第28話 招待

文字数 3,318文字

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F国某所。スピリット・オブ・エクスタシーで風を切るブラックのセダンの静かな後部座席に、ラシディとナトンが並んで座っていた。二人の会話が途絶えてから随分になるが、例え、会話があったとしても、ハンドルを握るラシディの部下は、その内容を墓場まで持っていく。助手席の部下もそうである。
沈黙の理由は、ラシディである。ナトンを連れ出し、今日の仕事を終えた高齢のラシディが、ナトンの言葉を無視した。そこからである。
やがて、我慢できなくなったのか、ただ、フロント・シートの背を眺めるラシディに向かって、ナトンが口を開いた。自分を誘ったラシディのこの態度はありえない。それを伝えるためである。
「僕が見せる奇跡への関心は?」
ラシディは、ナトンを一瞥すると、黙って、前を向いた。もう必要な事は話し終えたのである。金は出すから、N国に来て、チソマガのクローンをつくれ。それだけである。
プライドの塊のナトンは、言葉を続けた。
「違う大陸まで行ってやるんだ。接し方ってもんがあるだろう。」
もう一度、ナトンを見たラシディは、暫くナトンを観察すると、顔を近付けた。但し、決して、口は開かない。その気がない事を伝えるために、必要な事である。
馬鹿ではないナトンには、当然、伝わった。
「君はアディーチェ会長の側近だから、この失礼も許さない事はない。A国だって、R国だって、コンタクトしてきた。でも、無視した。中途半端な金しか、もらえないからさ。でも、アディーチェ会長は違う。本物の金持ちで、しかも、死期が近い。僕の才能を活かすのに、これ以上の環境はない。僕は、チャンスを決して逃がさない。」
ラシディは、久しぶりに口を開いた。低い声である。
「N国の皆は、彼をチヌアと呼ぶ。皆の友人で父親だ。忘れるな。」
ナトンは、ラシディの送った迫力だけは正しく感じ取ったが、しかし、とにかくラシディが沈黙を破ったので、微笑みを浮かべた。本人が気づいているかは知らないが、卑屈な笑みである。
「チヌアか。チヌア。そうか。あの大金持ちをファースト・ネームで呼べるなんてね。」
ラシディは、手放しに喜ぶナトンから目を逸らした。好きになれない男である。ただ、人を嫌う程、暇でもない。ラシディは、嫌な事を忘れる時の様に、頭を空っぽにして、フロント・シートの背を眺めた。
ラシディの気持ちは別にして、その様は他人の目には暇と映る。ナトンは、止せばいいのに、また、話しかけた。知らないと言う事は、幸せな事である。
「チヌアは本当についてる。他から誘いがあったのは、本当なんだ。僕は、二年前に、加齢促進技術に成功した。君の倍ほどある大男だ。クローンだと、時々出来るって知ってたけど、本当に出来た。何しろ頑丈で、奇跡が起きた。でも、それだけじゃない。普通のサイズのクローンでも、培養液に漬けておくと老化しない。感動だよ。でも、皆、それでも満足しないんだ。培養液の外でも、老けずに動ける様にしろって。公表した時に、悲惨さが勝つって。夢の技術じゃないと、駄目だって言うんだ。馬鹿だろ?そんな事に拘ってるから、いつまで経っても、結果が出ない。」
ナトンは、ラシディの反応を待ったが、無駄な事だった。フロントの二人もそうである。
ナトンは、自分の頭に描いた話を終えるためだけに、言葉を続けた。
「それで、僕は考えた。公表の仕方だって、頭を使えばいい。僕はでかいのを外に逃がした。街は大騒ぎになったけど、メディアが食いついた。分かる人には分かる。一瞬さ。」
ラシディがゆっくりと顔を向けると、ナトンは微笑んだ。それは、彼がラシディを分かっていないという事である。
「元々、噂は広まってた。テレビや雑誌で見る有名人から、連絡が来てた。海外からもだ。それでも僕は我慢した。自分を本当に高く買ってくれる、最高の人間を待ったんだ。僕にほんの少し魔が差せば、R国に行ってた。でも、運命はそうさせなかった。あの事件の後も、暫く待った。国に監視されるのは辛かったけど、でも報われた。神様は、今日と言う日を、準備してくれてたんだ。最高の人間。チヌアへの道。ラシディ。それが君だ。」
ラシディは、それでもチヌアが褒められた事で、少しだけ微笑んだ。
「思うのは自由だ。」
あまりに短い答えに、ナトンは顔を横に振った。
「他にどう思うんだ。僕が行けば、チソマガのクローンが幾らでも出来る。僕が何よりも感動したのは、そこだ。自分の息子のクローンをつくろうなんて。子孫の繁栄を見たいなんて。さすが、チヌアだ。」
ラシディとチソマガの考えている事は全く違う。ナトンが何を考えようと、本当に自由だが、自由に喋られるのは、また別。耳障りである。
ラシディは、話をコントロールするためだけに、ナトンに話し掛けた。
「仕事が済んだら、どうする。」
チヌアの脳を息子のクローンに移植するのは極秘事項である。ナトンがどんなゴールを迎えるつもりなのか。あくまでも彼の意見に過ぎないが、いずれは聞かなければならない。
ナトンは、口角を上げて微笑んだ。今のナトンの頭には、ハイ・クラスのビジョンしか浮かばない。長い冬を超えた。やっと、春が来たのである。
「学会に公表するね。賞ぐらいは欲しい。医療にも、きっと革命が起きる。チヌアから施してもらうだけじゃない。環境さえ、整えば、僕は稼げる男だ。豊かな生活が待ってる。歴史にも名を刻む。」
ラシディは、眉を潜めた。取敢えず、無理な話である。何よりも、彼が誤解しているのは、ラシディ達に、ナトンの考えた技術で、クローンをつくる気はないという事である。
ラシディ達は、二年前に、アナイスから奪ったスカーレットのデータの暗号解読に、とうとう成功した。つい先日の事である。
一年前、スカーレットとロレンツォを襲い、N国に来る様に仕向けたが、彼らは動かなかった。死期の近いチヌアのために、危険な賭けに出たのだが、彼らは、誰かがつくった法を守って命を落とす、妙な生き物だったのである。
一刻を争う中、成功が確実なスカーレットのクローン技術を実行する腕として、ナトンは早い段階から候補の一人だった。情報源は、アナイスである。
名誉欲の高いナトンが秘密を守れるとは思えないので、彼に依頼する以上、彼から自由な生活を奪うつもりだった。ラシディ達がスカーレットのデータを解読した時点で、ナトンの運命は決まったのである。
実際、ラシディが、気に入らない男に喋らせておく理由は、それだけである。決して、高く買っているわけではない。ナトンの想像とは全てが逆。期待に胸を膨らませる彼の未来を奪う事は、強者には絶対に勝てない事を血で知るラシディにも、悲しい事なのである。
ラシディは、微かに微笑むと、短く言葉をかけた。
「人の脳を見ないで済むのが、豊かな生活だ。」
ラシディの哲学は、ナトンの顔から笑顔を奪った。それは、ナトンにとって、あまりに特別なナトン自身を侮辱する、許されない言葉なのである。
ナトンは、常々、自分に言い聞かせてきた言葉を口にした。
「名を刻もうとしない限り、決して、名は残らない。」
ナトンは、小さく震えた。怒っているのである。怒りが伝わると、どうなるかを考える事もなく、感情に任せて。
「僕は君とは違う。君達ともだ。」
ナトンは、ラシディだけではなく、一言も発する事のないフロント・シートの二人も断罪した。
「僕は崇高な使命のために、人生の全てを捧げてきた。皆が悪夢と呼んできたものを、偉大な事業に変えようとしてる。でも、君達は違う。眠り過ぎて、目が覚め、腹をすかせて、食べ物を口にいれ、糞をして、時間を潰して、眠る。色気づいたメスと映画の真似をして、下品な冗談を言って、人に媚びて、安酒を飲んでたら、そのうち、動かなくなる。それで土の中だ。低能な仲間は、すぐに君達を忘れる。君達と同じで低能だからだ。でも、僕は違う。永遠に皆に語り継がれる。歴史に名を刻む。」
ラシディは、黙って耳を傾けた。ナトンが怒っていようがいまいが関係ない。取敢えず、この男が歴史に名を刻む事はない。決して、逃がさないのだから。
ナトンは、その後、暫く騒いだが、三人のブラックは、一言も言葉を返す事はなかった。
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