二十一

文字数 1,663文字

 ショウが岩本町東交番の前を通り抜けようとした時だった。小学生三人組が交番を覗き込んで、指差して笑っているのが見えた。気になって巡回をやめ、交番の前で自転車を止めた。キッと鳴いたブレーキの音を聞いて、小学生が慌てて逃げて行く。交番を覗くと、そこに下を向いて立つ、オカダジロウの姿があった。他に誰もいない。座っていればよいものを、ジロウは直立している。ショウが声をかけると、ジロウはハッとして一瞬顔を上げたが、すぐに背けた。ジロウの顔には、黒いマジックペンで「童貞」とイタズラ書きされていた。
「ジロウ! どうしたんだ、その顔!」
 ショウはすぐにジロウを座らせ、流しにあるキッチン洗剤とタオルでイタズラ書きを拭き取った。
「酷いことしやがる。一体誰にやられたんだ?」
 ジロウはただ下を向いているだけで、肩を震わせていた。
「お前、俺に何か隠しているな? 本当は誰かにイジメられてんじゃないのか?」
 ジロウが力無く微笑し、首を横に振った。
「そんなことないよ、僕が悪いんだ」
「だったら、その顔のイタズラ書きは何なんだ、小学生にも劣るイジメがあるとしか俺には思えん」
 ジロウが立ち上がった。
「本当なんだよ、ショウ先輩、僕がミスをしたから罰を受けていただけなんだ。ちっとも気にしちゃいないよ」
 ショウはしばらく黙っていた。
「お前のそういう姿を見るのは、これで二度目だ」
「お願いだよ、ショウ先輩、事を荒立てたくないんだ。僕が、僕さえしっかりすれば、誰にも迷惑かけずに済むのに」
「ジロウ、よく聞け。俺はお前の親でも何でもないが、世の中にはやっていいことと、悪いことがあるんだ。次、三度目を確認した時点で、俺はお前の意志とは関係なく、課長に相談するからな」
 ジロウが力無く頷いた。顔は青白く、目の下に隈ができている。制服がアイロンがけされておらず、皺が寄っている。ショウが気になって、勤務シフトを確認すると、ジロウの勤務時間は当直明けの今朝までであり、本来であれば「オニズカ」という巡査が勤務することになっていた。
「お前、何故、今、ここにいる? オニズカ巡査はどこだ?」
 ジロウが肩をすぼませた。
「先輩は今日は大事な用があって、代わりに僕が」
「お前、それは課長も知っていることなんだろうな? そんな勝手なこと許されると思ってんのか? ジロウ!」
 ジロウは押し黙ったまま、また下を向いてしまった。
「さてはお前、今朝一度署に戻ってから、そのオニズカという奴に呼び出されたんだな? 無茶なことさせやがる。お前はオニズカに目を付けられている、そうなんだな、ジロウ?」
 ジロウの目が紅く染まっている。
「悪いのは僕なんだ」
 それを聞いてショウは目を瞑り、首を横に振った。
 ショウは一度、秋葉原駅前交番に戻り、先輩のタナカにこのことを伝えた。
「神田寮のことだよね」
「先輩は知っていたんですか?」
 タナカがバツの悪そうな表情を浮かべた。
「どの寮でも、昔から少なからずあることなんだ。オカダ巡査が特別ってことではないんだよ。タザキ巡査は例外的に寮に入らずに済んだから知らなかったのかもしれないけど、署内ではよくある話で、皆がそれとなく知っていたことだよ」
「課長も知っていた?」
 タナカが首を横に振る。
「課長クラスは多分、知らない。交番勤務の巡査長クラスまでなら、皆、何が起こっているのかくらいは薄々気付いている。でも、誰も声を上げない。声を上げたら、次は自分の番だとわかっているからね」
 ショウがチッと口を鳴らした。
「オニズカって奴は知ってますか? そいつがジロウをイジメている奴らしいんで」
 タナカが眉間に皺を寄せた。
「相手がよくない。オニズカ巡査は僕より三年先輩で、昔は遊び人だったことで有名な人だ。確か年齢は結構上だったはず。親戚に警察庁のお偉いさんがいて、コネで入庁したって専らの噂。だけど本人、高卒のノンキャリだから昇進も望めないってんで、同僚や後輩をイジメて、そのうっぷんを晴らしているというわけ」
「何て奴。そんな奴が同じ警察官とはな」
 タナカが頷いた。
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