三十二

文字数 4,398文字

 「シズカ、前に言ってた美味い鰻の店に連れて行ってくれよ」
 電話は再び台湾を訪れていたハダケンゴからだった。
「いいですよ、ハダさん、今回の滞在はどれくらいですか?」
「明日帰国する。実は昨日小老と会っていた」
「陽明山の別荘ですか?」
「おお、シズカも行ったことあるのか?」
「ええ、一度だけ、その時に、あなたの通訳を仰せつかりました」
「なるほど、小老はその頃からすでにシズカのことを買っていたのだな、随分と君のことを話していたよ」
 リュウが受話器の向こうで黙った。
「でも、私は今回、呼ばれなかった」
「スマンな、シズカ、これは私が小老に頼んだことなんだ。もう一つのビジネスの話をしなければならなかったのでな」
「もう一つのビジネス?」
「ああ、実は俺にはもう一つの顔がある。画商なんだ。画商とは言っても、美術品から壷や皿といった骨董品まで扱う。昔、俺の親父が目黒で画商をしていてな、幼い頃から、そういった目が養われたというわけだ。出物があれば組織の金を使って買い、高値で売り抜ける。一回の取引で上手く行けば数千万の利益になる。ヤクや盗品をちまちま売り捌くより、一気に大金が手に入る。客は海外の大物ばかりで、足も付きにくい」
 ハダがフッと息を吐く。
「絵画ビジネスですか」
 リュウの声は低く重かった。ハダが首を傾げた。
「絵画の世界は奥が深い。ビジネスに置き換えたって、こんなに難しいものはない。美術品を見る目はすぐには養われない。本物を、いかに本物をたくさん見てきたかなんだ。世の中には信じられない数の贋作が転がっている。贋作を掴まされた画商など腐るほど知っている」
 ハダが息を詰まらせた。
「だが、一流の画商を騙す一流の贋作というものが、この世には存在する。贋作を贋作と知って、売り抜けるビジネスも同時に存在するんだ。俺はその販路の開拓も組織から任されている」
 リュウが一呼吸置いた。
「ハダさん、日本人の洋画家で、タザキノボルという画家をご存知ないですか?」
 ハダが受話器の向こうで一瞬躊躇った。目黒のギャラリーで迎えた朝の光景を思い出していた。
「ああ、知ってる。生涯作品数が圧倒的に少ない上、海外に熱心なコレクターがいて、非常に価値が高い。それが何か?」
 と答えつつ、過去の記憶の中にその響きを探した。他人からその画家について聞かれたのはこれが初めてではない。どこかで一度、遭遇している。しかし、それがいつ誰からだったかを瞬時には思い出せなかった。それよりも、元々この画家を意識するようになった出来事。いや、思い出したくもない。
「その画家の絵画が出たら、俺に教えてくれませんか?」
「それは構わないが、シズカ、悪いがお前が買えるような代物じゃないぞ」
「それは、わかってます」
 リュウは押し黙ってしまった。
「ここだけの話だが、お前にいい情報をやろう。俺は今、その画家の絵を持ってはいないが、その画家の絵を所有している人物を知っている。そして、それはお前の身近な場所にある」
 ハダが急に笑い出した。
「これも縁というやつなんだろうな、確かお前のボスのところに一枚あると聞いたが」
「小老のところに」
「俺の聞いた話では、組織がまだ歌舞伎町で全盛期だった頃に、当時日本にいた孫小陽氏が海外の画商から手に入れたものだそうだ。俺の推測では、その画家の絵が高騰するほんの僅か前に手に入れたものだろうから、絶妙のタイミングだとしか言えないが、それを知っていて手に入れたのだとしたら、株で言う、インサイダー取引に近いものがあるな。その画家が間もなく死ぬことを知っていたことになる」
 受話器の向こうでリュウが呻いた。
「シズカどうした? 何か気に障ることでも言ったか? その画家は確かフランス、パリで強盗に襲われ、その数年後に殺害されたはずだ」
「知っている」
 両親が殺害される以前に入手した絵であれば、小老が事件で強奪された絵を持っている可能性は低い。しかし、数年の時間差があるとは言え、絵を手に入れた後で、両親が殺害され、皮肉にもそれが原因で絵の値段が跳ね上がった。これが偶然と呼べるだろうか? 例え実行犯と組織が直接関係無かったとしても、何らかの情報を知っていたとみるべきではなかろうか? ただ、リュウが調べた範囲では、タザキノボルの絵は、その当時、世界的に価値を認められつつあった。少し美術に詳しい者や画商の間ではよく知られた存在であったのだ。孫小陽が偶然海外の画商からタザキノボルを手に入れていたとしても不思議ではない。リュウの気持ちは複雑だった。ハダは受話器の向こうで何か異質なものを感じ取ったようだったが、あえてリュウには質問をぶつけなかった。
「シズカ、それより、すぐ迎えに来てくれよ。俺はもう中華のにおいが鼻について、うんざりしてるんだ」
「わかりましたよ、すぐ行きますから」
 と言って電話を切った。

 リュウはハダを空港で見送った後、台北市内を車で流していた。いずれハダは再び日本からやってきて小老に会う。その時は、リュウを同行すると約束してくれた。何故、リュウがタザキノボルの絵に拘るのか理由を聞かないでいてくれる。リュウは迷っていた。車のハンドルを指でトントンと叩きながら、タザキノボルとの関係をハダに話すべきか考えていた。話せば必ず組織に偽名がばれる。そしてタザキノボルの息子という色眼鏡で周囲は自分を見るようになる。単なる画家の息子で済むはずがない。リュウを利用しようとする者も現れるだろうし、万が一、両親を殺害した事件と関わる者がいれば、その情報はすぐに知れ渡り、やがてリュウの命を脅かすことになる。だから、リュウはキョウゴクシズカのままでいるしかなかった。しかし、たった一人、王美玲にだけは、いずれ本当のことを話さなければならないと思っていた。
 台北一○一の前で、王美玲を車で拾った。
「何ヨ、急ニ呼ビ出シタリシテ」
「スマン、ドライブに付き合ってくれないか?」
 王美玲がリュウの横顔を見つめた。
「イイケド、ドウシタノ?」
 リュウは正面を向いたまま微笑するだけで、何も答えなかった。車を淡水河に向けて走らせ、河が一望できる小さな公園の駐車場に車を止めた。
「大きな河だね」
「ソリャ、ソウヨ、台湾デ一番大キナ河デスモノ」
 リュウが遠くを見つめる。
「俺の生まれ故郷にも大きな河がある」
「東京?」
 リュウが苦笑して首を横に振った。
「いや、盛岡という田舎町だ。そこを北上川という大きな河が流れている。子供の頃、そこで兄貴と釣りをした」
 目を細めた。
「シズカニ、オ兄サンガイルンダ!」
 王美玲が目を大きく開いて、頬を緩めた。リュウは何かを思い出し、一人でクスクス笑い始めた。
「ああ、兄貴がいる。子供の頃、その北上川に兄貴と釣りに行って、偶然兄貴のルアーに遡上したサーモンが掛かったんだ。兄貴の持ってる竿が折れそうになって、リールから糸がどんどん出て行った。そして川の真ん中辺りでサーモンが飛び跳ね、糸がプツンとね。二つ歳上の兄貴のあんな慌てた顔を見たのは初めてだったな」
「アナタカラ、家族ノ話ヲ聞イタノハ、コレガ初メテ」
 リュウが頷いた。
「兄貴は子供の頃から冷静な男で、俺がこの世で唯一尊敬できる人間だった。そんな兄貴が慌てる顔したのが、おかしくって」
 リュウが再び笑い始める。
「オ魚サンガ、キット凄カッタノヨ、オ兄サンハ今ドコニ?」
 リュウはその質問には答えず、
「その川は海からサーモンが上る。その距離およそ二○○キロ以上、産卵のために遡上するんだ。凄いだろ?」
「台湾ニハ、サーモン、イナイモンネ」
「ああ、北の寒い地域にしか上らない。サーモンという魚は生まれた川の水のにおいを記憶していて、外洋を四年かけて周遊した後、また自分の生まれた川に正確に戻ってくるんだ」
 王美玲が目をパチパチさせた。
「凄イノネ、サーモンッテ。シズカモ日本ニ帰リタクナッタ?」
 リュウが首を横に振った。
「いいや、俺はまだ何も成し遂げちゃいない。美玲、いいかい、今から言うことをよく聞いてくれ」
 リュウが王美玲を見つめた。
「今から二十年前、フランス、パリで、日本人画家の夫婦が何者かに殺害された。被害者の名はタザキノボルとタザキヨウコ。俺の両親だ」
 王美玲が声にならない声をあげ、息を飲んだ。
「俺の本当の名はタザキリュウ。キョウゴクシズカという名は偽名だ。今まで黙っていて悪かった」
「兄サンハ、知ッテイルノ?」
「志明は全て知っている。俺がどうして台湾に来たのかも、また何を成し遂げようとしているのかも、全て」
 王美玲が俯いた。
「ソウ・・・・・・ダッタンダ・・・・・・」
「パリで両親が殺害されて、俺と兄貴の人生は大きく変わった。兄貴は盛岡の祖父の家に、俺は東京のサエキという母方の実家に引き取られた。それ以来、兄貴には会っていない」
「ドウシテ・・・・・・」
「ただ、兄貴が俺の唯一の血のつながった肉親で、俺は兄貴をいつも心の支えにして生きてきた。いつか大人になったら、兄貴に再会することだけを目標に生きてきたんだ。だけど、大人になるにつれ、その当時の事件について調べて行くうちに、その思いが少しずつ変化していることに気がついた。両親の命を奪った奴らに復讐し、奴らが奪った親父の絵を奪い返したいという思いが強まったのさ。今、日本のどこかで暮らしている兄貴がどう思っているのか知らないが、急に兄貴に会うのが恐くなったのもある。浦島太郎の話じゃないが、二十年経って、人はどう変わっているのかわからないからな。俺の思いとの温度差が現実になってしまったら、俺はもう、生きて行く気力を失ってしまいそうだった。ならばその思いの矛先を、親父の絵画、いや、俺たち家族を奪った奴らに向けるべきだと考えたのさ。なぁ、美玲、人生は俺たちが思っている以上に長くない。あっという間に歳をとる。俺は残りの人生を、失った家族を取り戻すことに使いたい」
 王美玲は反論できなかった。綺麗ごとなら幾らでも言える。復讐なんて馬鹿馬鹿しいことだと言ってしまえば、それが正論なのかも知れないが、この人はそれら全てを理解して、超越した上で選択している。
「犯人ハ、ワカッテルノ?」
 リュウが首を横に振った。
「殺害して強奪したのが、中国系の犯罪グループだということしかわかっていない」
 王美玲が項垂れた。予想していた。
「ゴメンネ、シズカ、本当ニゴメンナサイ」
 リュウが王美玲の肩に手をやった。
「君のせいじゃない。国籍とか人種とか、そういうものなんて一切関係ない。日本人だって、凶悪な奴は腐るほどいる。顔を上げてくれないか」
 リュウが王美玲をきつく抱きしめた。
「なぁ、美玲、いつか、一緒に日本に行かないか?」
 王美玲が頷いた。淡水河の流れが波立って、光を乱反射させている。遠くで家族連れが水遊びする声が聞こえた。
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