第6話

文字数 2,651文字

 翌晩、シャワーを浴び、洗った髪を乾かしているところに松井さんがやって来た。髪の毛は生乾きだったが、ぼくはドライヤーを止め松井さんを招き入れた。
「はい。これ。実家から送ってきたの。」
と言って夏みかんを差し出す。
ぼくはお礼を言い、
「松井さんの郷里ってどこ?」
「山口なの。」
「ふーん。それにしては訛りがないね。」
「バカにしないでよね。山口は東北と違うのよ。」
「そういう意味でなくて、アクセントなんかも普通だし。ぼくなんかこっち来て3年目だけど少しも抜けないんだ。」
松井さんはいつものように振る舞っているように見える。語尾に感じる甘えたような感じは気のせいだろうか。ぼくは何に対してこれほどまでに神経質になっているんだろう。
「今日は帰ってくるのが早かったのね。」
「今日はって、いつも遅いみたいじゃないか。」
「あれ、そうかな。昨日なんか帰ってこなかったんじゃない。どこ行ってたの?」
『どこ行ってたの?』今まで松井さんはこのようなことを尋ねていただろうか。ぼくは疎ましさを感じながら、響子のことは隠し、マージャンをしていたと答えると
「へえ、伊藤くんマージャンやるの?」
「最近はあまりやらないけどね。前はしょっちゅうやってた。マージャン牌も持っているんだ。」
「ふーん。知らなかったわ。ここでやることあるの?」
「ここではやらないことにしているんだ。このアパートって音が筒抜けだろ。欲求不満の時なんか参ってしまうよ。」
と言ってからぼくはしまったと思った。松井さんは一瞬、ぼくの言った言葉の意味が分からなかったらしく聞き返すような顔をしたが、すぐに内容を理解し、
「そういうときは私に言えばよかったのに。」
と言い、ぼくの顔をのぞき込むように見つめてくる。
 ぼくは松井さんの誘惑をしりぞける適当な理由を見つけることができなかった。仮にそれを見つけたとしても、松井さんに対する負い目からわざとらしさを感じ何も言えなかったに違いない。結局、いつかしわ寄せが来ることは目に見えていた。相手を傷つけまいとしてとったぼくの行動がぼくを追い込み、追い込まれてどうしようもなくなり・・・そうして自己を守ろうとして相手を傷つけてしまう。それも大きく。ぼくの人生はこの繰り返しだったような気がする。

 あれは小学5年の時だっただろうか。クラスの中でいつもひとりでいる男の子がいた。孝司とかいう名前だったと思う。遠足でグループをつくることになり、ひとりあぶれていた孝司に
「孝ちゃん、ぼくらのグループにおいでよ。」
と言って誘うと、孝司ははにかむようでそれなのに人なつっこい笑みを浮かべてやって来た。その後、孝司はぼくとともに行動することが多くなったが、無口なため他の級友には馴染めなかった。一人の人間に頼られるということは小学5年生のぼくにとっては重荷だった。つきまとわれたくないと思うものの寄ってくる孝司を突き放すこともできず笑顔で迎えた。あれは珍しく雪が積もった1月のことだった。雪合戦をするために外に駆け出していく級友とともにぼくも孝司を誘って外に行こうとすると、孝司は寒いから中にいようとしきりにぼくを引き留める。あまりにもしつこい孝司に対し、ぼくは
「人の勝手だろ。お前なんか家に帰ってコタツにもぐって寝ていればいいんだ。」
と言って、孝司の手を振り払い、外に駆けて出して行った。その翌日から孝司は学校に来なくなった。ぼくは、孝司が両親あるいは担任にぼくのことを言いはしないかと恐れながら毎日を過ごした。しかし、結局は何も起きないまま、春休みになり、そして孝司は隣の町へ引っ越して行った。
 あの時のぼくは、あれほど辛辣に言う必要があったのだろうか。それ以前にどうしてもっとさりげなく孝司と距離を置かなかったのか。紀子のことだって、とぼくは考え続けた。

 紀子と最初に出会ったのは高校時代の級友の葬儀の時だった。彼とは高校を卒業してからも年に2,3回は会っていたから葬儀に顔を出したのだが、葬儀自体は退屈なだけで、ぼくは参列者の表情を観察していろいろと想像をめぐらせていた。冬山で遭難して命を落としたとあって葬儀場全体が悲しみに満ちあふれていた。そのときに目を真っ赤にした紀子に会ったのだ。黒い喪服がよく似合っていた。級友の恋人ではないだろうか想像しながら観察を続けた。紀子はひとりでぽつんとたたずんでいた。時々悲しみを噛みしめながらも視線を上げ、祭壇の遺影をじっと見つめていた。
 葬儀を終え、電車に乗り込んだのは3時40分であった。ぼくはアパートに着くのは9時過ぎになるなと思い、目を閉じた。
「すいません。ここ空いてますか?」
と声を掛けられ目を開けると、紀子が立っていた。
「どうぞ。」
紀子は席に座ると
「山田くんの葬儀に出ていませんでしたか?」
と尋ねてきた。ぼくは無言で頷き、山田との関係を簡単に説明した。
「私、彼とは大学で同じサークルだったんです。登山部じゃない方だけど。だからサークルの代表として参列したんです。」
と紀子は説明したが、そう言われてもなおぼくは紀子を山田の恋人だと思っていた。ぼくのその顔の表情を読み取ってか
「私、郷里がこっちだから。」
と付け加えた。
 紀子は凡庸な女性だった。ぼくはそんな紀子の凡庸さを愛していた。紀子が女だったから愛せたのだと思う。ぼく自身は凡庸さに染まることを避けていた。一方で、凡庸さに染まることから避けるとき、紀子の顔が浮かび、ぼく自身が凡庸でないことに罪悪感を覚えるようになっていった。そして紀子を愛すれば愛するほど罪悪感は増大した。ぼくは、ぼくがぼくでなくなりつつあることをひしひしと感じるようになった。この感覚は紀子と半同棲的な生活をするようになってからさらに強くなっていった。
 あれはクリスマスイブのことであった。紀子はアルバイトで遅くなるという話だったし、ぼくもクラスの飲み会があったから夜の12時にぼくの部屋に来ることになっていた。2次会で知り合った女の子をぼくの部屋に連れてきたのは11時過ぎのことだった。ぼくは12時に紀子が来ることを知っていながら女の子を抱いた。12時少し前に紀子はやって来て、薄暗い中で抱いている男女を見て、何も言わず去って行った。クリスマスケーキが床に転がっていた。
 紀子とはそれ以来、一度も会っていない。今思うに、あんなことしなくても、もっといい別れ方があったと思う。しかし、あの時はああいう別れ方しか思いつかなかった。と言うより思わずああいう形をとってしまった。
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