第34話 遭逢

文字数 6,851文字

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N国のどこか。アナイスとラーヒズヤは、一面ホワイトの部屋に置かれたコチニール・レッドのソファに、並んで腰かけていた。アナイスのホワイトだったイブニング・ドレスは破れ、血と泥にまみれているが、ラーヒズヤの服装には、チヌアの屋敷を出た時と、特に変わりはない。アナイスにとっても、ボディ・ガード達にとっても、ラーヒズヤは特別だったという事である。
部屋にいるのは二人だけではない。もう一人。薄手のブランケットを手に、ゆっくりと歩いてきた男が一人。
アナイスにブランケットを放り、向かいのコチニール・レッドのソファに、長い脚を組んで座ったのは、他でもないヴィルヘルムスだった。
アナイスは、膝にブランケットをかけると、ヴィルヘルムスと視線を合わせた。話の準備が整ったと考えていいだろう。
ヴィルヘルムスは、二人を順に指さしながらA国語で話しかけた。通じると知っての事である。
「僕は、ヴィルヘルムス・ブリンクマン。ラーヒズヤ・ガヴァスカルとアナイス・デュプレシだね。」
二人は頷いたが、何かを口にする事はなく、微笑むヴィルヘルムスの次の言葉を待った。ごく単純に、信頼できないのである。
「ラーヒズヤ。君の事は、皆が心配してたんだ。毎日、欠かさず、君の無事を確認してた。こうも長くなるとは思わなかったけどね。」
ラーヒズヤは、罪を犯して以来、遠ざかっていた優しい言葉に戸惑いの色を見せた。そして、笑顔のヴィルヘルムスは、誰一人として会話の外におかない。
「アナイス。君も有名人だった。バイオレット・フィズばかり飲んでるホワイト・ブロンド。顔を売りたがってるみたいだけど、場所を間違えてるって。」
ヴィルヘルムスは、この状況でも、アナイスの眉間に皺が入るのを見ると、笑顔で言葉を急いだ。
「ジョークだ。ユゴニオの所にいたろう。君のファンは結構いた。」
明らかなお世辞を言ったヴィルヘルムスは、脇にあったリモコンを手にしながら、話し続けた。アナイスが喜ぶとは思っていないが、謝るよりは自分らしい。
「ドクター・スカーレット・アーキン。彼女は、僕達の監視対象だった。交代で彼女に張り付いて、家族を養ってる奴が何人かいる。全部、報告を受けてるんだ。」
沈黙を守るアナイスに、ラーヒズヤは何度も強い視線を送ったが、アナイスは口を開かない。ヴィルヘルムスは小さく笑った。苛めるのは止めである。
「君達の態度は正しい。そう。助けたからって、味方とは限らない。あんな場所に、兵隊が大量に居合わせるのはおかしい。不安になる。誰でもそうだ。」
ヴィルヘルムスは、リモコンに目をやると、壁に掛けられた大型のモニターに向けた。何かの準備が整った様である。
「まずは、うちのトップの話を聞いてほしい。話す気満々だ。」
ヴィルヘルムスが話し終わった直後、モニター一杯に老人の顔が映った。疲れた顔に、不器用な笑みを浮かべるサミュエル・クレメンスである。喉を鳴らしたサミュエルは、いつも通りの、低い、所謂いい声で話し始めた。
「絶対的に最大なものだけが、消去法で無限なものになる。拡大志向は俗物的に思われるが、永遠を求めるのは真理だ。それが物だけでなく、精神的思考でもそう。常に人間は可能性を求める。ラーヒズヤ。君は絶滅軽度危惧種のホモ・サピエンス・サピエンスを神の領域に近付けた偉大なコモン・リードだ。確かに、君の前科は悲しい過去だが、時間を逆転するのは、重力場を幾ら触ろうが不可能だ。私なら細胞死に任せて忘れる。」
また、この話である。流石に気になったアナイスが視線を向けると、ラーヒズヤと目が合った。彼の前科は明らかである。当然、サミュエルの話はこんなものでは終わらない。
「君は、他にも問題を抱えている。自分にそう暗示をかけている。確かに、君の愛は、種の存続の観点から論じればアポトーシスに近いが、地球の最適人口を超えた現在の必然だ。循環の重要なプロセス。既成概念に留まらない君の脳がそれを選んでも、何の不思議もなかった。何かに突出した人間が、器からこぼれた。私にはそう見えた。こぼれたものが、もしも大好物なら、指をつけて口に運ぶ。私は少年の日の気持ちを永遠に失いたくない。君の偉業に感動した者として、心から歓迎する。君に人類が得た利益の対価を約束する善良なA国国民。サミュエル・クレメンスだ。宜しく。」
サミュエルの長い自己紹介が終わると、ヴィルヘルムスは苦笑した。相手の全てを知っている事を、言葉を選んで教える。いつも通りのサミュエルである。
黙って耳を傾けていたラーヒズヤは、文化的な生活を送っていた頃の自分を思い出した。かつての自分の周囲には、こんな人間が少なからずいた。ラーヒズヤは、こわばる両手をズボンでこすると、足の間に挟んだ。
「こちらこそ、よろしく。ドクター・クレメンス。論文は呼んだ事があります。僕は専門じゃないけど、面白かった。どう言っていいか。ただ、僕は彼女について来ただけなので。でも、歓迎してくれるなら、僕も同じ。あなたを歓迎します。」
サミュエルは取敢えず微笑んだが、ぎこちなさが残った。
チヌアが馬鹿ではない事は知っているが、ラシディの激しさも知っている。ラーヒズヤを受け入れて、今までより自由な生活を与えられるかは怪しい。本人にその自覚がないと、後々、面倒であるが、それを確認するのは今ではない。不都合を隠しておくのである。
サミュエルは、不器用な微笑みを保ったまま、真面目なラーヒズヤに感謝の意だけを返した。
「申し出を受け入れてくれてありがとう。まずは、そこにいるヴィルヘルムスが、君の望みの全てを約束する。君の思考が私の考える範囲を大きく逸脱していなければ、多分全てが叶う。」
ヴィルヘルムスは、小さく手を挙げて微笑んだ。慣れた役回りである。
サミュエルは、ヴィルヘルムスとラーヒズヤのアイ・コンタクトを確認すると、ターゲットを変えた。
「マダム・デュプレシ。君は大きな波に飲み込まれた。チヌアの見せた三年間のあらゆる瞬間が、君の人生のどの記念日よりも贅に満ちていた事は疑わないが、君の幸福の尺度はそうは評価しなかったろう。ドーパミンはそうも偉大なのかと思うが、物事は理論的に出来ている。分子、原子、原子核にクオーク。目に見えるもの全てが、膨大なループで成立っている。今、私の目の前にいる君は、間違いなく過去の君がつくり上げたものだ。破れて、血のついたホワイトのドレス。君はなるべくして、そうなった。次の君の行動も決められている。君のニューロンは、君に話しかけている筈だ。君という船を沈めないために、今、手にしたブランケットを、失ってはいけないと。」
アナイスは、自分にかけられた言葉から、今現在の状態の大体の評価を終えた。彼らは野蛮人ではないが、迎合を求めている。何か言葉を返さなければならないだろう。
「まず、助けてくれてありがとう。でも、ごめんなさい。私はあなたをよく知らないわ。あなたはA国人と言ったけど、N国側?それとも、それ以外?」
助けてくれた様に思えるが、チヌアの事を知っている。決して、安心は出来ない。
サミュエルは、小さく頷いた。彼にとって、予想していた幾つかの答えの一つである。
「その答えは難しい。私はチヌアを知っているし、嫌いじゃない。ただ、そんな答えは求めてないだろう。君はF国の公僕だ。知ってる。君がドクター・アーキンを誘拐した瞬間から、君の情報は、ずっと私の所に入っている。大体、君が何を言いたいかは分かる。」
サミュエルは、ヴィルヘルムスと違って、ストレートである。今までアナイスに犯罪の臭いを一切感じていなかったラーヒズヤは目を大きくしたが、それでもアナイスは沈黙を守った。サミュエルは、全てを知っている。
「ユゴニオは、抑止論者だった。彼と触れ合って、かぶれたんだろう。気持ちは分かるが、そんな事は教科書には載っていない筈だ。国のためなら、法を犯してもいいとはね。そういう考えは、いつの日か消し去りたい事だ。だから、載ってない。真似てはいけない事だ。君は間違えた。それを自覚していないのが問題。誰かが努力して、君の心の火を消さないといけない。」
アナイスは眉を潜めたが、サミュエルは構わなかった。
「命に関わる事を考えるなら、医師に倣うといい。ヒポクラテスの誓い。患者を絶対に傷つけてはいけない。私は、クローンに関しては廃絶論者だ。生み出した者の一人だから言う。クローンの軍事利用を考えている人間がいれば、何としても止める。それは私の使命だ。」
明確な見解の相違である。幾ら助かっても、アナイスにとって、それでは意味がないのである。
「無駄な話かもしれないけど、それなら廃絶する具体的なプランは?私達も考えたけど、それは無理だったわ。抑止論の方が、遥かに簡単。」
サミュエルは笑った。クローンをつくる方が簡単らしい。
「産みの苦しみはそれなりにあったが、今となってはそうかもしれない。ただ、言うなら、君でも逃げられた。私の助けはあったが、囚われの身の女性一人でも出来た。N国はまだ若い国だ。しかも、イスゥィウツツは民間企業。完璧に思えるラシディも、一人の人間としての見え方が違うだけだ。クローン技術が流出するのは、時間の問題だった。抑止論者が何かをする必要はないんだ。」
アナイスに理解できない説明は、決して終わらない。
「あの国にこの技術が流れたのは興味深かったが、A大陸からクローン技術が世界に広がる事には、興奮すら覚える。人類の進化を辿る旅だ。静かに見守りたくなる。きっと、増える。見ているといい。ただ、個人的な見解を言えば、増えすぎはよくない。管理できないのは問題だ。全部、核と同じと思えばいい。理想を言えば、持っていいレベルの国は限られている。」
アナイスは、やはり黙って、モニターのサミュエルを見つめ続けた。
「抑止論者を廃絶論者に急に変えるのは不可能だ。知ってる。一度、行動してしまうと、責任を感じる。下らないが、人間はそういう生き物だ。間違いと気付いた時点で対応を変えるのがベストなのに、それが出来ない。」
返す言葉はある。理屈だけではないのである。アナイスはユゴニオ達、皆の気持ちを代弁した。
「自分のためと思ってやった事は何もないわ。」
それは確かにそうである。サミュエルは微笑んだ。
「こういう言葉がある。余計なお世話。古い、いい言葉だ。子供の頃から、よく耳にした。君は他人のためだと言って、無駄な争いを続けている。時には、人の命まで奪いかねない。勿論、人の命を守ると言ってね。それより愚かな行動は、私には思い浮かばない。」
アナイスは、一方的な言葉に疲れたが、考えてみれば、語り尽くすと決めた日の最初の数分で出会う言葉である。アナイスには答えがある。
「何が大切か気付いていない人間にはそう見えるわ。殆どの人間は気付かない。いつも通りが正しくて、いつもと違う事をし始めた人間は異常なの。平気で銃を向けて、牢屋に入れてしまう。例え、傷つけても、気にしない。」
ヴィルヘルムスは、天才サミュエルを説得しようとしたアナイスを見たが、彼女にはその認識はない。
「仮にあなたの言う通りにするとしても、抑止論を抑え込めるとは思えないわ。十年後が一緒でも、三年後に差があったらダメなの。でも、そこは無視しましょう。ゴールは同じ。クローンの軍隊をつくらないために、お互いに出来る限りの協力をするの。まだ、私達には時間がある筈。生きてる限り。その筈でしょ。」
黙って聞いたサミュエルは、アナイスの周囲のラーヒズヤやヴィルヘルムスからの言葉がないと判断してから、口を開いた。
「最終的なゴールが同じ。私の頭もシンクロした。その通りだ。ただ、この問題で平和以外を口にする人間を知らない。あと、命の保証を求められた。それも当たり前だ。私は人殺しではない。つまり、どちらも不要な話だ。」
認めた様で、サミュエルにとって、アナイスの口から出る言葉は何の意味も持たない。そういう事である。うっすらと感じ取ったアナイスは、ラーヒズヤと視線を合わせた。当然、ラーヒズヤに答えはない。アナイスについて来ただけの彼に、意思決定を求めるのは酷である。
二人の様子を見ていたサミュエルは、ターゲットをラーヒズヤに移した。
「ラーヒズヤ。君はどう思う。私は、イスゥィウツツのクローン技術がN国に留まるとは思えない。今から、世界中に拡散する筈だ。君達が逃げたと言う事実が、彼らの鉄の結束まで崩す。抑止論者なら、そう思うだろう。人間はそういう生き物だと。危険な世界になる。君なら、それでも私の元を離れたいか。君がどこに行こうが、クローン技術の軍事利用を阻むために、私が全力を尽くす事に変わりはないが、君の身の安全までは保証できない。どうだ?」
既にサミュエルを受け入れていたラーヒズヤは、頼りのアナイスの顔を何度か見ると、呟く様に話し始めた。
「僕は。だから、僕はどっちでもいいんです。僕は、僕の技術で皆が幸せになればいいとしか言えません。」
それは本当の気持ちである。ヴィルヘルムスは大きく頷き、ラーヒズヤの言葉に重みを与えた。特別な言葉は必要ない。
つられたラーヒズヤの頭も縦に動くのを見ながら、サミュエルは言葉を続けた。相手はアナイス。彼女の言葉に意味はないが、彼女を説き伏せないと、ラーヒズヤは流されてしまう。
「アナイス。私が思うに、君の思う君の役割はもう終わった。私の元から、ラーヒズヤを連れ出そうとするのはやめた方がいい。君が一人で逃げると言うなら追わないが、それでも、君はラシディに見つかり死ぬ。君の死は私には不要に思えるが、彼らの誇りのために必要な事だ。でも、それでは余りに惜しい。勿論、君だからという訳ではない。」
激しい言葉である。固まるアナイスを見ているのか、見ていないのか。サミュエルは言葉を続けた。
「クローン技術の軍事利用を阻むために、ありとあらゆる協力をしよう。きっと、それは、ラーヒズヤの望みの一つの筈だ。そうだろう。ラーヒズヤ。」
改めて問いかけられたラーヒズヤは、大きな瞳でアナイスを見つめた後、頷いた。サミュエルは、協力と言う言葉でぼかしたが、廃絶論者である事を決して隠していない。
敏感なアナイスは、ヴィルヘルムスとサミュエルの顔を注意深く見た後、口を開いた。
「私には情報がないの。ラシディに捕まってから三年間。全くよ。まず、この問題に関係している全ての情報を教えて。そして、あなた達のビジョンを見せて。答えは、それからよ。」
サミュエルは小さく頷いた。慎重な姿勢は必要である。
「答えは急がない事にしよう。ただ、ラーヒズヤの事をよく考えて行動してほしい。分かるだろうが、君がもしも何もしなくても、彼の人生は変わらなかった。君は、クローンの軍事利用を止めたつもりかもしれないが、君が明確にやった事は、ラーヒズヤの命を危うい状態に置いた事だけだ。偉大なチヌアの元に、彼はもう戻れない。私が知る限り、今回の騒ぎでラーヒズヤの救出に動いたのは私だけだった。つまり、ここを出た君達を私が見放せば、君達の末路はかなり悲惨なものになる。ラシディが幼い日に見た光景が再現される。」
アナイスは、サミュエルを黙って見つめ、沈黙を守った。言葉が見つからないのである。
話の終わったサミュエルは、今日のこの瞬間の勝利を確信し、会話を締めくくった。
「まだ話したい事があれば、ヴィルヘルムスが訊く。ラーヒズヤ。君と会えたら、一緒に語り合いたい事がある。楽しみだ。幸せになりたければ、なればいい。君は選べる。それでは、また。」
モニターが一方的に消えると、首を傾けて一緒にモニターを見ていたヴィルヘルムスは、アナイスに視線を向けた。
「何か言いたい事はあるかい?」
アナイスは、考えた。この時点で、サミュエルの考えを、今の自分が上回る事はない。
「ないわ。」
笑顔で頷いたヴィルヘルムスは、ラーヒズヤに目をやった。
自分がどうあるべきか見えてきたラーヒズヤは、自ら口を開いた。
「彼女がいいなら、僕はいいよ。刑務所に戻らなくていいならだけど。」
ラーヒズヤの望みは、限りなく細やかである。話がまとまってしまいそうな予感に、アナイスは急いで言葉を加えた。
「待って。どっちでもいいかもしれないけど、私にも頼みたい事があるの。」
ヴィルヘルムスは、大きく頷いた。
「どうぞ。どうせなら、刺激的な依頼がいい。無駄も気にしない。それが人生だ。」
羨ましい答えに、アナイスは愛想笑いを浮かべてから答えた。
「F国に家族がいるの。パートナーと息子よ。」
ヴィルヘルムスは、黙って、アナイスの顔を見つめた。知っている事が幾つかあるが、彼女の意志は固そうである。
「ラシディが手を回してない筈がない。きっと、びっくりする様な事が待ってるよ。」
ただ、彼が期待しているものはそれである。ヴィルヘルムスは、血の付いたアナイスの顔を満面の笑みで見つめた。
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