休み時間には喧騒に満ちていた校舎も、授業が始まればまるで波がひいたように急に静まりかえる。
授業のある生徒は講義室や実験室へ、授業のない生徒は図書館や談話室へ移動したり、あるいは一度寮へ帰ったりしているかもしれない。
授業中の生徒はもちろん表だって私語をしないし、それ以外の生徒も講義室に気を遣ってか静かに廊下を通り過ぎる。
しかし憂の場合、予定している授業がないのは確かだが行き先は図書館でも談話室でも寮でもなかった。
憂
(……はあ、やっとここまで来られた。
あと、もう少し……)
その足取りは重く、頼りない。
ちょうど階段を降りきった憂は、大きく息を乱して手すりに寄りかかっていた。
誰がどう見ても体調を崩している。
だが、今この時間帯にここを通る者は誰もいなかった。
立ち止まった途端にみるみる真っ暗になった視界が、時間をおくことで朧気ながら回復するのを待ち、憂は再び歩き出した。
階段を出て廊下へ。
少し先に、保健室と書かれたドアが見える。
憂
(この時間、保健の先生は常駐していたかしら……?
できれば、いない方がありがたいわね。それか何も聞かずにベッドを貸してほしい……)
事情を説明するのも億劫なほどに弱っている。
いや弱っていなかったとしても、この身を苦しめる因果を率先して他人に言いたいものではない。
憂
(説明したところでどうにもならないもの。
今日は放課後になっても、というか夜の間中ずっとこうだろうし……)
養護教諭よりはよほど気心も事情も知れている。
……それ以前に、近しい従者である彼なら既に憂の不調に気づいているかもしれない。
憂
(……駄目ね。それこそどうにもならない。
心配をかけるだけだわ……)
それに、呼んだところで無駄だ。
この不思議な学園が、どういうわけだか関係者以外の存在を一切受け付けないことは、入学した頃から分かっていた。
どうやら体調に引きずられて、心まで相当に弱っているらしい。
そうこう考えているうちに、目当ての扉までやってきた。
失礼します、と言いながら扉を開けたつもりだったのだが、思ったよりも息が足らなかったらしく声にならない。
気持ち深めに息を吸い込み、もう一度言い直そうとしたところで、中の人物に先を越された。
本来養護教諭のいるべきデスクチェアに座っていたのは、同じ学年で同じ寮に暮らすリーザ=ベルネットだった。
空腹以外で元気のないところを見たことがない彼女に、保健室という場所ははっきり言ってかなり不似合いだった。
憂
「どうしたの……?
風邪でもひいたの? リーザが?
……あ、それとも怪我かしら」
リーザ
「あのね、まるで私が風邪ひかないみたいな……。
…………って、いやいや。どうしたの、は私の台詞よ。
そっちこそ、どうしたのよ!」
普段から憂を知っている者にとって、顔色の悪さは一目瞭然だろう。
リーザは慌てて椅子から立ち上がり、憂のもとへ駆け寄るとその手を取った。
リーザ
「だ、大丈夫……!? 今にも倒れそうよ、あなた。
熱、熱はある?」
額に手を当てたり頬を包んで顔色を観察したり手首の脈をはかったりと、リーザは意外にも慣れた様子で憂を診察し始めた。
憂
(いやまあ、そういうのじゃないんだけどね、これ)
憂
「……結構慣れてるのね。
保健の先生の代わりをしているの?」
リーザ
「昔、弟や妹が体調を崩すと私が看病をしていたから……。
あ、ここにいるのはただの成り行きよ。先生に、戻ってくるまで留守番を頼まれちゃって。
呼び戻した方がいいかしら……」
憂
「あ、いえ。その必要はないわ。
その……持病のようなものだから。寝ていれば治るわ」
憂
「大丈夫。
薬も飲んだし、あとは寝るしかないのよ、本当に」
あまり詳しく突っ込まれも困る。
さらに言えば、もう立っているのも限界だった。
憂
「あの、ごめんなさい。リーザ。
そろそろ横になりたくて……ベッドは空いているかしら」
リーザ
「あ、そうよね。
ええ、空いているわよ。歩ける?」
ここまで歩いてきたのだ。それくらいなら……と踏み出した一歩はしかし、自分自身の予想よりずっと重かった。
歩くつもりが足を引きずるような格好になってしまい、憂は反対側の自分の足に蹴つまずいた。
いきなり倒れ込みかけた憂の体を、横のリーザがしっかりと受け止める。
リーザ
「いいわよ、気にしなくて。
よし、私が連れていってあげるわ」
何をしているのかと疑問に思う間もなく、何かが憂の膝裏に触れたかと思うと……。
突然視界がくるっと上向き、足が地面を離れたのがわかった。
後ろに倒れる、と衝動的に身を固くしたものの背中に訪れた衝撃は嫌にやわらかい。
地面以外の何かに、体をしっかりと受け止められている。
憂が目を白黒させながら天井をぼけっと眺めていると、リーザの「よいしょっ」というかけ声とともに上半身が少し浮き、次の瞬間には横顔を彼女の制服の襟に押しつけていた。
リーザ
「ふぅ……っ、と。
さすがはお姫様ね。大人しくしててくれて助かるわ。
もしかして、よくされているの?」
憂
「え、まあ……この状態で衆目のなか歩かれたり走られたりしたことはあるけど……。
……ってそうじゃなくて、驚きすぎて身動きとれなかっただけよ」
憂
(嘘でしょう……?
お姫様抱っこ……人間の女の子に)
いったいどこにそんな力があるのか、リーザの両腕はしっかりと憂の体を抱え込んでいて、まったく危なげがない。
リーザ
「そうなの?
先刻なんて、庭でぎゃーぎゃー喚きながら暴れられて、大変だったのよ」
憂
「ええ……? あなた、他の子にもこれやっているの?」
リーザ
「ええ、うちでは病人や怪我人をこうやってベッドまで運んでいたし。
そうしないと逃げるのよ、子供だから」
憂
(私これでも妖で……、リーザよりもだいぶ年上で……、竜神の一族の姫で……。
いやだからってお姫様抱っこ……しかも人間に……。
そして子供扱い……、ううっ妖としての自信が……)
体調の悪さも頭から飛ぶほどのショックを受けて、憂はリーザの腕の中でぶつぶつと沈み込んだ。
保健室の奥には病人用のベッドが三つほど並んでいて、診察スペースとはカーテンで区切られている。
誰もいないときはカーテンが開けられていて、白いシーツに窓からの日射しが暖かく反射しているのだが……。
リーザが歩を進めるにつれ、そのカーテンが今日は閉まっているのに気づいた。
今さら先客の存在に気づく。
色々な理由で視野が狭くなっていたようだ。
そしてこのままカーテンを開けられると、お姫様抱っこされた体勢を先客に見られることになる。
憂
(無理! 無理無理無理……!
この学園でまであんな恥ずかしい思いはしたくないわ……!)
リーザ
「うわわっ……。もう、あなたまで暴れないでよ。
病人は大人しく運ばれなさい!」
ついにリーザは憂を抱えたまま器用にもベッドスペースのカーテンを開け放った。
だが残念なことに、生徒会幹部特有の白い制服を身に纏っている以上、そんなことが意味を持たないのは明白だ。
リーザ
「さあ、元気になるまで大人しく寝ているのよ。
二人仲良くね」
寝台らしきところに下ろされて、憂はおそるおそる目を開けた。
憂が横へ顔を向けると……、隣のベッドで上半身を起こし、微妙な顔でこちらを見ている女生徒とがっつり目が合った。
もしも手近に穴があったら、秒で身を埋めていたことだろう。
憂
「ありがとう……。
その気持ちだけでも嬉しいわ……」
リーザ
「静、起きていちゃ駄目じゃない。
寝なさいって言ったでしょう?」
静
「いや……だから私、今日は別に具合が悪いわけじゃないんだって」
リーザ
「そんなこと言って、騙されないわよ。
庭を歩いている途中で寝るなんて、相当きつかったんでしょう?」
静
「そりゃ昼間だもの……。
昼に眠くなるのは私にとって正常よ。通常運転だから平気なの」
リーザ
「静の平気は信用ならないわ。
この前一緒に怒られたときだって、本当は体調が悪かったらしいじゃない?
あなた何も言わないんだもの」
静
「あの時が偶々そうだっただけで、今日は違うんだってば。
……本物の病人が来たことだし、もう帰っていいかしら」
リーザ
「あら、そんなに私のお姫様抱っこが気に入ったの?
ならお望み通り、またお姫様抱っこでベッドへ連れ戻してあげるけど」
リーザ
「ふっふっふっ……あなたを大人しくさせる方法がわかったわ」
憂
(ああ……先刻言っていたのって、静だったのね。
そりゃ暴れるわよ……)
妖としてのプライドを傷つけられた被害者が、こんな身近にもいたらしい。
リーザ
「さあ、とにかく二人ともきちんと寝るのよ。
私はこっちで先生が帰ってくるまで見張っているから」
満足したらしいリーザはにっこり微笑み、カーテンの向こうへ消えた。
やがて保健室の入り口近い、養護教諭の椅子が遠くギッと鳴って、元いた場所へ彼女が戻ったのがわかった。
静
「……私に構わず寝ていていいわよ。
あなたは私と違って本当に具合悪いんでしょう? 妖力が乱れているし……。
私は、適当に時間をつぶしているから」
色々あって忘れていたが、ここへ来た理由を思い出した途端、急に気分の悪さがぶり返してきた。
頭の重さに耐えきれなくなった憂はベッドへ身を横たえ、布団を肩まで引き上げる。
それでも身を起こしていたときよりは幾分か楽になる。
布団という環境による慣性の力に身を任せることにして、憂は無理矢理まぶたを閉じた。
..............................
静
「まあ……そんなに眉間に皺を寄せていて寝ているわけがないもの」
憂
「う……。
ごめんなさい。気を遣わせてしまったわね」
……そうなのだ。
20分ほど目を閉じていたのだが、全く眠気がやってこなかった。
生来の気質のせいだろうか。
横に誰かがいる、というだけで無駄に気を張ってしまい、完全に体から力を抜くことができなかった。
憂
「実は、寝て良くなるものではないのよ……。
耐えるしかないというか」
静
「あー……。何となくわかるわ。
そういう時、ある」
実を言えば、同じ学年に同じ宿泊棟に属しているにも関わらず、静とはあまり親しく話したことがない。
同じ妖だという親近感はあるのだが、だからこそ憂のことを何か聞き及んでいるかもしれない、と思うと近寄りがたい感じがするのだ。
憂
(竜神家の姫君の醜聞……静が生まれてどのくらいの妖なのか知らないけど、知っていてもおかしくないわ。
あまり関わりたくないと思われているかもしれないし……)
一瞬空耳かと思ったが、顔を横に傾けると隣のベッドの主は憂に視線をよこしていた。
静
「もし良かったらでいいんだけど、話し相手になりましょうか?」
失礼ながら、青天の霹靂、とはこのことだと憂は思った。
とりあえず、距離を置かれているわけではないと思っていいのだろうか。
憂
(意外……。
いえ、もしかすると、あまりにやることがなくて暇すぎるだけかも)
憂
「え? ああ、ごめんなさい。
……でも、そうね。正直、驚いたわ。
優しいのね」
静
「いかにもな病人がいたら、気にかけるのは普通よ」
憂
(やっぱり優しいわよ。
妖にしては珍しいくらい)
楽しいことや騒がしいこと、物騒なことが好きなのは妖の本性だが、その反対のことは敬遠する者が多い。
こうやって憂を気にかけてくれるのは従者や本当に親しい友人、それに竜神家に仕える者やすり寄りたい者だけだ。
憂の家名を目当てにしているにしては動くのが遅すぎる。
それにそこまで親しいわけではないが、入学してから寝食を共にする中で、静がその手の妖でないことくらいは何となくわかっていた。
憂
「……じゃあ、お願いしてもいいかしら? 話し相手」
憂
「……ふふ、そうね。
それに話し声がリーザに聞こえないようにしなきゃ。また怒られるわ」
おそらく妖術でカーテンよりこちら側の音声が外に漏れにくくしてくれたようだ。
静
「いえ、このくらい。
……さて、何を話しましょうか」
何か話したい気持ちはあるのだが、話題がまったく浮かばなかった。
静の方を見れば、彼女も似たような顔で考え込んでいる。
憂
(わ、話題、話題……。
何か、ひねり出すのよ……)
せっかくの機会なのだ。
このまま「やっぱり話すのはやめましょうか」となるのは避けたい。
憂
(ほら、いつも多恵と話しているようなこと……。
そういえば私、多恵以外に同性の友達っていないような……?)
あるとすれば生徒会の面々だが、彼女らは仕事仲間という感じの接し方が多い。
そもそも妖であるがゆえに生活リズムが合わず、授業時間がずれがちなのも親しい同級生がいない原因でもあった。
憂
(あとは……竜神家の姫として模範的に振る舞おうとして、つい同級生との間に線を引いてしまうのよね。
この学園では、龍田家のことなんか知らない人ばかりなのに)
憂と同様に話題を探して唸っていた静が、苦し紛れという感じの表情で口を開いた。
先に思いついてくれた静に感謝しつつ、憂は話題に飛びついた。
憂
「ええ、そうね。もうすぐだわ。
あなたは何の競技に出るか決めている? 静……あ、ごめんなさい、涼江さんの方がいいかしら」
そういえば、彼女の名前を呼んだことがほとんどないことに憂は今更ながら気づいた。
他の同級生が皆「静」と呼ぶので思わずそう呼んでしまったが、馴れ馴れしかったかもしれない。
憂
(というか、どれだけ距離おいていたのよ、私……!
仮にも去年一年間、同じ宿泊棟だったのよ!?)
静
「いいわよ、静で。
私も憂って呼ばせてもらうわね」
憂
「ええ、どうぞ……。
それで、静は何の競技に出場するの?」
憂
「え? そうね、だいたい去年と同じだと思うけど……。
去年は、何に出場したの?」
静
「…………。
……去年、参加していないのよ。朝から起きるの、面倒くさくて……」
憂
「そ、そう……。気持ちはわかるわ。
私は生徒会の仕事があったから、頑張って起きたけど」
憂
「ええ、おそらく。
また仕事があるし、あと今年は2年の幹部として部活対抗リレーに出なくちゃならないし……」
静
「へえ、そんなのあるのね。
全然知らなかったわ」
憂
(ええ……!?
結構盛り上がるし、どの部活も力を入れていたはずだけど……)
憂
「えっと、静はお茶会部だったわね?
お茶会部は今年誰がリレーに出るの……か、……知っている?」
憂
「…………。
そもそも静、今年は体育祭に参加するの?」
妖術の効果が利いているのか、リーザが顔を出す気配はない。
憂
(何か、捻り出すのよ……!
そこそこ話が広がりそうな、何かを……)
横を盗み見れば、静も済ました顔をしつつ目が泳いでいる。
同じく話題を探しているに違いない。
憂
(今度は私から何か……。
話題、話題……。最近、多恵と何を喋ったっけ?
ただしお魚の話以外で……)
憂
「! そ、そうだわ。
この前、街であなたをーー」
憂が言いかけたとき、遮るように別の声がかぶさってきた。
リーザ
「ど、どうしたのよ、それ!?
真っ赤じゃない!?」
カーテンの向こうで、リーザが誰かと話している声がこちらまで響いてくる。
静
「……また誰か来たみたいね。
そろそろベッド、空けた方がいいのかしら」
ベッドの数は限られている。
新しい病人、または怪我人が来たのなら確かにそうするべきだろうが……。
せっかく静と話す機会ができたのに、これで終わってしまうのは少し寂しい気がしていた。
正直話すことがなかったのも確かだが、次にいつこんな機会があるだろうか。
憂
(……いえ、それは私の我が儘よね。
本当に病人だったら、お喋りもしない方がいいだろうし……)
複雑な思いを抱えながら、内心ため息をついていると、リーザの声がこちらへ近づいてきた。
静
「げっ。そういえば風の妖術をかけっぱなしだったわ」
妖術による隔たりがなくなり、カーテンの向こうの声がより大きく、本来の音量で聞こえるようになった。
リーザ
「もう、またなの!? また、あなたまでそんなに暴れて……!
怪我してるんだから大人しくしていなさいよ!」
リーザとその会話相手は、カーテンのすぐ向こうまで来ているようだ。
憂
(あれ?
もう一人の声、聞いたことあるような……)
静と憂がそれぞれ見つめるなか、カーテンが勢いよく開かれた。
リーザ
「さあ! 三人仲良くベッドに……。
って、静に憂も、寝ていないじゃない!」
怒られたので反射的に謝ったものの、憂の視線はリーザになかった。
きっと静も同様だろう。
二人とも視線は、人間であるリーザの両腕にたくましく抱え上げられ、かなり気まずそうな顔をしている妖の女生徒へと注がれていた。
澄
「…………。
その気持ちだけ、受け取っておくわ」
リーザ
「まったく……。
どうして三人とも、素直にお姫様抱っこされてくれないのよ」
澄
「…………目撃者全員、殺したいんだけどいいかしら」
憂
(またリーザによる妖被害者が出てしまったわね……)