第8話

文字数 3,667文字

 夏休みが目前と迫った7月のある日、大沢氏から電話がかかってきた。彼はぼくが家庭教師として教えている女の子の父親だ。電話で話したいことがあるからと言われたとき、ぼくはとうとうバレたなと思った。ぼくは月に一二度の割合で夫人との情事を重ねていた。たぶん大沢氏が夫人の言動に不審な点を見つけ、興信所にでも依頼したのだろう。ぼくはこれから大沢氏に会うことを思うと気が重かった。その一方でこれで良かったという開放感のような晴れ晴れとした気持ちもあった。それに加え、もうこれ以上傷つけずに済むといった安心感も混在していた。
 約束の時間より5分ほど早く待ち合わせの喫茶店に着くと、大沢氏はすでに来ていた。50才くらいだろうか、とぼくは彼の薄くなってきた髪の毛を見て思った。挨拶を済ませると大沢氏は早速本題に入った。
「急に呼び出してすまなかった。実は君にやめてもらいたいんだが。」
「少ないが、これ、とっといてくれたまえ。」
と言って封筒を差し出した。彼としては手切金のつもりだろう。ぼくがこれを受け取れば丸く収まることは分かっていた。だが、金で解決しようとする大沢氏の態度と言うよりも、ぼくがお金で片付くような人間と見られたことが癪で、思わず
「どうして辞めなきゃならないのですか?」
と言ってしまった。ぼくは言ってしまってから大沢氏の反撃に備えた。
「君には悪いが、娘を学習塾に行かせることになってね。」
あくまでも彼は、ぽくと夫人のことを表に出さないつもりである。
「承知してもらえるね。それじゃ用があるので私は失礼させてもらうよ。」
大沢氏が席を立とうとした時、ぼくは
「分かりました。それじゃ家庭教師の方は辞めさせてもらいます。」
と答えた。この時なぜこんなことを言ってしまったのが自分でも分からない。ぼくは夫人との関係を絶ちたがっていたのだから。ただの意地だったかも知れない。大沢氏は浮かしかけた腰を下ろし、ため息をつくと
「君も全く強情だね。私は事を荒立てたくないんだよ。君だってそうだろう?」
「いえ、ほくは別に構いませんよ。あなたが事を大きくしたくないだけなんだ。けれどそれだけじゃひとつも問題の解決にならないんじゃないですか?」
ぼくは冷静さを失っていた。なぜだか少し感情的になっていた。きっと声も大きくなっていたのだろう。大沢氏は回りのテーブルを少し見渡し、
「ここじゃ何だから、場所を変えよう。」
と言って伝票を掴むと立ち上がった。

 「君、夕食まだなんだろう?」
小料理屋の座敷に通されると大沢氏はぼくに尋ねてきた。ぼくはどう答えてよいのか分からず首を縦に振る。大沢氏は手慣れた様子で料理の注文を終えると
「大学はもう夏休みに入ったのかい?」
「いえ、来週からです。」
ぼくは答える。店員が出て行くと大沢氏はタバコを取り出し、それに火を付けるではなしに指に挟んだまま
「君の言う通りかも知れない。さっき君が言っていたようにこんなことしたって何の問題解決にもならない。実を言うとお恥ずかしい話、妻の浮気は今回が初めてではないんだよ。そして私は事あるごとにこうして収めてきた。君の言う解決にならない方法でね。しかしこの他にどんな方法があると言うんだね?」
ぼくは彼は先程とは打って変わった意外な告白に戸惑い、どう答えていいか分からなかった。
「例えここで妻と君の関係が切れてもまたいつか他の男と妻は関係を持つだろう。それは分かっている。しかしその束の間の間、私と妻は平穏な毎日を過ごすことができるんだよ。」
ぼくは彼の傲慢とも思える考え方に腹を立てていた。
「平穏な毎日を送ることがそんなに大切なんですか?あなたはそれでいいでしょう。けれどそれでいいのはあなただけじゃないんですか?」
店員が料理を持って入ってきた。ぼくは今の会話が店員に聞かれたのではないかと思い何か別の話題を探そうとする。何を話そうか困っていたところに大沢氏が尋ねてきた。
「君、南太平洋のタヒチって国を知っているかい?」
「ええ、ゴーギャンか誰かが住みついた所でしょう?」
「あそこは良い所だ。一昨年前だったかな、妻と二人で訪れたんだが、ゴーギャンがあそこに住みついたのも分かる気がするね。」
大沢氏は料理を並べ終え出て行く店員にありがとうと言うと、それからまたタヒチの話を続けた。
「自然もさることながら、あそこののんびりとした風土というか国民性がいい。私はあの時、本当に一生こんな所に住んでみたいと思い妻に話したんだ。そうしたら妻はこんな所一生住むには退屈すぎるって言ったんだよ。その時思ったね。これが世代の違いかって。妻と私は18も年が違う。例えば妻は子どもの欲しがる物を何でも買ってやる。そのことに異を唱えると妻は私がケチであるかのように言う。浮気にしたってそうだ。妻は浮気がバレたかも知れないと思っていても自分が悪くないような平然とした態度で接してくる。君、知っているかい?一昔前なら浮気は姦通罪で罰せらていたんだということを。」
大沢氏はビールを一口飲みなおも話を続ける。
「時代遅れ、そうなのかも知れない。君は戦時中の『天皇陛下万歳』ってやっていたのをどう思う?」
「馬鹿げてますね。」
ぼくは吐き捨てるように言った。
「君らの世代にはそう映るだろうね。しかし私たちには馬鹿げていると片付けることはできないんだよ。そういった中で生きてきた自分たちの生き方を否定することになるからね。」
「そのことが今回の件とどう関係するって言うんですか?」
「だから人は自分の育ってきた環境の中でしか物事を見ることができないって言いたいんだよ。さっき君が『平穏であることがそんなに大切か』って言っていたが、私たちの世代の者にとっては平穏であることが一番なんだよ。」
大沢氏は箸を手に取り
「話はひとまず置いておいて食べようじゃないか。」
と言い食べ始めた。
ぼくは刺身をつまみながら大沢夫人が情事の後に愚痴をこぼしていたことを思い出していた。
「あの人が大切にしているものは日常なの。夢がないの。いつも石橋を叩いてからしか渡らない。失敗や後悔がない代わりに退屈な生活があるの。」
あの時は彼女自身の浮気を正当化しているだけだと思い聞いていたが、もう少し根本的な問題なのかも知れないと思った。ぼくが海老の天ぷらを食べていると大沢氏は箸を置いて話し始めた。
「世代の違いと言うより、むしろ戦中派と戦後派の違いと言った方がいいのかも知れないな。私たちにとってあの時代を生きたと言うことは傷であると同時に誇りでもあると思っている。あの時代を生き抜いたと言うことが私たちにとって支えとなっていることは否めない。あの時代を生き抜いたことをなくして自分を語ることができないんだよ。どうしてこの二つの世代が感覚をともにすることができようか?」
「それは何も世代だとか、戦中派戦後派なんて話を持ち出さなくても、結婚と言う根本的根源的問題ではないのですか?そしてそれを解決していくのが夫婦の過程だと思うのですが。」
「君の言っていることは間違っていないと思う。しかしどうしても超えられない壁がある。それが戦争なんだ。」
「本当に超えられないものなんですか?ぼくにはあなたがただ諦めてしまっているように感じるのですが・・・。」
「超えられないね。そのことが分かった時、私たちには子どもができていた。」
ぼくは大沢氏の苦悩を見た気がして何も言うことができなかった。なおも彼は続けた。
「私は思うのだが、時代時代に応じて、昔だったら身分の違いに応じて、人の良しとする姿があった。生き方と言った方がいいのかも知れない。倫理と言うか価値基準と言うか美の意識というか、そういうものが人々の心の中に形として存在したんだよ。我々が若かった頃にもそういうものがあった。半ば強制的ではあったけどね。だから人間は健全に生きてこられたのではないだろうか。ところが今の若い世代の者にはそういうものが全く感じられないんだ。存在していないんだ。何も君たちが悪いって言っているわけじゃない。戦前戦中を生き抜いた世代の人たちは、戦後それまであった多くの価値観が否定され、否定されたのにもかかわらず心の中でくすぶり続けている。しかしそのくすぶり続けている価値観を次の世代の者に受け継がせるわけにはいかず、そんな中で君たちは育ってきたんだ。妻にしたって同じだろう。社会の価値観を否定された世代、否定されたのにもかかわらずくすぶって生きている世代と社会の価値観が見い出せない世代のギャップは埋めることができないと思うんだよ。」
ぼくは大沢氏の顔を見ていると反論する気もちが薄れていくのを感じた。
「分かりました・・・。迷惑掛けてすみません。」
とだけ答えた。勘定を済ませて店から出てきた大沢氏はポケットから封筒を取り出しぼくに差し出した。
「君も突然アルバイトがなくなると困るだろう。本当にこれは私の気持ちなんだが。」
ぼくは素直に封筒を受け取った。
「それじゃあ、もう会うこともないだろうが。」
と言い、ぼくに背を向け去って行った。
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