三十一

文字数 4,152文字

 オカダジロウが交番勤務を終え、東神田にある寮に戻った。夜勤の報告書を書くのに手間取り、部屋に帰り着いたのは、すでに昼近かった。今日はこのまま夜勤明けの休みとなるが、公休であるはずの明日は、秋の交通安全キャンペーンで町内会をまわり、夕方から寮恒例のバーベキュー大会がある。ジロウはその買出しをしなければならなかった。正直、恒例行事なんてウンザリだった。費用こそ寮の先輩たちが出すものの、その準備から後片付けまでやらされるのは新人の役目だった。酒癖の悪い先輩たちが自分の部屋に引き下がるのは深夜になることもある。後片付けをしているうちに朝となり、たいした睡眠も取れずに勤務することも多々ある。ジロウの気持ちは沈んでいた。重たい鉛のような足を引きずって、何とか部屋に辿り着くと、ジロウは夏過ぎから再び飼育し始めたトリオップスの水槽に駆け寄った。今のジロウにとっては、水槽の中を泳ぐトリオップスを見ることだけが、自分を解放できる瞬間であり、唯一の心の支えであった。ショウの噂はジロウの耳にも届いていた。確かに年配の警察官の中には、ショウの行動に対して批判的な者もいる。しかし若い世代を中心にその大半は、重大事件の早期解決を賞賛するものであり、その背景には、警察組織という厚い壁に対する反発があった。そして、それに迎合しないショウへの淡い期待、それと拳銃で撃たれたという、未知の領域を経験した者への尊敬の念が生まれていたのである。勿論、ジロウはショウの絶対的な擁護派であり、ジロウ自身毎日監獄のような生活の中の、唯一の希望のようにも感じていた。しかし、それがまたオニズカら一部の人間に疎まれる原因ともなっていた。
 ジロウは帰宅後、トリオップスの水槽の水を新鮮なものに入れ替える。トリオップスはすぐに脱皮を繰り返すので、水が汚れやすい。この夏は、八匹のトリオップスが孵化した。水槽の水草を丁寧に取り除き、大きな石を流しで手洗いする。細かな砂利は一度ザルに移して流水で洗った後、天日干しして水槽に戻す。水槽の水は捨てて、水道水を仕方なく使うしかないが、しっかりとカルキを抜けば問題ない。ジロウが三日に一回のそんな作業をしている時だった。別の水槽に移したはずのトリオップスが一匹足りない。何度数えても七匹しかいなかった。汚れた水はまだ排水口に流していない。砂利を掌に乗せ、指の間から少しずつ流し、一粒一粒調べたが見つからない。水草の陰や石の裏も丹念に探したがいない。間違ってすでに排水口に流れ出てしまったかと思うと、自己嫌悪に陥った。そして、その現象は次に水槽を洗浄した時にも起こった。トリオップスがまた一匹減って六匹となった。しかし、まだ疑いの矛先は自分自身に向いていた。病死した死骸は粉々になって水に拡散してしまったに違いない。確かに微かだが、足の破片のようなものが砂利の間に埋もれている。トリオップスは細かな無数の足を動かして、右に左に移動しては水槽の面に頭をぶつけている。その様子は滑稽で愛らしかった。しかし、ジロウの心に薄気味悪い吐息が吹きかけられる。もう少し様子を見よう、ジロウはそう思いながら、いつもより多目に餌を水槽にばら撒いた。
 数日後、ジロウの不安が的中した。水槽の中のトリオップスの数は、この日までに三匹にまで減っていた。疑いが確信に変わった。共食いだ。これは共食い以外の何者でもない。ジロウは急に自分が殺人者を飼育しているような気になった。見た目とは想像もつかない惨たらしい現実が、夜の水槽の中で繰り広げられていたのだ。背筋に冷たいものが走った。この汚らわしい生物に対してというよりも、自分の人生に、共食いする者と、される者とを重ね合わせてしまった。頭の中が白く焼けた。つまらない人生。悔しさが次第に込み上げてくる。ジロウは水槽の水を排水口に全てぶちまけた。砂利が飛び散って、床に落ちる。足の裏の微かな痛みが心を刺した。やがて水槽の水は、トリオップスと共に排水口に音をたてて吸い込まれていった。
 ジロウは、自分が元々警察官になんて向いていなかったんだと思った。父のような警察官になんて自分がなれるはずがない。自分は単なるオタクで、友人も無く、女の子の手すら握ったことが無い。実は、こうして警察官でいることが不安で仕方がない。それに、憧れを抱いて入った警察組織には幻滅させられた。オニズカだけじゃない。見て見ぬ振りをし、誰一人としてジロウを庇ってくれた者などいない。そんな身内の罪を見過ごしていながら、世間の悪を取り締まろうなんて、偽善にも程がある。日頃からの恨み、憎しみが込み上げてきて、すでに自分では自分を制御できない程に膨れ上がっていた。
 ジロウは秋葉原の街に出た。しばらく裏通りを歩いていると、メイドのコスプレをした女の子に声をかけられた。自分はもう、童貞だとバカにされたくない。女の子の前でも、堂々と自分を見せることができる。ジロウは自分の頬を平手で叩いた。
「御主人様ぁ、メイド耳かきはいかがですか? 今なら可愛い女の子の膝枕の上で、気持ち良くなれますよぉ」
 ジロウは立ち止まり、引き攣った笑顔を向けた。
「どうぞ、こちらです。このビルの五階に受付がありますので、そちらで待っていてくださいね、御主人様ぁ」
 ジロウには、女の子の笑顔が自分に向けられたもののように思えた。鼓動が耳元で鳴り、手にじっとりと汗をかいた。言われるまま雑居ビルの五階に行くと、一人の小柄なメイド服を着た女の子が部屋に案内してくれた。その時、女の子がジロウの手を取った。温かくて小さな女の手の肌を感じ、ジロウの頭の中は真っ白になった。もうどうなっても構わない。心臓が脈打ち過ぎて、吐きそうだった。部屋に入ると、女はベッドの上に腰掛け、手招きした。
「御主人様ァ、コッチニ来テ、ネェ、横ニナッテヨ」
 女は中国人だった。日本語は上手だがすぐにわかった。でも構わなかった。女がメイド服を着たまま、耳かき棒のようなものを持って甘えるような仕草をした。ジロウは汗をかいていたが、Tシャツの袖で額の汗を拭い横になり、女に言われるまま膝の上に頭を乗せた。女に顔を上から覗き込まれるのが恥ずかしく、女の腹に顔を埋めると、これまでに嗅いだことのない女のにおいが脳に触れてきて、もう、死んでも構わないと思える程の恍惚を感じた。すると急に下腹部が熱くなり、ジーンズの中で行き場を失って痛みを覚えた。女の顔を見るのが恥ずかしく、言われた通りに目を瞑り、耳を女に傾けた。ジロウは女が自分の勃起したものを見て、笑っているのではないかと不安になった。顔を真っ赤にして恐る恐る目を開けると、女は微笑しながら優しく耳の穴に息を吹きかけてくれた。そして、女は手を伸ばして、そっとジロウの硬くなったものを触ってくれた。思わず声が洩れた。背筋に電気が走ったようだった。
「す、すみません。女の子に触ってもらったの・・・・・・初めてだったんです」
「真面目、ナンデスネ」
 また微笑した。女は二十代後半、ジロウより少し年上に思えた。
「今度ハ反対側ノ耳ヲ。向コウ向イテクダサネ」
 ジロウは女の下腹部の甘いにおいをずっと嗅いでいたかったが、女の言う通りにした。女に耳を預けながら、頬の辺りで太腿を感じていると、時間を知らせるチャイムが鳴った。
「御主人様ァ、延長ナサイマスカ?」
 ジロウが頷いた。
「今日ハ、オ仕事ダッタンデスカ?」
「今日は非番だったから」
「非番ダナンテ、何ダカ、オマワリサンミタイ」
「あの、僕、オマワリさんなんだ」
 すると女の手が一瞬止まったが、また指先で耳かき棒を動かした。
「チョット驚イチャッタ。オマワリサンガ、コンナ所デ遊ンデ大丈夫ナノ?」
「平気だよ、警察なんてクソ食らえ・・・・・・警察なんて悪い奴ばっかりさ、警察なんて」
 女が頷き、ジロウの頭を優しく撫でた。
「ヨシヨシ、辛カッタノネ、私デ良カッタラ、オプションデ色ンナコトシテアゲラレルケド、絶対ニ誰ニモ言ワナイッテ約束シテクレル?」
 ジロウは唾を飲み込み、頷いた。
「絶対に誰にも言いません。僕、警察なんかいつ辞めたっていいと思ってます」
「本当?」
 すると女が、ジロウに顔に近づけて唇にキスをした。ジロウは驚いて口を半開きにしたが、女が舌で唇を割ってきたので、恐る恐る舌を絡ませた。ジロウの下腹部が脈打った。女はジロウのズボンのチャックを下ろすと、その大きく飛び出したものを、小さな手で握り、微かに上下させた。するとジロウは我慢できずに果ててしまった。女はティッシュペーパーで丁寧に拭き取った。
「気持チ良カッタ?」
 ジロウが顔を真っ赤にして慌てて頷いた。
 それからジロウは毎週のように、この店に通った。預金が底を突き、食うものも食えなくても、快楽に溺れた。初めは人目を気にしながら慎重に通っていたが、慣れてくるにつれ、行動は大胆になり、人目も憚らずビルに出入りする姿が目撃された。
 それをオニズカは見逃さなかった。ジロウはオニズカに強請られ、消費者金融で借金をするまで時間はかからなかった。オニズカには、常に弱みを握られている状態が続いた。顔を合わせる毎に、風俗通いを職場と両親にバラすと脅された。そしてその都度、金を借金してはオニズカに手渡した。ジロウとて、オニズカのゆすりが犯罪行為であることぐらいわかっているが、どうしても隠し通したいという思いと恐怖心で、心と体が麻痺してしまう。そして気がつくとまた借金をして、メイド耳かきの店に入り浸っている。もがいても抜け出せない蟻地獄のようだった。風俗で射精する快楽を覚えた反面、醒めた後は、自分ではすでに返しきれない借金と、オニズカの強請りに耐えなければならない。生きた心地がしなかった。署で銃を貸与されると、この銃をこめかみにあて引き金を引いたなら、楽になれるだろうかという妄想ばかりが襲ってくる。何度か本気で銃を手にしたが、その重さに体中が震え、死ぬことさえ恐くてできない自分を呪った。もう誰にも相談できなかった。ショウにすら話すことができなかった。もう自分は終わりだ。生きていたって何の価値も無い。ジロウはそんなことばかり考えて過ごしていた。
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