第2話

文字数 2,482文字

 「こんばんは。」
ぼくはインターホン越しに声を掛けた。すると一児の母としては十分に若すぎる大沢夫人が現れた。
「あっ、先生、どうぞ。」
と言って、子供部屋に案内してくれる。ここに、家庭教師に来るようになって半年が経つ。子供は小学4年生で私立中学の受検を考えているわけでもないので、とりたてて勉強することもなく、一緒に宿題をしたり、いろんな話をするくらいだ。成績も中の上と言ったところで、女の子とあって両親も何としてでもといった感じもない。今日も小一時間で宿題を済ませてしまたったので、ぼくは子供に尋ねてみた。
「さっちゃん、日本で一番偉い人は誰だと思う?」
「うーん、校長先生かな。」
「どうして校長先生が偉いと思うの?」
「だって・・・先生も偉いけど、どの先生も校長先生に頭を下げているから、もっと偉いもん。」
「それなら、もしその校長先生が、ぼくに頭を下げたら、ぼくの方が偉いのかな。」
「うーん、わかんない。」
と、たわいもない話をして過ごす。また、ある時は
「形の違うコップが2つあって、どっちの方が水がたくさん入るかを調べたいとき、さっちゃんだったらどうする?」
「うんとね。1個のコップに水をいっぱい入れて、それをもう一個の方に移してみる。」
「それで?」
「それでね、もしこぼれたら、初めのコップの方が水がたくさん入るの。こぼれなかったら後の方が大きいの。」
「うん、いい方法だね。それなら、コップの底がジョーロみたいに小さい穴が空いてたらどうする?」
「テープで穴をふさげばいい。」
「そうだけど、水を入れたらテープが剥がれてしまわないのかなあ。」
「うーん。わかんない。」
「穴から漏れないものって何かないかなあ?」
「うーん」
さっちゃんは考え込んでしまう。
「水の代わりにお米を入れて比べてみるのはどうかなあ。」
「いいけど。けど先生、どっちがたくさん水が入るのかって言ってた。あっ、分った。両方とも水は入らない。」
「なるほど、先生の質問の仕方が悪かったよね。どっちか大きいかを比べるんだったら、お米を入れる手もあるよね。」
また尋ねてみる。
「じゃ今度は形の違う石があって、どっちが大きいか分からないときはどうやって大きさを測ったらいいと思う?」
「重さを量ったらいいと思う。大きい方が重たいもの。」
「正解!よく気付いたね。じぁや最後の問題。さっきは両方とも石だったけど、ひとつが石でひとつが木だったらどうしようかな。木の方が軽いから大きさは分からないだろ。」
などと戯れてみる。最初の頃はぼくが尋ねても、あまり考えることなく「わかんない」が口癖だったが、最近は前向きに考えるようになってきた。これは自分の頭で考えることが抵抗なくできるようになってきたということだと思っている。
 ドアをノックして大沢夫人が部屋に入ってきた。
「先生、どうもありがとうございました。」
それを機にぼくは立ち上がり
「さっちゃん、また今度ね、それじゃ、バイバイ。」
「バイバイ。」
そう言ってぼくは大沢夫人の後から部屋を出る。
大沢夫人は玄関までぼくを見送った際に
「明日は主人が出張でいないの。」
と誘ってきた。翌日に会うことを約束し、ぼくは大沢家を出た。

帰りながらぼくは、大沢夫人とこういう関係になった日のことを思い出していた。あれは家庭教師を始めてから、6か月くらい経った時のことであった。いつものように6時ちょうどに大沢宅を訪ねると、大沢夫人が出てきて
「あ、先生、昨日から主人と茨城の主人の実家に遊びに行っていて、今晩も泊まってくるって言うんです。お電話したんですが繋がらなくって・・・」
「あ、そうですか。」
「せっかく来たんだし、夕食でも食べていってください。用意してありますから。」
ぼくがためらっていると
「さぁどうぞお上がりになって。」
と大沢夫人がしきりに勧めるので、断るにも断り切れず食べていくことにした。食卓にはすでに夕食の用意がしてあった。大沢夫人はすでに食事を済ませていたようで、ぼくはひとりで食べる羽目になった。大沢夫人は席を外す訳にもいかず、かといって黙ってぼくが食べ終わるのを見ているのにバツの悪さを感じてかしきりに話しかけてくる。
「先生、兄弟は?」
「妹が一人。中三です。」
「年が離れているんですね。中三っていうときゃっきゃ騒いでかわいらしい年ごろじゃないんですか?」
「あー、あれは生意気なだけですよ。この前なんかも帰ったときに『何しに帰ってきたの?』なんて言うんですよ。それでぼく言ってやったんです。お前があんまりアホやから、勉強を教えに帰ってきたんだって。」
「そうなんですか。うちの子も最近あんまり私の言うことを聞かなくなってきて・・・」
「けど、すごいですね。あんなにたくさん本を読むなんて。最近の子は、こんなこと言うと年寄りくさいけど、テレビとかマンガとかゲームばっかりでほとんど本を読まないらしいですよ。」
次第に言葉の丁寧さが欠けていくのを感じながらぼくは続けた。
「ぼくが以前に教えてた小学校6年生の子なんか、ひどいもので、ぼくが本を読ませてそのあとに何が書いてあったか聞いてもほとんど覚えてないんです。結局、イメージとして頭の中に入らずに文字だけを追っているだけなんでしょうね。そのくせテレビなんかのストーリーはよく覚えているんですよ。」
 ぼくが食べ終わると、夫人は食器を片付けながらお酒を勧めてきた。
「先生、ビールでいいかしら?」
ぼくがためらっていると
「デートの約束でも?」
と言ってほくの顔を覗き込んだ。ぼくは夫人の色気にドキリとしながら
「デートする相手がにればいいんですが、残念ながらいないんですよ。」
と答えた。
「それなら・・・」
夫人の勢いに押される形で、お酒をいただくことにした。
他愛もない会話をしながらビールを飲んでいると、いつの間に用意したのか酒のつまみがいくつか出てくる。しばらくすると
「私もいただこうかな。」
と夫人もお酒を飲み始めた。
 ビールから焼酎に変わる頃には程よく酔いも回り、この後に起こるだろうことに期待と不安を抱きながらもいつものように流れに身を任せることになった。
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