第66話 昇天

文字数 6,152文字

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A国Y州S郡の午後五時。
電磁波攻撃に備えて、全所員が避難したヒュドール・リサーチ&エンジニアリングの敷地内を、グレー・ヘアのロレンツォは、無線を片手に歩いていた。ステルス・マントがなくても、知的な面持ちの彼を見て振り返る者は誰もいない。ジャイアント・セコイアやヒッコリー、ブラック・チェリーに、ローズとハーブの香りが混ざる空気を吸いながら、ロレンツォは、まだ通じる無線に向かって静かに語り掛けた。
「聞いてほしい。前から、考えてた事なんだ。」
相手は、ゴルダである。彼女の中には、オールOKの選択肢しかない。皆の殺気を感じるこの瞬間は猶更である。
「話して。」
ゴルダの期待通りの答えに、ロレンツォは誰もいない中庭を眺めた。二百年程前、確か、この辺りに好きな花があった筈である。名前は知らない。
「想像してほしい。ブラック・ドットは、与えられたエネルギーの吸収と放出を繰返して、バランスをとる。与えたエネルギーの分だけ大きくなる。今、爆弾で大きなエネルギーを与えたら、何が起きるか。」
ゴルダは、普通に答えた。
「爆風はブラック・ドットに吸い込まれて、ブラック・ドットは、周りを削りながら大きくなるわね。」
当たり前の答え。ゴルダは、やはり話せる相手である。
ロレンツォは周囲を見た。無線を使い続けると、ドローンやカートが近づいてくる。人間の姿をスキャニングする彼らは、集まるだけ集まっても目標を達成できず、結果、ロレンツォの周囲に群れを成すだけである。
「爆破のエネルギーは拡散するけど、それがブラック・ドットならどうなるのかと思う。揺れる時、与えたエネルギーの範囲にあるものを全部削っていくなら、爆弾よりも遥かに効果があるかもしれない。」
ゴルダは、黙って耳を傾けた。
「なかなか難しいんだ。ブラック・ドットが異空間とつながる穴みたいに言うのは簡単だけど、どうつながるのか分からない。ただの穴なら、エネルギーを与えた時に何故揺れるのか。吸い込まれる様に消えるのも気になる。例えば、風船みたいに内側と外側に空間があるとか。何かの仕組みでバランスがとれてるけど、ある瞬間に内側と外側が入れ替わるとか。僕達が、ずっと地球が動いてると知らなかったみたいに。他の空間がある事を説明するには、そのぐらいの仮説があっていいんじゃないかと思う。」
ロレンツォは、目の前で止まっているカートを避けて、歩き続けた。
「サミュエルは、重力をかけ過ぎて、空間の風船に針で穴を開けたんじゃないか。風船が割れる時に、ゴムは一瞬で縮んで、中の空間を消してしまうけど、あれに似た事が起きてる気がする。エネルギーを与えると、空間の境界が揺らいで、別の空間に運んでしまうとか。」
黙って聞いていたゴルダは、やっと言葉を発した。
「何を言ってるの?」
そう。理解不能である。常識的な反応に、ロレンツォは小さく笑った。
「済まない。確かにそうだ。昔、僕が勝手に考えてた事なんだ。でも、イベントの方。ブラック・ドットの前で爆風を起こすと、かなりの範囲のものを異空間に持っていく。それは、そう思うだろう。」
ゴルダが黙ると、ロレンツォは笑いながら続きを口にした。
「爆弾をアレースに直接つけても、足元の防護壁も破壊出来ない。だから、最初の計画になった。前にも言った筈だ。でも、ブラック・ドットなら、異空間とのエッジが、テザーを通るだけでいいんだ。」
ゴルダは、正直な気持ちを伝えた。
「誰にも分からないわ。」
それもそうである。無線で話している間に、ブラック・ドットのある部屋に辿り着いたロレンツォは、静かにドアを開けた。ロレンツォが部屋を後にした時と変わらない。ブラック・ドットのカバーは、大きく口を開いている。この時のためだったのだが、ブラック・ドットへの期待の大きさが、この期に及んで、ロレンツォの動きを止めた。少し空気が重い様な気もする。
無言の時間に耐えられなくなったのは、ゴルダの方だった。
「何かがおかしいわ。あなたの言い方が何か変よ。ブラック・ドットを爆破するだけなら、普通に帰って来れるもの。タイマーを使えばいい。ステルス・マントをかければ、ドローンもカートも反応しないわ。一回、戻ってくればいいのよ。」
ロレンツォは、頭のいいゴルダが愛おしくなった。よき理解者である。
「フランチェスコとは話した。試してみたい事があるんだ。」
ゴルダがフランチェスコを見ると、彼は小さく頷いた。ジネヴラもジョバンニもフランチェスコの言葉を待ったが、無線の向こうのロレンツォの声の方が早かった。
「僕は、その瞬間のブラック・ドットに飛び込んでみようと思ってる。」
ゴルダは、驚かなかった。ロレンツォに初めて会って以来、ずっと感じていた事である。
彼は、いつもこの世の住人の様で、そうではなかった。
それは、他の仲間も同じ事。皆の口から出るのは、溜息だけである。
「誰も泣いてくれないから、驚いてる。」
無線の向こうのロレンツォの声に、ジネヴラが声を上げた。
「ロレンツォ。ごめんなさい。」
ただ、ジネヴラは言葉を続けなかった。ロレンツォには、言いたい事がある筈である。
「問題ない。想定の範囲内だ。」
ロレンツォは、スーツ・ケースを開けた。いつか、トレーラーで見たエマルション爆弾。あれは預かったものではない。全てはこの日のためだったのである。
ロレンツォは、ブラック・ドットの前で、準備を始めた。
「最初は壊すだけのつもりだった。でも、いつか、ゴルダが言った。ブラック・ドットの中の重力が違うなら、時間の進み方が違うかもしれないって。それに賭けたくなった。僕と同じ時間を生きてた人が、誰かいるかもしれない。」
ゴルダは答えを急いだ。自分の憶測のせいで死なれるのは、堪ったものではない。
「それは例えばの話よ。普通に考えると、体が壊れるだけ。それに、もしも別の空間に行けても、人間が生きられる場所かは分からないわ。死ぬと思うのが普通よ。」
ロレンツォは笑った。
「それはそれで、僕と同じ時間を生きてた人の所に行ける。皆が揃ってる。」
ゴルダは絶句した。重症である。ジネヴラが、ゴルダの手から無線をとった。
「ロレンツォ。皆がいるじゃないの。死にたくなるぐらい、今の時間が嫌なの?」
ロレンツォは、ジネヴラの顔を思い浮かべた。
「そういう問題じゃないんだ。僕は僕を想ってくれる人のお蔭で、この時間にいるけど、僕は普通ならもう死んでた。今更、前の人生が全部間違ってたって、全てをやり直せと言われたって、それは無理だ。目覚めた瞬間に死にたいぐらいだったけど、それでも我慢できたのは、このアレースを壊したかったからだ。金持ちのエゴの象徴。二百年間、少しずつ歪んだヴィルヘルムス・ブリンクマンの偽善の輪のシンボル。間違ってると知りながら、皆が永遠の命を求めてアレースを目指す。誰にも悪意はないけど、誰も正しくない。そして、全てが曲がっていくのに、全員が元に戻そうとしない。間違いに間違いを重ねて、全ての努力を意味のないものにしてしまう。二百年前のクローン問題の本質がこれだ。このアレースを叩き壊して、どうしても、皆の世界を元に戻したかったんだ。」
ジネヴラの声に、涙が混ざり始めた。
「アレースを壊して、皆と新しい時間を過ごしたらいいわ。前の時間が素敵だった事をもっと教えて。アレースを壊した後、どうすればいいのか、皆で考えましょう。やる事はいっぱいあるわ。」
ロレンツォは、静かに答えた。
「済まない。何と言っていいのか。僕は、毎日不安なんだ。普通に生きたいけど、こうして生きてる事にも耐えられない。気が狂いそうになるんだ。そうは言っても、宇宙への道を壊していいのか。誰がつくったにしろ、法を破っていいのか。優しい皆を巻き込んでいいのか。悩んだ時の僕の行き着く答えは、いつも同じだ。本当の僕は、二百年前のあの日に死んだ。」
それは、ロレンツォがいつか海辺でスカーレットに話した言葉。
ジネヴラの反応を待たずに、ロレンツォは言葉を続けた。額から流れる汗は、きっと本能的なもの。頭で考えた事とは別の反応である。
「普通の人間は、百年もたたずに死んでしまう。ほぼ確実だ。怖くて怖くて耐えられないけど、やがて受け入れる。元気なうちにリアリティはない。毎日が忙しければ、忘れられる。でも、だんだん、体のいろんな所が傷んでくる。生き続けるのが難しいくらいに。そうなると、考えるんだ。折角、生まれたんだから、何かが出来ないか。仕事を選ぶ時とはまた別。本当に、最期の選択だ。人間が面白いのは、その後、何十年も生きる所だ。そうして、皆、次の時代がどうなるか考えながら、全てを決める。それが、世の中が良くなる基本だ。死を思うと、全てが愛おしい。美しい。自分に向けられた笑顔が、かけがえのないものだと分かる。」
ロレンツォは、エマルション爆弾のセットを終えると、起爆装置を手にした。
「人の命は本当に大切だ。自分で死を選ぶなんて、絶対に駄目だ。でも、人は死ぬ事が前提の生き物だ。永遠に続くかもしれないものは、気持ちだけだ。僕は、僕を二百年先まで生かそうとしてくれた時間に近付きたい。それが、僕の気持ちだ。」
ロレンツォは、誰もいない部屋で微笑んだ。口にしてみて、本当に納得できたのである。
「でも、それだけじゃない。何なら、頼めば、僕も死なない生活を手に入れられたけど、僕はその先が見てみたかったんだ。クローンで生き延びる事を拒絶した人達は、もっと先を心配してた。この空間が壊れたら、絶対に終わりが来るって。分かるだろう。この空間が壊れた後も人間が生き延びるには、別の空間に行く必要があるんだ。それが出来るのか、試してみたい。それが出来そうなのは、僕の中ではブラック・ドットだ。後は、行けないけど、ブラック・ホールとか。死ぬ可能性が限りなく高い。こんな無茶な賭けは、一度、死んだ僕にしか出来ない事だと思う。僕は、本当の永遠を実現できるか調べるために、この命を使ってみたい。可哀そうじゃない。レジェンド。初めて、空を飛ぼうとした人だと思ってほしい。僕は命を大切に使ってるんだ。それは分かってほしい。」
ロレンツォは、その時、いつか見たクローンのアレースの事を思い出した。クローン人間を好きに使うなら、今かもしれない。ただ、それは違う。彼らは人間と何の変わりもない。どこかが欠けていようが、どんな生まれ方だろうが、生きている限り、同じ人間なのである。
ロレンツォが話を止めても、誰も口を開かなかった。
何かがきっかけになるのが、怖かったのである。フランチェスコもジョバンニも、ジネヴラもゴルダも。誰もが口を開こうとしたが、息を飲んで黙り込んだ。
ロレンツォは、言葉を付け加えた。
「ブラック・ドットのエッジが僕の体を通過しなければ、今の姿のまま、別の空間に行ける。大きければ、大丈夫な筈だ。無事だったら、この無線で、皆に話しかけてみる。」
ロレンツォは、目を瞑り、大きく息を吸った。
ジネヴラは、嫌な間を感じて口を開いた。
「ロレンツォ。」
その瞬間、車の窓の外で何かが起きた。ロレンツォは、重大な決断は一人で静かに済ませる。
音はない。光もない。ただ、視界で何かが変わった。
四人の目が一斉に向けられた先はアレース。
ヴィルヘルムスがつくった人類の希望。
ただ、そこには何もなかった。
フランチェスコは、車から飛び出し、空を見上げた。
何もないのではない。アレースは、動いている。
ヒュドール・リサーチ&エンジニアリングから宇宙へと続いていたテザーが地球から解き放たれ、まだ陽の沈まないベビー・ブルーの空を斜めに昇っているのである。
遅れて出てきたゴルダ達の頭上、遥か彼方を、アレースは昇っていく。
肉眼では見えないが、無人の宇宙ステーションも動き始めた筈である。
向かう先は、マイナス二七〇度の真空の世界。ダーク・マターとダーク・エネルギーと原子が少し。人にとって、何もない世界。
つまり、ロレンツォはエマルション爆弾を使ったという事。ブラック・ドットは、その全てを吸い込み、爆発した事実さえ飲み込んでしまったという事。そうなのである。
四人は、ただその場に立ち尽くし、アレースが見えなくなっても、暫く空を見上げた。

ヴィルヘルムスの最近滞在している邸宅は、本社の傍にある。チヌアに影響された事は否定しないが、妻子に先立たれ、独身のヴィルヘルムスは、引退しても必要とされる自分が好きなのである。決して、一人暮らしではない。住み込みのハウス・キーパーが何人か。皆が愛すべき家族である。
ただ、ヴィルヘルムスは、一つだけ過ちを犯していた。
ジオラ。
ヴィルヘルムスは、ラシディが最強と呼んだ彼に、自らと同じ運命を与え、傍に置いていた。チヌアにとってのラシディ、サミュエルにとっての自分を求めたのである。
ヴィルヘルムスがクローンである事を知るジオラは、その申し出を断らなかった。
一人だけでは、仲間の身を奪ってまで生き永らえる苦痛に耐えられない。そう思ったのである。
ヴィルヘルムスは、盟友ジオラに支えられながら、二百年を生き、今日のその日を迎える事が出来た。そう言っても、過言ではないだろう。

それは、ソイビーンズのベーコンの新商品を試した直後に入った連絡だった。
タイトルだけで、取敢えず笑ったヴィルヘルムスは、送られてきた動画を、リビングの壁のモニターに映した。傍らには、ラフに座るジオラ。彼は、全てを心得ているが、ヴィルヘルムスは自由な関係が好きなのである。
そんな、いつも通りの二人の前に広がった動画は、アレースの脚元の監視映像だった。
動画を編集した様に、一瞬でアレースの姿が消えた。
地面もである。
空間を削り取った様に、そこには何もなくなった。
ヴィルヘルムスは声を上げて笑い、ジオラは静かに目を瞑った。
動画は一つだけではない。次の監視映像には、より広い範囲が映っていた。
アレースは、ぐんぐんと斜めに空を昇っていく。物理の法則のままである。
やがて、ヴィルヘルムスは、笑うのを止めた。表情は硬く、そして厳しく変わっていく。
目を開いたジオラは、その様をやはり黙って見つめた。
暫く腿を軽く叩いていたヴィルヘルムスは、小さく呟いた。
「どうせ、またつくるのに。誰がこんな…。」
頷いたジオラは、窓の外に目をやった。ここから、Y州の空は見えないが、気になったのである。
ヴィルヘルムスは、動画を消すと立ち上がり、リビングを見渡した。
広いリビングには、至る所に花が咲き乱れている。ホワイトやピンク、イエローやヴァイオレット。自然を愛するヴィルヘルムスが最近つくった流行である。
ヴィルヘルムスは、コップに常温の水を注ぐと口に運び、残りをすぐ傍の花にかけた。
今のヴィルヘルムスにとって、もう自分と花に何の違いもない。
花は枯れても、種を撒けば、また咲く。そして、枯れて、また、咲く。
人が見る限り、一つ一つの花に違いはない。つまり、その程度。
それが、今のヴィルヘルムスなのである。
ヴィルヘルムスは、水をやった花を暫く見つめると、ジオラに語り掛けた。
「これじゃあ、まだまだ死ねないね。」
ジオラは、いつになく傷ついているヴィルヘルムスのために、優しく微笑んだ。
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