第9話

文字数 2,248文字

 夏休みに入っても、ぼくは郷里に帰るわけでもなく、かと言ってアルバイトをするわけでもなく、ただぼんやりと毎日を過ごしていた。そして時折、響子と会っていた。その日も響子の部屋を訪れると、響子は掃除をしているところだった。響子はぼくを部屋に迎え入れると
「来るんじゃないかって思ってたところなの。」
と言ってにっこり笑う。
「ちょっとそこいらに座ってて。もうすぐ終わるから。」
響子が部屋を片付けている間、傍らにファッション雑誌を手に取り、何気なく見ていた。雑誌には北海道の特集が載っていた。響子はぼくが雑誌を見ていることに気付いてか唐突に
「北海道に行ったことある?」
と尋ねてきた。
「私の郷里は北海道なの。」
と響子は続けた。
「ふーん。北海道か。そりゃ初耳だ。」
「私なんか、あなたの郷里どころか、あなたが今どこに住んでいるかも知らないのよ。」響子は少し恨めしそうに言う。ぼくはまだ響子を自分のアパートに連れてきたことがなかった。避けていたつもりはなかったが、やはり松井さんの事が引っかかっていたのだろう。「あれ、そうだったかな、確かに言われてみればそうだ。」
とひとりで納得してみる。
「同棲でもしているんじゃないの?」
「まさか。女の子を養う余裕なんてないもんね。養ってもらえるんだったらいいけど。」「何だったら、明日にでもぼくの部屋に来るかい?」
「そうね。偵察しに行くのも悪くないかもね。」
響子はベットに腰掛けながらそう言った。
 
 翌日、響子をぼくのアパートに連れてきた。部屋に入ると響子はキョロキョロと辺りを見回し、
「割ときれいに片付いているじゃない。あなたのことだからもっと散らかっているかと思ってたわ。」
ぼくは座り、タバコに火を付ける。響子は立ったまま、本棚とか机の上を見ている。
「あなたって・・・」
響子は言いよどんだ。
「何?」
「ううん。何でもない。」
「知ってる?言いかけて止めると便秘になるって。」
「またそんな嘘言って。」
「けど、ぼくにしてみると精神的便秘状態みたいな感じがするんだけどな。」
「じゃあ言うけど、あなたって見た目ほど、ちゃらんぽらんじゃないんだなって思って。」
「どうして?」
「だって、ちゃんと勉強しているようだし・・・」
「そりゃそうさ。2年留年だけは避けたいからね。」
「ううん。それだけじゃなくて、小説とか、エッセイとか、あと人文科学の本とかたくさんあるじゃない。」
響子は本棚を見ながら答える。
「あ、それは好きで読んでいるだけなんだ。まあ留年して暇だったしね。」
ふーんと言って、ぼくの横に座りぼくの顔を見つめる。ぼくは目をそらし、タバコの煙を吸い込みそれを吐き出しながら言った。
「前から気になっていたんだけど、その腕時計、どうしたの?」
「あっ、これね。」
響子は左腕を差し出し、腕時計をぼくに見せる。
「これは去年の夏にベルギーのアンティークショップで買ったの。」
「ベルギーに何しに行ったの?」
「何をしにって旅行に決まっているじゃない。私の部屋にあったあの砂時計もその時買ったの。」
「どうしてまたそんな物を買ったの?」
「そんな物って言うけど、この腕時計なんか特に高かったのよ。壊れてて動かないのに。」「それって動いていないの?砂時計と同じだね。時計って言えばこの間何かの本に書いてあったんだけど、どうして右回りなのか知っている?」
「左回りの時計もあるじゃない。」
「まあね。あれは遊び心で作っているんじゃないのかな。あとは美容室のように鏡に映ったときに見やすいように数字まで反対に裏返しにした物もあるけど、普通は世界共通で右回りだよね。それには訳があるんだ。訳って言うよりある歴史的事実が関係しているんだ。」
響子は少し考えた後に
「太陽の動きに関係しているのかなあ。ほら太陽って東から西に動くじゃない?時計の針の動きと同じだもの。そうか日時計の動きを模して作られたんだわ。」
「いい線いっている。もう少しで大正解になるんだけどな。ところで南半球だと太陽ってどのように動くか知っている?」
「どのようにって、東から西に決まっているじゃない。」
と言うと響子は少し考えてから急に
「あっ、分かった。時計は北半球で発見・・・じゃなく最初に作られたんだわ。南半球だと左回りになってしまうもの。」
「大正解。」
響子は続けた。
「日時計は半日で半周しか回らないけど、どうして時計は半日で一周回ることにしたのかしら?」
「そう言われてみればそうだな。一日に一周しか回らない時計もあるけどあれはあれは稀だし。」
ぼくも響子もしばらくの間黙り込んでしまった。しばらくして響子が、答えになっていないけどと前置きをして話し始めた。
「ほら、月ってどちらかって言うと夜に出るものってされているじゃない。実際はそんなことないけど。だから昼に太陽が出て沈んで一周、夜に月が出て沈んで一周っていうような感じでそうしたんじゃないのかしら。それに昔って太陰暦ってものがあったくらいだもの。太陽と同じくらいな重みで月も捉えられていたのかも。」
ぼくは響子の意見に賛成しかねていたが、かと言って反論も見つからず黙っていた。響子はその後も太陽暦とか太陰暦について話を続けたが、ぼくは適当に相づちを打ちながら別のことを考えていた。 
 壊れて止まったままの腕時計と机に貼り付けて動かなくしてしまった砂時計。昨年の夏にベルギーで買った時から砂時計は机に貼り付けるつもりだったんだろうか?響子に尋ねれば済むことであったが、核心に触れるのが怖くてぼくには聞けなかった。
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