第4話

文字数 2,735文字

 朝、目を覚ますと雨が降っていた。
「今日も雨か。」
とぼくは呟き、時計を見る。8時10分だった。朝起きて、服を着替え、傘を差し大学に行くことを考えるとうんざりし、ぼくはベットの傍らに置いてあった読みかけの本を手にとり読み始める。
 本を読み終え、ぼくはしばらくの間、考えにふけっていた。ふと我に返り時計を見るともう昼だった。そろそろ起きようと思い、ベットから出て1畳ほどのスペースの台所で顔を洗う。まだ雨が降っている。顔を拭きながら、食事はどうしようかと考える。こんな日はできるなら外に出たくない。しかし、カップ麺も昨晩最後の1個を食べてしまった。何か空腹を満たすものはないかと棚をあさっていると、ドアをたたく音がし
「伊藤くん、いるの?」
と隣の住人の松井さんが顔を出した。
「今から昼食にしようと思うんだけど一緒に食べない?」
グッドタイミングとはまさにこういうことだと思い、ぼくは隣の部屋に行く。
「散らかっているけどその辺に座っていて。」
「今日は会社、どうしたの?」
松井さんは旅行代理店にOLとして働いている。今日は確か水曜日だったなと思い、ぼくは尋ねる。
「風邪気味だったから休んじゃったの。」
「伊藤くんこそ学校どうしたの?」
「今日は雨だったから、行くのやめたんだ。今日こそは晴れるだろうと思ってたのに、朝起きたら、今日も雨。外に出るのが億劫になってしまうんだな。雨の日って。今も昼食どうしようかなって思っていたところなんだ。」
「正直ね、伊藤くんって。」
松井さんはキャベツをきざんでいる。
「ねえ、キャベツをきざむ音って、どう思う?」
「えっ、どういうこと?」
ぼくは聞き返す。
「例えば、切ないだとか、温かみを感じるだとか、愛を感じるとか、リズミカルだとか。」
「うーん。懐かしいって感じかな。」
そう言いながらぼくは、薄暗い台所で濡れた手でキャベツをきざんでいる女性を思い浮かべた。そんな光景を見たとすれば、その女性は母であるはずだが、母ではないように思えた。それ以前にそんな光景を見た覚えすらなかった。
「どうしてそんなこと聞くの?」
「以前付き合っていた人に急かされているようで落ち着かないって言われたから。」
松井さんは続ける。
「けど、その後すぐに別れちゃったからその真意は分からないけど、後になって思うの。私がいろんなことを急かしていたのかなって。」
ぼくの場合はキャベツのきざむ音に未来の理想を見いだそうとした。松井さんの昔の彼氏はキャベツをきざむ音に現実を見たのだろうか、それとも過去を見たのだろうか。
 「コーヒーでも飲む?」
食事が済んで、部屋に戻ってもう一冊本を読もうかと思っていると、松井さんが尋ねた。
「うん。けど、紅茶がいいな。」
「珍しいわね。伊藤くんが紅茶なんて。」
松井さんは立ち上がり、湯を沸かしに行く。
「そうかな。結構飲んでいるよ。特にアッサムが好きなんだ。」
「あるわよ。よく知っているわね。日本人ってコーヒーはよく飲むけど紅茶ってあまり飲まないじゃない?コーヒー専門店って多いけど紅茶専門店はあまり見かけないもの。普通の喫茶店なんか、一、二種類の紅茶しか置いてもの。」
「本当にそうだね。ぼくの両親が紅茶が好きでね。この紅茶はどこどこ産で、香りがどうのこうのってよく講釈を聞かされていたから。」
「それでなのね。」
松井さんはティーポットの紅茶を入れながら
「ミルクティーでいいでしょ。けど独り者が紅茶に凝ると困るよね。紅茶ってコーヒーみたいに量り売りしている店が少ないから大きい缶を買わないといけないし、いろんな種類を飲みたいからたくさん買うでしょ。そうすると香りや味が落ちてしまうのよね。」
「松井さんの彼は紅茶を飲まないの?」
「彼、紅茶が嫌いだったの。」
「だっったの?」
ぼくは過去形であることを不思議に思い、思わず聞き返す。先週もこの部屋に来ていたと記憶している。
「うん。別れちゃった。というより振られたの。きのう。彼、ほら同じ職場だから。それで今日、会社を休んだの。」
「・・・」
ぼくは何も言わない。松井さんは紅茶を一口飲み
「美味しい。」
と一言言ってから、ぽつりぽつりと自分に言い聞かせるように話し始めた。
 「私、今、27才でしょ。来年、あたりに結婚かなって思ってたのに。彼、昨日、唐突に『別れよう』って言ったの。私なんて言ったと思う。『いいわ』って言ってやったの。彼が別れようって言ったとき、私一瞬耳を疑ったけど、その一方でこのときがとうとう来たわと思ったの。私、いつか彼がそう言い出すのが分かっていたみたい。」
「別に彼のことが好きで好きでたまらなかったわけでじゃないの。そこに彼がいたから・・・なんだと思う。女なんて27にもなると好きだとか愛してるなんてどうでもいいようになってきて・・・結局諦めているだけなんだけだと思う。けれど彼と別れたくなかった。彼は私に大きな幸せは与えてくれなかったけど小さな幸せを与えてくれたわ。それだけで私は満足していたの。」
「もう、こんなのうんざりだわ。私思うの。結婚って必ずしも大きな幸せはもたらしてくれないけど、小さな幸せを保証してくれるものだって。」
「けど、私、心のどこかで大きな幸せを望んでいる部分があるの。それを無意識のうちに押し込んでいるみたい。だって大きな幸せを求めれば必ずどこで不幸が訪れるのだもの。」
「私、今、寂しいけど、彼と別れてよかったって思う気持ちもあるの。負け惜しみではないわ。だって大きな幸せを掴むチャンスが巡ってきたわけなんだから。バカね、私って。その裏に大きな不幸が待ち受けているのを知っているのに。でもね。私、自分が今、別れてよかったって思える気持ちを持っていることがとってもうれしいの。まだ私は諦めてないってことだから。」
松井さんの話すことは矛盾に満ちていた。けれどもぼくはこれが松井さんの本当の気持ちに思えた。
「そう思っていても、やっぱり私寂しいの。心の中にぽっかりと穴が開いたみたい。」
「ひとときでいい。この穴を埋めてほしいの。」
松井さんはぼくの行動を促すようにぼくを見つめた。ぼくはこの女性の弱さを愛おしいと思った。愛おしいと思うとともに女の弱さを憎んだ。そして憎みながら彼女を引き寄せ抱きしめた。

 まだ雨が降り続いている。
 ぼくは松井さんの髪から手を離し起き上がった。松井さんはうつろなそして少しもの悲しげな目でぼくを見つめる。ぼくはその目を見ないようにして
「それじゃあ」
と言い松井さんの部屋を出た。
 部屋に戻り、水を一杯飲み干し、松井さんのもの悲しげな目を思い出し、憂鬱になる。このままで終わりそうもない。ぼくは自分自身に腹立たしさを覚え、それを紛らわすかのように机に向かい勉強に没頭した。
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