第1話  如月

文字数 1,656文字

2月も末になり、あちらこちらで可憐な梅の花が見られた。
甘くて上品な香りが鼻腔に届く。

『梅花』の詩を思い出す。
夏の書道教室で、燃える様なオレンジ色の夕焼けを眺めながら、静かに筆を動かす由瑞を待った事を思い出す。
きっとこれからも梅の季節になるとそれをセットで思い出すのだろう。
梅の花と夏の夕暮れ時の教室。そしてそこに佇む人。

もうすぐ卒業式である。
由瑞のクラスの生徒も卒業である。

そんなある日の昼休み。

樹は由瑞に呼ばれた。
「私は今日、出張なので書道部の方を見て頂いて宜しいですか?」
「はい。分かりました。・・今日も例の関数部会ですか?」
「・・何ですか?例のって。そんな怪しげな表現をしないでください」
「怪しいじゃないですか。そんな中高の関数フェチが集まるなんて。」
「フェチ(笑)・・・どうでもいいですけれど、変な噂は流さないで下さいよ。それで私は今日は直帰しますから。宜しく」
「了解です」

生徒が帰って、教室を片付けていると音楽科の菅原が入って来た。
「宇田さん。宇田さん。ちょっと、いいかしら」
「はい。何でしょうか?」
「ねえ。宇田さん。知っている?今年度で佐伯先生、退職されるという噂が流れているんだけれど・・学校辞めるって」
「えっ?」
樹は驚いた。
「ねえ。宇田さん。同じ書道部顧問でしょう。何か聞いていない?」
「いや。全く。えー。びっくりしました。そうなんですか?」
「内緒よ。内緒。ねえ・・・いよいよその田舎の許嫁とご結婚じゃないかって噂なんだけれど・・どうなのかしら?寂しいわ。彼がいなくなってしまったら。目の保養が無くなっちゃう」
「ああ・・。確かに。いや、知りませんでした。ご結婚ですか・・・じゃあ奈良へ帰られるんですね」
「あら?島根じゃないの?」
「えっ?そうでした?」
樹は答えた。
アブナイ。アブナイ。

「何だ。宇田さんも知らないのね。じゃあ、もし何か仕入れたら教えてね。なんだかもう力が抜けるわ。来年度めちゃくちゃつまんなそう」
菅原がそう言うので樹は笑った。

「菅原さん。狙っていたんですか?」
「何、馬鹿な事を言っているのよ。私は既婚者よ。でも大事に育てて来た職場の花が消えてしまうが残念。みんながっかりよね。・・・ため息しか出ないわ。・・あら。御免なさい。お仕事の所をお邪魔して。じゃあまた明日。お疲れ様です」
菅原はそう言って教室を出て行った。
「はい。お疲れ様です」
樹は窓の施錠を確認しながら言った。

佐伯先生いなくなっちゃうのか・・・。
樹は椅子に座って頬杖を付いた。
寂しいなあ。あの素敵な笑顔に励まされることもたくさんあったのに・・。
もう日暮れてしまった窓の外を眺める。

苦手とばかり思っていた由瑞だが、慣れて来ると彼は面白い青年だった。樹は時々彼と冗談を言う事も出来るようになっていた。親しくなった積りでいたが、本人に辞める話も聞かなかったのは、彼は自分程親しさを感じていなかったのかも知れない。

暫くぼんやりと椅子に座っていた。
ドアがノックされた。
「はい」
樹は答えた。
ドアががらりと開いてそこには由瑞が立っていた。

「あら?佐伯先生。今日は直帰の御予定では?」
樹が言った。
「ああ。そうなんですが・・ちょっと忘れ物をして・・・・書道教室にまだ明かりが付いているなと思って寄ってみたのです」
「宇田先生は・・・まだお帰りじゃ無いのですか?」
「ああ・・もう帰ります」
樹は座ったまま答えた。
由瑞は首を傾げて樹を見る。
「・・何か・・・元気ないですね。何かありました?生徒に馬鹿にされたとか・・」
樹は噴き出した。
「いいえ。そんなのしょっ中ですから。」


樹はちょっと迷ってから由瑞に言った。
「佐伯先生。あの・・今日はこの後、御予定はありますか?」
「いや、特別・・」
「ではちょっと夕食とか如何ですか?私と一緒に。・・・ちょっとお聞きしたい事があって」
由瑞は彼女を見る。

「私は良いのですが・・・彼氏に叱られませんか?」
「じゃあ・・・一応、内緒にして置いてくれると助かります」
「・・何を聞かれるのか・・ちょっとドキドキしますね」
由瑞は言った。

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