第11話  雪月花

文字数 1,956文字

放課後、樹が書道教室の前を通ると生徒用の座席に由瑞が座っていた。

少し離れてぱらぱらと生徒が座っている。
書道部の3年生女子だ。

4人で何かを話しているらしい。
今週末は卒業式だから別れを惜しんでいるのかも知れない。
3人とも優秀な生徒だ。
凛とした座り姿勢が美しい。

しかし、佐伯先生の礼服姿。
めっちゃ素敵なんだろうなと思う。
お母様方はうっとりするだろう。
子供の写真よりも彼の写真の方が多くなるんじゃないか?
眼福。眼福。と樹は思う。

一時間程してまた教室の前を通ると、教室には生徒の姿は無く、由瑞だけが机の前に立って何かを書いている。
樹はその姿を眺める。
もうこの姿も見られなくなると思うと本当に寂しい。
由瑞がふと気が付いて入り口を見る。そして笑って樹を手招きした。

「何を書いていらっしゃるのですか?」
樹が聞いた。
「百人一首です」
「ひさかたの ひかりのどけき 春の日に しず心なく 花の散るらむ」   
(紀友則」
「みかの原 わきて流るる いづみ川 いつみきとてか 恋しかるらむ  (中納言兼輔」

墨の香りが漂う。

「草書体ですね。‥それ位は分かる。平仮名だから何となく読めますね。・・・綺麗ですねえ。流れるような文字で」
樹はそう言った。

流麗な文字というのはこういう文字を言うのではないかと思った。
端正で繊細で優しい。まさに佐伯先生そのものではないかと樹は思う。
「気に入っている句を書いてみました。・・・宇田さんも書いてみますか?」
「えっ?」
「田神先生に頼まれていましたね。文字を見てやってくれと。中々出来ないで、とうとうこんな時期になってしまったが・・・。時間はありますか?はい。ありますね。・・・折角だから、ちょっとここに来て座ってみてください」
そう言うと由瑞は樹の荷物を取り上げ、椅子を指差した。
「ええっ?」

「何がいいですかね?・・平仮名はちょっと難しいのですよ。書体がね。···名前を練習するのも面白くないし・・・・『雪月花』は如何ですか?綺麗な言葉ですよ」

そう言うと由瑞は筆を替えて半紙にさらさらと文字を書いた。
「はい。御手本。筆はこれを使って」
「む、無理です」樹は答えた。
「何を言っているんですか。僅か三文字ですよ。それも知っている漢字ですよ。『梅花』を書けと言っている訳ではないのですよ」


「背筋を伸ばして、左手はここに。筆は・・ちょっといいですか?手に触りますよ。
後で赤津さんに殴られるのは嫌だから、ちゃんと了承を取った事を覚えていてくださいね」

樹は何でこんな事にと思いながらも文字を書く。手が震えて線が曲がる。
「うーん。・・もう一度」
由瑞が言う。
後ろから彼が自分の文字を見ていると思うと緊張して上手く書けない。

「・・・私は『雪』をそうやって書く人、初めて見ました。それ、書き順が違うって知っていましたか?」
「知っています。失礼な。そこで見ているから緊張して間違ったんです」
由瑞は言い訳をスルーする。
「いいですか?『雪』はこうです」
そう言うと樹の手に自分の手を重ねて文字を書く。
由瑞の体が樹の体に触れる。
彼のフレグランスが香る
樹は余計に緊張する。

「月はこう。払いはすっと抜けるように・・「はね」は一度ここでちょっと力を入れて止めて、そこからはねる。『花』は簡単そうですがバランスが崩れるとバラバラな感じになるから・・・四画目の筆を下ろす場所に気を付ける」

何度か一緒に文字を書き、最後にもう一度書いてみなさい。と言われた。
樹は筆に墨を付けると、振り返って言った。
「だから、後ろに居られると緊張するから、そこに居ないでください」
「おや?そうですか。じゃあ私は見ない様にどこか別の所に・・」
由瑞はそう言って教室の後ろに移動して黒板を掃除し始める。

「卒業式もいよいよ・・・・」
「しゃべり掛けないでください」
樹がぴしりと言う。
由瑞はクスリと笑う。

樹は集中して文字を書く。
書いた文字を眺めて、又書く。
首を傾げ、何かを呟いて再度書く。
その姿を由瑞は教室の後ろで黙って見守る。


「書けました」
樹が顔を上げて言った。
「集中しました。結構面白かったです。」
由瑞は樹の文字を見て、にっこりと笑って言った。
「中々、味のある文字です。筋が良いですよ」
樹は素直に喜んだ。

樹はホクホクしながら学校を出た。
記念に私に何か書いてくださいと言ったら、じゃあ『梅花』を色紙に書いてあげましょうと由瑞は言った。
「ちょっと楽しかったです。自分でもやってみようかな」
樹がそう言うと、彼は書棚から「書道入門」という冊子を取って樹に渡した。
「これに道具の扱いやら書き方のポイントやら色々出ているから良かったら参考にしてください。いい本ですよ。これは私物なので宇田さんにあげます。」
「嬉しい。有難う御座います」
 今週末には書道用品店に出掛けて道具を購入して来ようと思った。
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