昼休みも後半にさしかかろうかという時間帯に、静は講義棟の廊下をふらふらと歩いていた。
当て所なく彷徨っているという意味でなく、文字通りふらふらと、だ。
陽が落ちる頃に目覚め、陽が昇ると眠りにつく妖がこんな真昼間に活動しているのだから、当然ながら眠い。
……というのもあるのだが、今はそれだけでなく若干の体調の悪さをも感じていて、足元がふらついていた。
正確に言えば体調が悪いわけではない。
悪いのは身体ではなく、妖力の調子だ。
まだ暴走するほどではないが、妖力過多による影響が出始めてきている。
静
(いつものことだけど。
……そういえばこの前はお茶会部の用事が入ってしまって、発散し損ねたんだった)
幸い周囲の人影はまばらで、静の様子に気づく者はいない。
午後の講義まではまだ時間がある。皆どこかで談笑をしたり図書館へ行ったりしているのだろう。
休んでどうにかなるものではないから、下手に気遣われても仕方がない。
人気 (ひとけ) がないのはむしろ好都合だった。
妖力が有り余っていることによる負荷であるから、一番手っ取り早いのはひと暴れして発散させることだ。
残念ながら今日の午後、実戦系の実習授業の予定はない。
となれば、どこか思いっきり妖術を使える別の場所に行く必要がある。
静
(うーん、どこへ行こうかしら。
……校舎内で悪戯すると風紀委員がうるさいのよね)
学園の施設には魔法 (妖術と何が違うのかはよく知らない) がかかっていて、壊したり汚したりしてもある程度時間が経つと元に戻るようになっている。
絵画や花瓶やカーテンなどの物は一度壊れたり破れたりすると元に戻らないが、建物の壁や柱、庭園の草木や造形などは、ある程度の時間が経てば勝手に修復されるらしい。
それならばやりたい放題、と以前に校舎や寮で妖術を使いまくっていた (あくまで妖力発散のためだ、あくまで) ところ、すぐに風紀委員に目をつけられてしまった。
静
(それか、裏の森へ行って適当に魔物と喧嘩してくるのもいいわね。
まあ、それも風紀委員に見つかると面倒なんだけど)
これも以前に試したところ、すぐにバレてしまった。
不運なことに倒した魔物がたまたま学園敷地内で頻繁に悪さをするやつだったらしく、風紀委員が近々討伐する予定だったのを横取りした学生がいる、と調べがついたのだ。
それに裏の森は一応、一般生徒立ち入り禁止区域だ。
とはいえ、気に入っているのでよく散歩しているのだが。
静
(あとは……、街に出て知り合いの妖に喧嘩を売るか、ね。
たぶん映画館あたりで待ち伏せすれば遭遇できそうだし)
街に行けばここの学園生以外の妖もいる。
静は心当たりの顔を思い浮かべた。
静
(それに、街で人間にバレない範囲で妖同士喧嘩する分には、風紀委員も文句言わないわよね)
廊下に立ち止まり、いつもより回転の悪い頭でしばし検討する。
ここでぐずぐずしていると、やがて午後の講義に出席する学生が集まってきてしまうだろう。
静
(うん、決めた。街へ行こうかな。
……って、どうせサボるなら姿を現さなくてもよかったわね)
普通、静たち妖は霊感のない人間の目に映らないが、今は人間にも姿が見えるように術を使っていた。
学園で授業を受けるにはもちろん姿を見せなければならないので、最近では目覚めると同時に術をかけるのが習慣になっていたせいだ。
それに術を使うことで微々たるものだが妖力を発散させたかったのもある。
周囲を見回し、自分の方を見ている学生がいないタイミングを見計らっていたところ……。
廊下の角を曲がってきたのは、同じ宿泊棟のリーザだった。
学年も同じで顔見知りだ。
ひとまず術の解除を先送りすることにする。
調子は良くないが、少しの立ち話程度なら耐えられるだろう。
静
「……リーザ。
こんばんは……あ、じゃなくて、おはよう?」
リーザ
「ええ? おはようって、もうお昼を過ぎているわよ?」
静
「そうだっけ? 変な時間に起きたせいか頭がまわらなくて」
リーザ
「いったい何時に起きて、そして午前中の授業はどうしたのか聞くのが怖いんだけど……」
妖なので夕暮れ時に目覚めるのが通常のところ、今日は午後の授業のためわざわざ昼に起きたから、むしろ静としては早起きな方だ。
当然、午前中の授業など受けているわけがない。
実はそういった事情も加味して講義スケジュールを組めるようになっているので、学園生活上の問題は特段ないのだ。
しかしそのことはあまり口外していない (なにせ、理由をきかれたら妖の存在を説明しなければならなくなる) ため、一部の学生からかなりの不良生徒だと勘違いされているかもしれないことは自覚していた。
静
「……で? どうかした?
先刻の口ぶりからして、私を探していたみたいだけど」
静
(昼休みが終わる前に退散したいから、手短にしてくれると助かる)
……との本音は、静の知る限り真面目に学生をやっているリーザの前では言いづらい。
リーザ
「え? ああ、そうそう……。
……って、それどころじゃないわ!」
そう言って彼女は静へ向かって歩み寄りながら、拝むように手を合わせた。
その緑の眼差しはひどく真剣で、本当に窮状にあるのだと察せられる。
リーザ
「見つけられてよかったわ。あなたにしか頼めないことなの」
静
「はあ……そうなの?
私これから用事があるから、少しの時間でもよけれ――」
静の言葉を最後まで聞かず、リーザは片手をのばしてきた。
何の頼みだか知らないが、静の手を取ってどこかへ引っ張っていくつもりのようだ。
道中説明するということだろうか。
猪突猛進、という言葉がよく合うと評される彼女らしい。
思いこんだら一直線に行動するところがあるのだ。
若干失礼なことを思いつつリーザの顔を見ていたら、伸びてきた彼女の右手が静の左手首に触れる寸前――。
――静は、目の前の彼女がほんの少しだけ口の端をあげたのを目撃した。
静の手を取る寸前、リーザはたしかににやりと笑ったのだ。
あれはまるで、罠にかかった獲物を捕獲する狩人のようだった。
リーザ
「ねえ、本当に困っているの。
お願いだから何も聞かずについてきてくれると……」
静
「その行き先って、風紀委員会室だったりしないわよね?」
リーザ
「…………。
やだなあ、そんなわけないじゃない」
言葉こそかろうじて取り繕っているが、リーザの目は泳ぎまくっている。
リーザ
「なな何でわかっ……ああ、いや、何を言っているの?」
静
(だいたい、講義棟で話しかけられた時点で警戒するべきだったわ)
リーザは学生寮の同じ宿泊棟に所属している仲間だが、部活も履修している授業も違うため、校舎内においては会話する機会があまり多くない。
(唯一、戦闘系の実習授業で一緒になることはあるが、お互い熱くなりすぎてお喋りを楽しむ雰囲気にならない。)
学生寮……つまり、中立地帯でのみ。
ゲームのルールに則って、風紀委員の取締りがされない領域である。
静
(いや、でも1年生の頃は、何度か寮内でリーザに捕縛されかけたっけ。
そのたびシエラに怒られていたけど)
真面目なリーザはそのルールに慣れなかったようで、まださほど親しくなかった頃、静はよく寮内で彼女に睨まれていた。
学園のルールに馴染んできたのと、プライベートで仲良くなってきたのもあって、最近ではそんなこともなくなっているが……。
その代わり一歩でも学生寮を出たのちに、リーザが静へ声をかける時は、高確率で彼女が仕事をしている時なのであった。
静
(うーん……とはいえ、困っているというのも嘘ではなさそうだけど……)
少し考えに耽っていた静だったが、風を斬る音に反応して大きく退った。
本能的な動作だったが、正解だったようだ。
顔をあげれば、今まさに右ストレートを振り切った格好のリーザがいた。
彼女が見た目に反してかなり重い拳をもっていることは知っている。
今だって、避ける最初の一歩は静が自分でさがったものの、攻撃をかわした後はほとんどその風圧に押されて後退させられた形だった。
まともに当たっていたら、その一撃だけでノックアウトだった可能性もある。
静
「危ないわね……。当たったら即保健室行きじゃない」
リーザ
「あなたの実力を見込んでいるもの。
静なら、それほどの大怪我をさせずに風紀委員会室へ連行できると思うの」
静
「……やっぱりそこへ連れていくつもりだったのね。
実力行使に切り替えたってわけ?」
静
「いや、そんなこと言われて大人しく捕まるわけがないでしょう……。
一応、事情を聞いてあげるくらいならしてもいいわよ?」
リーザ
「それが……風紀委員会室の机、つい壊しちゃって……」
静
「? いつものことでしょう?
何か関係あるの?」
リーザ
「今年度始まってから、通算でちょうど10個目の机だったの……」
リーザ
「この間なんて、机壊すついでに上に乗ってた高そうな花瓶も一緒に割っちゃって……。
さすがに、少しは弁償してほしいってシエラが……!」
静
「そりゃそうよ……。
なに、そんなに払えないような額だったの?」
リーザ
「いや、さすがに全額は無理だから一部でいいと言ってくれたわ。
そんなに高くない……というか、すごく良心的な請求額だった」
静
「良心的なら、よかったじゃない。
リーザって確か、アルバイトだか仕事だか、やっていたわよね?」
静
(詳しくは知らないけど、どこかに弟子入りしているとか何とか、聞いた事があるわ)
何の気なく言った台詞だったが、リーザはそれを聞いてますます表情を暗くしてしまった。
静
「…………え、ごめん。
聞かない方がよかった?」
可哀相になってきたので、静はそれ以上聞かないことにした。
リーザ
「……何とかチャラにしてもらえないか頼みこんだら、『じゃあ静を捕まえてきて』って」
静
(いや、まあ心当たりありすぎて分からないくらいだけど……)
妖力発散のため風紀委員に捕まらない程度の悪戯をしたり、あるいは今日のように体調不良で講義をサボったりすることは、静にとって日常茶飯事だ。
体質のため仕方ない……と言い訳しつつ、慣れてしまったせいか特に理由なく講義をサボることもたまにはあった。
暇潰しに意味なく魔物を倒しに出かけることもあり……。
リーザ
「なんでも先週、実験棟の裏で小さな魔物の群れを勝手に倒したとかで……。
覚えていない?」
静
「……ああ、あったわね。
まだ風紀委員の討伐クエストが発令される前みたいだったから、ラッキーだと思って見つかる前に先に……」
静
(誰にも見つかってないと思っていたのに……何でばれたんだろう?)
リーザ
「それね、どうやら侵入した魔物じゃなくて、生物学の教授が実験用に飼っていた無害な魔物だったらしいのよ」
そういえばと思い返せば、静が攻撃するまでは温厚な性質の魔物だったような気がする。
ちょうど魔物を狩りにいく前だったので、探しに行く手間が省けたとばかりによく確認せず攻撃してしまったのだった。
リーザ
「そういうわけだから……。
教授に謝って、反省文を書いて、然るべき罰を受けて、私の弁償代をなかったことにするために……大人しく捕まりなさい!」
静
「ぎゃっ!?
事情は分かったけど、最後は納得いかないわよ!?」
慌てて静はもう一度飛びのいたが、予想済みだったのかリーザの連撃が容赦なく襲ってくる。
反撃する間もなく、躱すので精いっぱいだ。
妖術を使う暇もない。
と、何度目かの回し蹴りを避けたとき、勢い余ったリーザの足が講義室側の壁をかすった。
蹴りがまともに当たったわけではなく、かすっただけだ。
そもそも普通であれば壁を蹴ったところでダメージを負うのは蹴った本人の方なのだが、リーザが普通でないことは分かりきっていた。
ピシッ……という音がしたかと思うと、踵が最も近づいたと思われる点でヒビが入り、みるみるうちに直線状に広がり……。
念のため十秒ほど様子を見守るが、やはりそれ以上広がることはない。
静
「いや、『ふう』じゃないわよ。
あなた風紀委員でしょう」
リーザ
「う、うるさいわね。
これくらいなら魔法で直るから大丈夫よ! たぶん」
そう言ってリーザがもう一度構えたので、静は急いで距離をとった。
戦闘系の授業で彼女と手合せをしたことは何度かある。
お互いの手の内はだいたい知っている仲だ。
リーザの一番の特性は、なんと言ってもその怪力である。
人間とは思えないほどの腕力を誇り、それがある故に、風紀委員の中で唯一生身で魔物を討伐できてしまう人材なのだそうだ。
静も武器は得手でない。
彼女と同じく体術による戦闘スタイルをとっているものの……身一つではとても敵わない。
右手に緑色の方陣が光りながら出現する。
ついで、左手、左足、右足にも妖力を付加していった。
妖力が強まりすぎているせいで制御に苦労するも、何とか上手くいったようだ。
それに、術を使えば使うほど症状は楽になっていくとわかっている。
緑色の方陣は、風属性の妖術。
リーザのような生来の怪力を持っていない静は、妖術を四肢にかけることで攻撃の威力を嵩上げして戦うのを基本としていた。
見慣れているリーザは方陣の出現に驚きもしなかった。
だが、静が続いて赤い方陣やら青い方陣やら紫の方陣やらを次々と出現させていくと、そのうちに顔色が変わってきた。
静
「え? 何って……そうねえ、赤は炎系の術で青は水系の……」
リーザ
「そうじゃなくて!
いつも私と戦う時はそんなに色々出さないじゃない!?」
静
「ああ……今日は、特別大サービスよ。
運がいいわ」
静
(本当に運がいい……。
妖力の発散相手が、向こうからやって来てくれるなんて)
今や講義室前の廊下には、静を中心として色とりどりに光る方陣やら人魂やらがうようよ浮いている状態……。
夜の廊下だったら失神するレベルのホラーだが、幸いにも今は昼間で、窓からはさんさんと日差しが降り注いでいる。
通りすがりの他の学生が、ぎょっとした顔で逃げていく程度だ。
本当は街へ行き、ちょうどいい相手を見繕ってちょっかいをかけるつもりだったのだが……、その手間が省けた嬉しさで静はにやりと笑った。
静
「風紀委員に見つかると面倒だと思っていたけど、その風紀委員から先に喧嘩売られたんだからやり返しても問題ないわよね?」
リーザ
「え? えーと……そ、そういえば静、用事があるとか言っていなかった?
わ、私の方は今でなくてもいいから……」
静
「心配いらないわ。その用事なら、たった今なくなったから」
静
「大丈夫、大丈夫。大怪我しない程度に、手加減する」
妖術に気圧されていた様子のリーザだが、"手加減"という言葉を聞いては、それはそれで気に障ったらしい。
怒りに顔を赤くして、リーザはもう一度拳を握り直した。
リーザ
「……いいわ。やってやろうじゃない。
私が勝ったら、一緒に風紀委員会室へ来てもらうからね!」
静
「じゃあ私が勝ったら、これからもこうして妖力の発散に付き合ってもらおうかな」
リーザ
「負けないわよ。
手加減だなんて、言ってやれなくするんだから」
発散がてら妖術を発動させまくったが、近接戦闘の最中に妖力を細かくコントロールするほどの余裕を持てる相手ではない。
四肢にかけた術を維持したまま彼女の攻撃をかわし、間合いから離れた隙に妖術で攻撃することになるが……、果たしてそんな余裕があるかどうか。
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風紀委員会室では、幹部2人が重苦しい雰囲気で情報を整理していた。
シエラ
「集まった学生の通報で私が駆けつけた時には、廊下のあちこちが焼け焦げ、壁にも床にもヒビや穴があきまくり……。
倒壊の恐れがあったから、直ちに全学生と職員を退避させる事態になったわ」
栞
「そう、それで午後の講義が一部休講になったのね……。
……頭が痛い」
シエラ
「幸い、学園にかけられた魔法の効果で建物の修復は少しずつ進んでいる。
明日には通常通り講義ができる状態になるそうよ」
シエラ
「リーザは直ちに私が連行した。
静の方はどさくさに紛れて姿をくらまそうとしたみたいだけど、通りがかった澄が見つけてこちらも捕縛。
今は澄の監視の下、2人仲良く懲罰室に待機させているわ」
栞
「ありがとう、わかったわ。
はあ……。風紀委員会とお茶会部、両部からの減点は避けられないわね」
栞
「それと……リーザには、壁と一緒に壊したロッカーや掲示板類の弁償費用を一部追加請求よ」