のメリットとデメリットなら、デメリットの方が大きいもの。」
正直である。ロレンツォは、アナイスの顔を見つめた。
「普通に話してくれていい。もう君は、憲兵隊員じゃないだろう。」
彼女の偽善の皮をゆっくりと剥さなければならない。男なら、ネクタイとベルトを奪うと気持ちが変わるらしいが、アナイスは最初からノー・ネクタイである。
「あなたは分かってないわ。」
アナイスの妙な余裕に、ロレンツォは不安が隠せなくなった。全ての糸が解け始めた予感が、逆に、今の不安定な状態を教えているのかもしれない。まだ、答えに行き着いていない。宙に浮く様で、好きではない感覚。ここは面倒を避けて、制圧である。
「君には、見るべきものが見えてない。確かなのは、君のたった一人の息子が、国際的なテロリストの息子として、悲惨な人生を送る事だけだ。」
意外と厳しいロレンツォの言葉にデクランがニヤついた時、ロレンツォの電話が鳴った。レイランドからである。
「今、どこにいる。」
レイランドの声に怒っている様子はないが、緊張感が漂っている。黙っていても、今日の捜査が彼の耳に入るのは時間の問題である。
「S郡のヒュドールの研究施設だ。」
ロレンツォの返事に一瞬止まったレイランドは、すぐに言葉を再開した。
「その件は後で聞く。そこからすぐのP工業団地。あのスラムに、アレースがいるらしい。警察が包囲し始めてる。行くか?」
ロレンツォは、小さく笑った。貴重過ぎる情報であるが、今、まさにこの捜査のせいで、アレースが逃げ、人目についた。そう考えるのが普通である。レイランドがどう思おうと、それは自分達の成果。あるいは失態だろうか。
「すぐ行く。いつも、ありがとう。レイランド。」
優先順位は、変わったのである。レイランドは即答した。
「本当に感謝しろ。これは貸しだ。」
彼は相変わらずである。笑いながら立ち上がったロレンツォにデクランが続くと、アナイスは声を上げた。
「行くと、後悔するわ。」
振り返ったロレンツォは、何も言わずにアナイスを睨んだ。銃撃戦になる可能性が高い時に、精神的な揺さぶりをかけている。卑怯で、下らなくて、下劣。ロレンツォには、そう映ったのである。そして、気持ちのはやるデクランは、後悔という言葉が自分に向けられた事にすら、気付かなかった。

車で五分ほどのP工業団地は、RC造十階建のアパートが二十棟程並ぶ、築五十年以上の所謂スラムである。アパートの外装のタイルは、目立つ程抜け落ち、そこに住む者の心と財布を象徴している。二十棟をブリッジでつなげて、大地震にも耐えるのが売りだったが、その空室の多さと逃げやすさから、今ではギャングのたまり場になっている。アレースが逃げる先として選んだのは、正解である。
陸軍をヒュドールに残し、郡保安官とハイウェイ・パトロールの群れと合流したロレンツォは、バッジが眩しいヘルナンデス保安官に、状況の説明を求めた。
「S通りで職務質問を無視したセダンを追った保安官補のパトカーが、この構内で☆☆☆☆に撃たれた。最初にやったのは、ドープ・ボーイだ。△△△△が物を投げ始めてから、空気がおかしくなった。団地中が興奮してる。」
言われたロレンツォは団地を見渡した。確かに、家具が時々落ちてくる。罵声も聞こえるが、誰に言っているのか理解できない。
警察に踏み入ってほしくない面倒な奴らが暴れている。そういう事である。
ロレンツォが防弾チョッキを装着していると、ヘッケーラー&コック MP5Aを持ったデクランが戻ってきた。彼のお気に入りの装備である。
ロレンツォは、聞いた話を伝えようとしたが、デクランはデクランで情報を仕入れていた。
「アレースの〇〇〇〇車は、〇〇〇〇十号棟の前。一番手前の※※※※だ。そこから動いた話は聞かない。」
ロレンツォの話を待たずにデクランが動き出すと、ロレンツォはヘルナンデス保安官に声をかけた。
「援護を。」
どこから仕入れた話か知らないが、デクランは正しいに決まっている。マイク付きのイヤホンを受け取ったロレンツォは、ヘルナンデス保安官に何の策も告げずにデクランの後を追った。時間の感覚もない☆☆☆☆の世界で、おとりも何もない。速攻あるのみである。
デクランとロレンツォがアパートに向かって走ると、保安官達は援護射撃をした。不要な弾かもしれないが、二人を死なせるわけにはいかない。どっぷり漬かった☆☆☆☆も、銃弾の雨の中に顔は出さない。銃声が続く事。それが大事なのである。
デクランとロレンツォは、まずはエントランス・ロビーに滑り込んだ。しかし、そこは決して安全ではない。二人がルートの確認のために顔を見合わせた瞬間、今までとは違う銃声が響いた。保安官達ではない。
デクランは、瞬時に狙撃者の位置を特定すると、ヘッケーラー&コックの音を響かせた。
あくまで条件反射であるが、その後、銃声は聞こえなくなった。機関銃は能弁である。
その場に留まる理由はないので、二人はその場を離れ、内廊下に入った。さっきのは、きっと奥の棟のグーフィー。終わらない悪夢に浸っていてくれて、構わない。
ロレンツォもシグ・ザウエルを両手で構えると、二人は周囲を見回しながら、廊下を進んだ。

最初の部屋には、ドアがなかった。順に部屋に入ったデクランとロレンツォは、胸の悪くなる様な汚物の山を見つけた。この団地で、たまり場になれば、こうなって当然である。二人が銃口で部屋を舐める様に探した限り、この部屋には誰もいない。
ロレンツォは、窓の外にヘルナンデス保安官を見つけると、マイクで話しかけた。
「早く助けに来てくれ。臭くて死ぬ。」
聞き耳を立てていたデクランは、ニヤつくと戸口で外を警戒した。それは、彼の習性である。
二人は、滑る様に、隣りの部屋の前に移った。今度はドアがある。デクランがノブを回すと、ドアは少しだけ開いた。気持ちを整えるために、ロレンツォが大きく息を吸った瞬間、遠くから銃声が響いた。この音は聞き覚えがある。ヘルナンデス保安官達が動き始めたのである。確かに、直接、頼まれて、全く動かないわけにはいかないだろう。
今がチャンスである。ドアの向こうに誰かがいても、銃声の方に気をとられているに違いない。デクランは、ロレンツォを見ながら、にこやかに頷くと、ドアを大きく開けた。仕事の時間である。
ただ、二人の予想は外れた。
止まらない銃声は、機関銃。相手の注意は、このドアに釘付けだったのである。
耳を押さえて、壁に隠れたデクランは、眉を上げて笑った。ロレンツォには、そんな余裕はない。廊下の向かいの壁が砕け、コンクリートの破片を散らすので、少なくとも痛い。
そんな中でも、デクランは、落ち着いて、銃声が止むのを待った。尽きない弾はない。それは絶対である。相手の不幸を挙げるなら、こちらも機関銃を持っているという事である。
待っていた瞬間が来ると、デクランは躊躇わずに部屋に踏み込み、銃声を響かせ、マガジンを入れ替えていた男の体を壊した。後ろで銃を持っていた女もろともである。出鱈目なタトゥーを入れた迷惑な奴ら。さっきと同じ様に、部屋の中を探したデクランは、戸口のロレンツォに微笑みかけた。
「服ぐらい着せてやりたかったな。」
確かにそうである。検視で生き恥を晒す事すら、考えなかったのだろう。気の毒だが、正当防衛である。
悪夢の予感に、ロレンツォは、不都合から目を逸らすと、今来た方に目をやった。保安官達が、追いついたのである。こうなれば早い。ヘルナンデス保安官がいないのは気になったが、出口の守りも大事かもしれない。間違ってはいない選択である。
ロレンツォは、デクランと一緒に狂った部屋のドアを開き続けた。
人が生活する家は、家族や友人の愛に満ちているべきである。例え、見せかけの幸せでも、誰かが誰かのために、微笑む場であるべきなのである。
しかし、この団地の全てのドアの内側は、汚物と腐臭。薬物と病人。堕落と退廃。貧困と暴力に満ちていた。一つの布団に、これだけの子供が寝るのはおかしい。おむつは変えるもの。食べ物をのせる皿は洗うもの。子供は銃を持たないもの。
ロレンツォは、人類の最低限のルールを次々に肌で感じた。
全ての部屋に未来はなかった。その感想に、間違いはない。
それでも、ロレンツォとデクランは、アレースを探すため、自分達が守らなければならない一般人が住む筈の部屋のドアを開き続けた。
時に混ざる犯罪者は病人である。ロレンツォ達は、彼らを捕まえて、刑務所で治療してやる医者の様なもの。いつか、ラーヒズヤにも語った、ロレンツォの自論である。それ以外、彼らに同情する理屈はない。
銃を使う事も辞さない。それが平和のため、愛のために必要なら、仕方がない事なのである。

別の棟との渡り廊下のある階は、もう残り一階だけ。この棟にアレースがいれば、そろそろ動き出していなければおかしい。
ロレンツォは、ヘルナンデス保安官にマイクで話しかけた。
「アレースは見たか。」
「いや。俺達だけだ。」
ヘルナンデス保安官の即答に、ロレンツォは苦笑した。誰が俺達なのか。自分も突入している気分になれる理由が分からない。ただ、普通に考えると、もうすぐアレースが現れる。お山の大将を気にしている暇はない。
そして、ロレンツォとデクランが顔を見合わせた時だった。
一室のドアが開き、銃を持った男が二人現れた。アレースではない。鍛え上げられた体とスキン・ヘッドから判断する限り、薬屋である。親から仕事を教わった彼らは、自分では薬をやらない。幼い日に更生施設で鍛えて以来の頑強な体は、彼らをタフに見せる。真面目な悪が、仕事に出てきたのである。
二人が放ったショット・ガンは、ロレンツォの前に居た保安官達の体をとらえ、ロレンツォの視界はきれいに開けた。まるで、勢いよく幕が開いた様だった。
ロレンツォとデクランは、残った保安官と一緒に負傷者を引きずりながら、階段室まで後退した。作戦は変わらない。国は絶対に弾の数で勝る。制圧するのである。
ロレンツォは、時々、手を出し、どことはなしに発砲した。変化を呼ぶために必要な事である。
暫くすると、薬屋の銃声の種類が変わった。今までより、軽い音。何丁か持っているのだろうが、それも長くは続かない。銃声を聞きながら、ロレンツォとデクランは、負傷した保安官達に目をやった。ショット・ガンは、腕や足の肉を大きく削っている。決して、元通りに治るとは思えない。流れる血は手で押さえただけでは止まらない。命に関わる量である。
一度俯いたデクランは、やがて銃声が途絶えると、ヘッケーラー&コックを構えて、立ち上がった。相手に考える時間を与えてはいけない。常に速攻あるのみである。
デクランは、銃の代わりにナイフを手にした二人を見つけると、ヘッケーラー&コックを構えた。
ここは戦場ではない。もしも発砲すれば、明らかに過剰な防衛になる。一階で機関銃を持っていた男女とは違って、今、目の前にいる相手は一切の火器を持っていないのである。戦意だけを挫いて、逮捕しなければならない。ロレンツォはそう思った。
ただ、デクランは違った。保安官達の仇をとる。彼の頭には、ただ、そのシナリオだけが浮かんでいたのである。
デクランは、二人の足に機関銃を向けると、躊躇う事なく発砲した。
乾いた音と絶叫。それは避けられない。
一人は膝が砕けて物理的に、一人は痛みでしゃがみ込んだ。この距離なので、勿論、狙い通りである。
デクランは、悶える二人に近付くと、手に握られたナイフを蹴飛ばし、熱い銃口で顔をつついた。
「ヘイ、※※※※。〇〇〇〇足だけで済むと思ってんじゃねぇか。」
男達が、銃口から逃げようと顔を背けても、デクランのヘッケーラー&コックは追い続ける。
庇いようのない暴力を目の前にして、しかし、ロレンツォは、止めに入る事が出来なかった。心のどこかに、デクランと同じ気持ちの自分がいたのである。正義の鉄槌を下してほしい。軍人を送り出す時は、いつも、こんな気持ち。警官を狙った悪党には、見せしめが必要である。それは、ロレンツォだけではない。その場にいた全ての保安官の正直な気持ちだった。
デクランは、二人の眉間、鼻の穴から口へと、燃える様な銃口を順番に突き付けた。
「〇〇〇〇××××。ガキみてえに、ポー・ポー叫んで、逃げときゃいいんだ。撃ち返してんじゃねぇよ。なんで、人助けに来た奴が車椅子だ。ロボット・ハンドになるんだ。」
正義の使者デクランは、銃口を一人の男のこめかみに突き付けると、野太い声で吠えた。
デクランの言葉は、ロレンツォ達には牧師の説教の様にさえ聞こえた。
そこにいた全ての者がデクランに感謝した。
それは、そうは言っても、彼は撃たないと信じていたからである。絶対に、これ以上、銃声は響かないと。
しかし、次の瞬間、ロレンツォは大きく口を開けた。
デクランの怒号を、かき消す様な轟音が轟いたのである。
その場の誰もが驚愕する中、大きく血の華を咲かせたのは、デクランだった。
被弾したのは頭部。
頭の出血は酷い。人間ポンプである。意識を保つ術のないデクランは、自らの身を庇う事なく倒れた。重力のなすままである。
ロレンツォは、這う様にデクランの元に進んだ。何も考えていない。本能である。床は保安官とデクランの血で滑るが、血のせいだと気付く余裕もない。
ロレンツォは、デクランを引きずりながら、開いていたドアの陰に身を隠した。
ちょっとの間にも、ロレンツォのスーツは、デクランの血で深いレッドに染まっていく。鉄の臭い。図太いデクランの心臓の最後の仕事である。
噴き出る血を抑えようとしたロレンツォは、デクランの形が変わった頭を一瞬見ると、顔を背けた。敵が使ったのは、普通の銃ではない。
ロレンツォは、ドアから少しだけ顔を出した。ここから見える場所に、狙撃者がいる筈である。
寂れた団地。どこまでも無機質で汚れた塊。
ロレンツォの瞳は、まもなく一人の男の姿を見つけた。
廃墟の中で静かに、しかし力強く佇むアレースである。
無表情の彼は、上階の渡り廊下に立ち、こちらを眺めていた。
倒れているスキン・ヘッドの二人とは、明らかに人間の種類が違う。右手に握られたでかい銃の種類は知らないが、二発目を撃つ様子はない。
エレベーターで死んだアレースを見たせいかもしれないが、ロレンツォは、もう一度目にしたアレースの姿に、隠し切れない生命力を感じた。近付き難い。あるいは純粋な恐怖かもしれない。
それだけではない。落ち着き払ったアレースを見ているうちに、ロレンツォの脳裏に妙な考えが過ったのである。
アレースは、この暴漢達を救ったのではないか。
抵抗できなくなった二人を機関銃でいたぶるデクランを倒し、残るロレンツォ達が非情な暴力に走らない様に、見ているのではないか。
人を傷つけてはいけない。何かの回路が、そう判断を下した。考えられない事ではない。
ロレンツォは、その時、正義の逆転を感じた。ロバート・ジョンソンに叫ばれた時も感じた漠然とした不安。モラル・ハザード。きっと、これがそうである。
吐き気に襲われたロレンツォを前に、アレースは、ゆっくりと渡り廊下を歩き出した。
保安官達が後を追おうとすると、グレー・ヘアを血に染めたロレンツォは叫んだ。
「やめろ。」
数で押すのは浅はかである。あのアレースは、今までのアレースとは違う。
多分、死も恐れずに戦い、自分が死んでも、一人は確実に殺す。
何人もいるアレースを殺すために、もう誰も死んではいけない。その先の成果は、ヒュドールとアレースの関係の裏付けだけ。アレースが何を喋るとも思えない。
無駄死には、避けなければならないのである。

その日の夜。連邦捜査局のガラス張りの会議室に、ロレンツォはある男と二人きりでいた。
一目で身なりのいい彼は、知的なブラック。鍛え上げた肉体を、ロロ・ピアーノで軟らかく包む彼は、誰が見てもパーフェクトである。
会議室の並ぶ吹抜けのフロアの照明は消え、人影もない。物音一つしないその空間には、外の世界から断絶された様な空気が漂っていた。足を組んだ彼が時間を選び、その条件を整えたのである。
「ヒュドールの捜査は無効だ。何も証拠にならない。」
声を発したその彼は、ロレンツォのバディ、レイランドである。
疲れた表情を見せたレイランドは、正面のロレンツォの言葉を待たずに話し続けた。
「N国でアディーチェを捕まえて、このA国でブリンクマンの資産を荒らした。この世に主役がいるなら、二人にはその資格がある。おまけに、死んだグリフィス中尉の義父は陸軍大将のドミニク・リードだ。一人でギャングの前に出た英雄の息子を、君達は見殺しにした事になってる。」
分からなくはない解釈に、ロレンツォが静かに頷くと、やはりレイランドが言葉を続けた。
「人間は一人で生きてるわけじゃない。社会のどこかでつながってる。機械じゃないから、感情的にもなる。涙は広がる。分かるだろう。」
大体、言いたい事が分かったロレンツォは、小さく両手を広げた。
「長い付き合いだ。庇ってくれ。」
レイランドは、ロレンツォの顔を一瞥すると、チェアを軋ませた。
「庇った。勿論だ。でも、限度がある。交渉しながら、僕も思った。目指すレベルに妥協が必要だ。」
ロレンツォは、何度か頷くとテーブルに肘をつき、二人の顔の距離を保った。レイランドとの距離が遠のく事さえ、不安になる。
「それで、僕はどのレベルで我慢すればいい。」
レイランドは、ロレンツォの顔を暫く見つめると、人差し指をたてた。
「連邦捜査局にはいられない。君の人生も変えないと、もう誰も話を聞いてくれない。何より、デクランはそのぐらい愛されてる。そんな感じだった。」
レイランドは口にしないが、連邦捜査局を無視した違法捜査の上の銃撃戦である。幾ら正義のためでも、ノーと言える立場ではない。黙り込んだロレンツォを前に、レイランドは、言葉を付け加えた。
「君は、ニコーラが消えてからおかしかった。君はどういうつもりだったか知らないが、君の報告書は全部が全部、奇妙だった。ドクター・アーキンが絡んだ時なんか病的だ。誰にも分からなかった。勿論、いい意味じゃない。そんなに優秀なのに。本当に、可哀そうなぐらいだった。友人として言いたい。君は、少し休んだ方がいい。」
きっと、それは彼が心の内に秘めてきた本心である。
ロレンツォは、自分より絶望して見える、長年のバディの顔から目を反らすと、何も言わずに会議室を出た。

間もなく、レイランドの計らいで州警察の職を得たロレンツォは、それでもヴィルヘルムスに何度か近付いた。状況証拠は十分すぎる程あるので、もう一押しなのである。
N国では、もうチヌアとラシディは保釈金で実質的な自由を買っている。彼らが、これ以上、アレースに関わるとは思わないが、形式的には、ロレンツォとデクランの努力が無になりつつあるという事である。
残るヴィルヘルムスは、ただ死を待つには早過ぎる程、若い。アナイスもアレースも野に放たれたまま。あの男の経歴を一刻も早く塗り潰し、表舞台から追放しなければ、全てが水の泡である。
しかし、レイランドにデクラン、連邦捜査局の職を失った今、ロレンツォが頼れるものは、もう何もない。
何かを変えるため、ある素数の日、アポイントメントもとらずにヴィルヘルムスを訪問したロレンツォは、間もなく、レイランドから電話で正式に抗議を受けた。
ヴィルヘルムスからではない。レイランドからである。
ロレンツォは、その日のうちに退職し、間もなくシークレット・サービスを新しい職に選んだ。デクランだけでたくさん。誰が見ても優秀なレイランドの人生まで変える気になれなかったのである。
ロレンツォも意外だったが、連邦捜査局を離れて、三か月ほどの間の出来事だった。
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