第5話

文字数 2,919文字

 久しぶりの快晴だった。徹夜と昨日の出来事のせいか太陽がいつも以上ににまぶしく感じる。朝のラッシュアワーはとうに過ぎ、電車は比較的空いていた。昨日、松井さんと一緒に昼食を食べてから何も食べていない。あれからつい先ほどで勉強していた。別に徹夜してまで勉強する必要など何もなかった。ぼくも若いなと思い自嘲してみる。このままでは松井さんとずるずるといってしまいそうだ。今夜は帰りたくない。久しぶりに日野のアパートに行こうと考える。
 講義が始まるまで10分あった。ぼくが教室に入ると後ろから声を掛けられた。
「お前何しに来たんだ。どうせまたすぐに帰るんだろ。」
三田だった。
「悪いか。津田なんか顔も出さないじゃないか。それに比べればましとちゃうか。」
と答えた瞬間、視界に響子の姿が飛び込んできた。ぼくは目を見開いてもう一度見た。やはり響子だった。響子はぼくの視線を気づき、いたずらそうな目で見つめた。『びっくりしたでしょう?』そう言いたげだった。響子の周りには同級生らしき子が何人かおり、その子たちから推察するにどうやらぼくと同じ学科の一つ下の学生のようであった。
「どうしたんだ。ぼけっとして。」
「そうじゃないけど・・・やっぱり今日は久々に講義に出ることにした。」
と言い、ぼくは椅子に腰を下ろした。
 授業の間、ずっと響子のことを考えていた。津田も一言教えてくれればいいのに。まさか同じ大学でしかも同じ学科なんて。響子も響子だ。あいつはぼくが知らないことを知っていながら心の中でくすくすと笑ってたんだ。ぼくもぼくだ。同じ講義をとっていながら知らなかったんだから。
 気づくと講義が終わったところだった。教室を出ると響子が待っていてぼくを見ると
「こんにちは。びっくりしたでしょう?この前はあなた、私のこと全く気づいてないようだったから。癪だから黙っていたの。」
そう言われたのに思わずぼくは聞いてしまう。
「どうして教えてくれなかったんだい?」
「知ってたら・・・」
とぼくは言いよどんだ。
「知ってたらあんなことしなかったって言うんでしょう。昨日津田さんに会ってあなたのことを聞かれたから話したの。そうしたら同じ学科の後輩って分かってたらあいつは逃げ出したに違いないって言ってたから。」
ぼくは核心を突かれ戸惑いを覚えたが、それを隠し平静を装い尋ねる。
「次の時間は講義あるの?」
「ないわよ。」
「それじゃあ喫茶店でも行こうか。ゆっくり話がしたいし。」
話すことなど何もありはしなかった。自分でもどうして響子を誘ったのかその理由ははっきりと分からない。自分自身の気持ちを確かめておきたかったのかも知れない。
 店の中はエアコンがよく効いていて涼しかった。
「私、あなたのことを前から知っていたのよ。だってあなたっていつも教室に来て講義も聞かずに帰るでしょ。たまに出席したって今日みたいにぼっとしているし。」
ぼくは何と返事をしていいか分からずタバコに火をつける。
「あの日あなた、ライターを忘れていったでしょう。ジッポだったかな。あんまりよく知らないけど。」
「ああ、しまったことしたな。」
と言いかけてぼくは話をやめた。たぶん響子のアパートに忘れたのだろうと思ったが、取りに行くことに抵抗があったので、翌々日に新しいのを買ったのだ。
「それ、買ったの?」
響子はぼくの新しいジッポを見て尋ねた。
「うん。」
「取りに来ればよかったのに。知ってたんでしょ?私の部屋に忘れていったてこと。それとも私にはもう会わないつもりだったの?」
「取りに行きたかったんだけど、君に『あなた誰?何しにきたの?』みたいな顔されるのが怖くってね。」
「私、そんなに記憶力悪くないつもりよ。」
「いや、そうじゃなくて、よくいるだろ。アパートに訪ねていくと『あなた何しに来たの』
っていう顔をして相手を小馬鹿にする子が。」
「あなたはそういうことをしょっちゅうしているの?」
響子は続けた。
「それに私はそういう種類の女の子って思われたわけか。」
と言って響子はわざと寂しげな顔をしてみせる。
「うん。その典型って顔をしているよ。」
ぼくは相手の攻めをそのまま受け止め、押し返しながら、この子とならうまくやっていけるのではないかと思っていた。
「ところで今日あたりライターを取りに行ってもいいかなあ?」
ぼくは松井さんのことを思い出し、そう尋ねると、響子はいたずらそうな目つきでぼくを見つめ笑いながら
「このライターがあるから慌てることないじゃない。明日学校に持ってくるわ。」
とかわす。
「あれじゃないとダメなんだ。あのライターは前の彼女からもらったものだから。」
「そういうライターって知ってたら捨てるんだったわ。まっいいか・・・。どうする?今から私のアパートに来る?」
と誘ってきた。
 響子の部屋に入ると熱気が押し寄せてきた。響子はエアコンのリモコンを操作しながら
「何か飲む?さっきコーヒーだったから紅茶にする?」
と言う響子の問いに無言でうなずき、机の上の砂時計の横にあったライターを手に取り、2、3度火を付けてみる。
「さっきの話だけど。」
と先ほどの話を続ける。アパートに来る途中に大学の話になって、響子に『なぜあなたは講義に出ないの』と聞かれ、どう答えようかと考えているうちにアパートに着いてしまったからだ。理由はぼく自身はっきりしないところがあった。それを整理しながら話すことが面倒なこともあるが、それ以上に話しても仕方がないと思い、いつもながらに適当に答えた。
「ぼく、昔から自己統制能力に欠けているんだ。じっとしているのが苦手で、小学校のときに一番いやだったことって何だと思う?散髪だったんだ。あれって一時間近くじっとしてなくてはならないだろ。結局のところ拘束されるのが耐えられないんだ。だから人とどこかで待ち合わせする時なんか、時間ぎりぎりにしか行かないし。好き嫌いの問題ではなくて耐えられないって言う感じかな。」
「だから90分と言う大学の講義について行けないわけ。まあぼく自身がそれにのめり込んでしまえば問題はないんだけどね。」
このことは嘘ではなかった。けど本当のこととも言いがたかった。
「さっき自己統制能力って言ったけど拘束されるのが苦手なだけでなくて、自分の欲求を抑えることも苦手なんだ。だから生活費に困っている時でも浪費してしまうし、テストがあって起きないといけないときでもアラームを止めてまた寝てしまったりする。今だって思わず君の肩のところに手が伸びそうなんだ。」
ぼくは話しながら自分が響子との関係を続けたがっていることを意識した。
「昼間っから何言っているの。そう言うのって、女の子にとっては雰囲気が大切なのよ。」
と言って響子は沸いた湯を取りに行った。
「レモンティーにする?それともミルクティーにする?」
響子はキッチンからこちらを振り向き尋ねた。
「ミルクティーがいいな。砂糖はいらない。」
そう答え、一週間ぶりに来た部屋をある種の感慨を持って眺めた。まさか再び来るとは思わなかったなと思い苦笑いをした。紅茶を飲みながら、昨日、松井さんのところでは紅茶を一口も飲まなかったことに気づき、それが二人の関係を象徴しているように思えた。
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