お手洗いに行った帰り、ジュリエットは1年生の部屋が立ち並んでいる寮の廊下に、見慣れない人影を見つけた。
しかし、中から返答がない。
もう一度ノックを試みるも、同じだった。
しばし無言で佇んだのち、彼女はため息をついて踵を返す。
生徒会幹部であることを表す、白い制服の襟が翻り、その背中がジュリエットから遠ざかっていった。
急いで駆け寄ると、彼女はジュリエットに気がついて振り向いた。
ジュリエット
「こんばんは。
たしか、3年生よね? 生徒会の」
ジュリエット
「やっぱり。校内新聞であなたの写真を見たの。
……1年生に用事? 生徒会というと、ローズを呼んできた方がいいのかしら」
生徒会、といえば1年生の中にも既に所属している者が何人かいる。
ローズはその一人だ。おそらく後輩にあたるはず。
この3年生は、学生寮にいくつかある宿泊棟のうち、どうやらジュリエットと同じこの棟に部屋を持っているようだ。
とはいえ、学年が違えばフロアが異なる。
就寝時間の迫ったこの時間にフロアの離れた1年生の廊下をうろついているのは、生徒会のよほど大切な仕事があるからかもしれない。
そう思って提案したジュリエットだったが、その予想は少し外れた。
ウェンディ
「ありがとう。でも、生徒会の仕事で来たわけではないの。
1年生に用事なのは確かだけど」
よく見れば、先程彼女がノックしていたのは、信乃と琴子の部屋だった。
ウェンディ
「この部屋の、八津瀬琴子さんに用事があるのだけど……」
目の前の生徒会幹部の3年生と、新人風紀委員の琴子との接点がわからず、ジュリエットは少々面食らった。
ジュリエット
(強いて言えば、二人ともすごく真面目そう、とか……?)
自分自身も、人からそう評されることがよくあるのを棚に上げ、ジュリエットはそんなことを考えた。
ウェンディ
「ええ。でも、部屋にはいないみたい。
あなた、所在を知っている? ……えーと」
ウェンディ
「ありがとう、ジュリエット。私はウェンディよ」
ジュリエット
「ええ、ウェンディね。
琴子なら……」
ジュリエットは、琴子達の部屋の1つ隣のドアに視線を移した。
耳を澄ませると、さほど大きな声ではないものの複数人の喋り声が漏れ聞こえる。
ジュリエット
「……まだ、しばらく部屋には戻らないと思うわ。
今、リヴの部屋に集まってアップルパイパーティー (?) をしているの」
ウェンディ
「うっ、アップルパイ……。
……リヴのご実家のよね? 生徒会で相当消費していたけれどまだ余っていたのね、林檎」
ジュリエット
「あ、そうだわ。良かったらあなたも一切れ、」
ジュリエット
(なんだか、ものすごく強い意志を感じる返事だったな……)
パイはまだまだ余っていたはずなので、ウェンディの分くらいは余裕であるのだが……。
実を言うと、リヴのつくった量が多すぎて困っていた。
最初は皆で美味しく食べていたのだが、あまりに減らないので途中から耐久レースのようになっていたのだ。
これで、届いた生の林檎自体はまだまだあるのだと言うから驚きだ。
(しかもそれを告げたリヴが、わりと嬉しそうだったのも驚きだった。)
ウェンディ
「……ごめんなさいね、気持ちだけもらっておくわ」
ジュリエット
「いいえ……。あ、なら琴子を呼んできましょうか?
ちょうど私も戻るところだから」
ウェンディ
「いえ、抜けださせるのも悪いから……。
あの、ごめんなさいジュリエット。もし良かったら、伝言を頼まれてくれる?」
礼を告げたウェンディは、手に持っていたバインダーをジュリエットへ差しだした。
A4の書類が何枚かと、一番上に回覧用の署名欄の記されたメモ用紙が挟まっている。
見ても構わないわ、とウェンディが添えたのに甘えてそのメモ用紙をめくると、書類のタイトルがジュリエットの目に入った。
ジュリエット
(”新入生オリエンテーション報告”……”作成者、アリス=リデル”。
内容は、寮に関することね。……あ!)
ウェンディ
「ええ。たしか、この宿泊棟の1年生代表は八津瀬琴子さんよね?
この書類のチェックを彼女に頼みたいの」
学生寮の事務関係の連絡係として、入学初日のオリエンテーション後に各宿泊棟の各学年から1人、代表を決めていた。
この棟のジュリエット達1年生では、琴子がその係についているのだった。
ジュリエット
(オリエンテーションの日か……なつかしいな)
ジュリエット
「わかったわ。
内容を確認して、この署名欄にサインするように言えばいいのかしら」
ウェンディ
「ええ、その通りよ。
それで、次の回覧が2年生のエリーゼになっているから、次は彼女の部屋へ届けてほしいの。明日で構わないから」
ウェンディ
「ありがとう、ジュリエット。
何かわからないことがあったら、気軽に私の部屋へ聞きに来るように言って」
ジュリエット
(……ああ、そういえば、ウェンディは副寮長でもあるんだったわ)
回覧の署名欄を見て、ジュリエットはようやくそのことを思い出した。
作成者印の次が琴子用の確認印で、次にエリーゼ (たしかこの棟の2年生代表だ) 、その次にウェンディへ戻る順番となっている。
ウェンディ
「それじゃあ、私はこれで……。
夜遅くにすまなかったわ」
ジュリエット
「いえいえ。
確かに承りました。琴子に言ってくるわ」
ウェンディ
「お願いね。
……それと、就寝時間までにはお開きにしてね。アップルパイパーティー」
再び背中を向けたウェンディを見送り、ジュリエットは改めて手元の書類へ目を落とした。
ジュリエット
(学生寮のオリエンテーションか。本当になつかしい……。
……あのとき、実はオリエンテーションどころじゃなかったけど)
思い出して笑いながら、リヴ達の部屋へ戻るべくジュリエットも廊下を歩き出した。
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入学の初日は、午前中に入学式、午後に生徒会および風紀委員会のオリエンテーションを経た後、最後に学生寮に関するオリエンテーションを夕食の前に受けるスケジュールとなっていた。
ジュリエット
(今日一日ずっと人の話を聞いていたから、少し疲れたわ)
午後のオリエンテーションが先ほど終わり、学生寮の食堂棟でのオリエンテーションが始まるまでは自由時間だ。
校舎を出たジュリエットは、学園の敷地内を散歩していた。
最後のオリエンテーションの後、荷物を自分の部屋へ運び入れた後にようやく夕食となる。
とはいえ時間にはまだ余裕があるので、ジュリエットは校舎裏にも足を伸ばしてみることにした。
入学式の日ということもあってか、この時間にしては校内に人が少ない。
今日は通常授業などないと聞いているので、登校しているのは1年生とオリエンテーション関係者だけなのだろう。
入学初日にこんなところに用がある人物はいないだろう。
それに、校舎裏は学園の裏手にある森に近く、魔物が出る確率も高いと聞く。
見回りをする風紀委員は例外として、一般の生徒はあまり近づかないのだと先刻の風紀委員オリエンテーションで聴いていた。
ジュリエット
(魔物、か……。いったい、どんなのかしら。
ヴァンパイアとは違うと聞いたけど)
ジュリエットの故郷に、魔物という種族はいない。
こちらに入学する際に、初めて存在を知った。
いつものようにハンター見習いとして修業に励んでいたジュリエットの元に、一通の手紙が届いたのが、数ヶ月前。
それは、まったく覚えのない学校からの入学通知だった。
それらしい紋章に、それらしい文面だったものの、送り元の住所にも心当たりがない。
よく分からないながら、おそらく宛て先間違いだろう、と数日放置していたのだが……。
ジュリエット
(ある日突然教会から呼び出しがあって……修行がてら留学して魔物について情報を集めて来いと言われたのよね。
意味が分からない)
命令をくだした上官も意味が分からなそうにしていたのを覚えている。
とはいえ、まだ見習いだがハンターにとって教会の命令は絶対だ。
かくしてジュリエットはヴェローナを離れることとなった。
ジュリエット
(来たからには、その、魔物?退治に協力して、役目を果たさないと。
……鍛錬を続けなければ、腕が鈍ってしまうし)
それにこの街にいるという魔物が、ヴェローナのヴァンパイアのように人間へ恐怖を与えているのだとしたら、放っておけない。
これも任務と考え、この街や学園の人々のことを守りたいとジュリエットは思っていた。
ジュリエット
(とりあえず、先刻のオリエンテーションで話に出ていた風紀委員会に接触を図るべきね。
ゲームというのはよく分からなかったけど……強制的にどこかへ所属しなければならないなら、まずはそこを検討しましょう)
校内警備と魔物討伐を仕事としているという風紀委員会。
そこへ所属すれば魔物に関する情報を得られるのではないだろうか。
専用の鍛錬場を使えるというのも魅力的だ。
ジュリエット
(魔物……ヴァンパイアほど強くないといいのだけど。
いえ、その方が正式なハンターになるための良い経験になるかしら)
気づけば、校舎裏をずいぶんと歩き続けていた。
校舎がだいぶ小さくなっている。
まだ敷地内のはずだが、手入れされていない辺りなのか、足元の草が膝近くまでのびていた。
もう少し先の方には、木々がまばらに立っているようだ。
その向こうに森が広がっているのだろう。
時刻は夕暮れ時。
ヴェローナであれば、もう少しでヴァンパイアの出始める時間帯だ。
ジュリエットは無意識のうちにスカートの上から、太もものホルスターの位置を確かめていた。
ジュリエット
(いま魔物に出くわしたとしても、迎撃手段はある。
……でも、強さもわからないのに無謀だったかしら)
それ以前に、魔物の見た目もよく分かっていない。
とんでもなく大きかったり、逆に見落とすくらいに小さかったらどうしようか。
あるいは、ヴァンパイアのように、見た目は人間と区別がつかなかったりしたら……。
場所は、ジュリエットが歩いてきた所よりもさらに遠く。
もっと草の深いところだ。
腰より体高の低い獣か、あるいは人がうずくまったら隠れるくらいの高さに茂っている。
ジュリエットは気配を殺し、もう一度ホルスターの位置を確かめた。
いつでも銃を抜けるように用心しながら、その場所へ近づいていく。
人……あるいは、人型だ。
人型の誰かがしゃがみ込んでいる。
背中を覆っているのは、黒く長い髪と……何だろうか、草に遮られてよく見えない。
その時、ジュリエットの足の下で小枝の折れる音がした。
パキッという極々小さな音は、相手にジュリエットの存在を察知させるに十分だったようだ。
ジュリエットが誰何する間もなく、彼女はバッとこちらを振り返りながら立ち上がった。
ひとつは、相手の女性が、なんとジュリエットと同じ制服を着ていたから。
学園の在校生か、新入生か……なぜこのような森に近い危険な場所にいるのかわからないが、普通ならばその時点でいったん警戒を解くところだ。
ーーおとぎ話のような角と羽根をもつ何かが、しゃべった。
おそらく、いや間違いなく、ジュリエットに向かって。
それに対し、ジュリエットは……、少なくとも挨拶を返す気になれるはずもなかった。
姿を現したホルスターから得物を抜き取るや否や――素早く構えた。
ローズ
「…………ええっと、何だか物騒な雰囲気ね……?」
ジュリエット
「喋れるということは、人間の言葉がわかるのよね?
……動かないで」
そのひとつが、姿形だ。
子供頃に読んだファンタジー小説のような、恐ろしげな造形をしているかもしれない、というのさえ予想の1つに入れていた。
だが目の前にいるのは、ジュリエットと変わらない体格の人型だ。
ジュリエット
(……倒すのが困難に思えるような、恐ろしげな大型の異形ではない。
しかもそれでいて、明らかに人間ではないわ)
ジュリエット
「……ヴァンパイアのように、見た目は人間と変わらない可能性もあると思っていたけど……」
ジュリエット
「良かったわ。
ヴァンパイアと違って、明らかに誰がどこからどう見ても、いかにもこれだって感じの見た目をしているのね……。
魔物って」
今度は、目の前の女性型の魔物が先ほどのジュリエットのように沈黙する番だった。
だがジュリエットと違い、口を閉ざす彼女の顔は……なんだか、呆気にとられているようだ。
ジュリエット
(え? 何……?
というか、銃を突きつけられているのに、いやに落ち着いているわね)
油断なく構え続けているジュリエットの前で、やがて彼女は、ぷっと笑った。
ローズ
「あははは……ご、ごめんなさい。
……そっか、魔族を知らないのね……」
ローズ
「ごめんごめん。でも、私は魔物じゃないわよ?」
ジュリエット
「嘘おっしゃい。魔物以外の何に見えるというの」
ローズ
「本当だってば。
……だって魔物じゃなく魔ぞ――」
そのとき、魔物 (?) の女性の後ろから、小さな黒い影が飛び出した。
それが何か判別する間もなく、ジュリエットの眼前へと迫った。
ジュリエットの銃の腕前はハンターの中でもトップクラスのものだ。
幸い、黒い影の動きの速さはヴァンパイアほどではない。
ひとたび放たれれば、弾丸は黒い影のど真ん中へと真っ直ぐに飛んでいくだろう――
いや銃だけではない。
ジュリエットへ迫っていた黒い影の動きも予想から大きく逸れた。
まるで、銃口と影の間に見えない壁が現れて両者を弾いたかのようだ。
……まるで魔法のように。
ジュリエットが慌てて銃身を胸に引き寄せたのに対し、黒い影は甲高い鳴き声を発しながら少し離れたところへ落下した。
影の落ちたところへ、ジュリエットと女性が駆け寄る。
ローズ
「いえ、魔物よ……まだ子供の。
間違えて結界をすり抜けて、学園の敷地に入ってしまったみたい」
銃をおろし、ジュリエットもおそるおそる覗き込んだ。
黒い猫のように見えたそれは、よく見れば鋭く発達した爪やギョロリと飛び出した目玉、長く伸びた舌と牙などを持っており、明らかに普通の獣ではなかった。
どのくらい成長の余地を残しているのかはわからないが、たしかにこれが成体になれば学園生へ被害を及ぼすこともあるだろう。
ローズ
「最初はただの迷子だったのだけど、あなたの敵意に反応して狂暴化してしまったみたい……」
ローズ
「いいえ、私がちゃんと従えさせられればよかったのよ。
……どうもこの街の魔物は、いつもに増して私の言うことを聞いてくれないようだわ」
ジュリエット
(全ての魔物が、人間に害を及ぼすわけではないのね。
銃口を向けた相手を見極められなかったなんて……修練が足らない)
ローズ
「……さてと。それじゃあ私は、この子を森の奥へ返してくるわね。
あなたも、寮のオリエンテーションを受けるでしょう? 遅れないうちに戻った方がいいわ」
少々落ち込んでいてつい聞き過ごしそうになったが、今、聞き捨てならない単語が混ざっていた。
対する女性は、ジュリエットの反応に「しまった」という顔をしている。
ジュリエット
「オリエンテーションって……あなた、やっぱりここの生徒なの!?
というか、新入生!?」
ローズ
「え? え~~~と……。
じゃ、じゃあ私はこれで!」
咄嗟に女子生徒 (?) の腕をつかもうとしたジュリエットの手は、むなしく空を切った。
目の前の彼女が、ふわりと空中に浮かびあがったせいだ。
背中に羽根があるのだから想像がつきそうなものだったが、普段想定している敵対相手のヴァンパイアにそのような身体機能はないためか、全く予想外だった。
ジュリエットの怯んでいる隙に、彼女は魔物の子供を腕にしっかり抱え直すと、勢いをつけて飛んで行ってしまい……。
ジュリエット
(えーと……結局、彼女は魔物だったのよね?
あの子供の魔物を従えようとしていたみたいだし……)
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アリス
「……全員、指定の席に座った?
いま同じテーブルに座っている人達が、同じ宿泊棟のメンバーだから顔を覚えておいてね」
学生寮の敷地の真ん中にある食堂棟。
その食堂に新入生が集まっていた。
宿泊棟こそ分かれているが、食事は外食しない限り全員同じ場所でとるらしく、食堂の広さは講堂並みだった。
夕食の時間が近く、カウンターを隔てた厨房で食事の準備が着々と進んでいる。
美味しそうな香りが、集まった学生の元へ漂ってきていた。
そんな中、カウンターの前では学生寮全体の代表、つまり寮長だと先刻自己紹介のあった女子生徒が本日最後のオリエンテーションを指揮していた。
アリス
「さらにそのテーブルで隣に座っている人が、これから3年間、相部屋で過ごす相手よ。
とりあえず、数分時間をとるから自己紹介をし合いましょうか」
ジュリエットは座ったまま、上半身だけを自分の隣の席の相部屋相手へ向けた。