第10話  3月10日 土 午後

文字数 2,119文字

融はふと目を覚ました。

外はまだ明るい。一瞬、今がいつだか分からなくなった。隣にはTシャツ姿の樹がすうすうと寝息を立てて眠っている。
ベッドの上で散々じゃれ合ってそのまま眠ってしまったのだ。
樹の寝顔を眺めて融は幸せな気持ちになった。自分もすっかり安心して眠ってしまったらしい。
彼女の頬にそっと触れた。毛布を引き上げて樹に掛ける。


ベッドから降りるとそのままシャワーを浴びた。
髪を拭きながらキッチンの椅子に座る。
冷蔵庫から炭酸水を取り出して一口飲んだ。

 今日は疲れた。
 あの佐伯の姉。あの人には困った。

 蘇芳が最初にやって来た日。

帰り掛けに、呼ばれて何かと思ったらいきなり「一目惚れです」と言われてびっくりした。
「申し訳ないが結婚を前提に付き合っている女性がいる」と答えたら「宇田さんでしょう?」と言ったのでまた驚いた。
「でも、私はあなたが好きなの。それを伝えたくて」。
そう言って彼女は去って行った。


そして今回。樹を部外者扱いしたのにも驚いたが・・またあの佐伯が樹と一緒に出て行ったのにもムカつく。仕方の無い事だとは思うが・・・。

 最後に彼女はまた爆弾を落として行った。
「私と付き合ってくれたなら小夜子さんを家で見る」と言った。
融はまた驚いた。そして呆れた。
まじまじと蘇芳の顔を眺めた。
・・・何なんだ。この女は。
そう思った。

「だったらそんなのは必要ない」
「小夜子は時が来れば自分で目覚める。だから君の助けは要らない」
はっきりと言うと、蘇芳はふふふと笑って言った。
「あら、嫌だ。冗談です。小夜子さんには早く目覚めて貰いたいの。史有の為に。それに・・・・小夜子さんはここから出たいみたい。そう感じたの。だから是非、奈良にいらしてください」
蘇芳はそう言った。

 融には蘇芳の何が本心で何が冗談なのか全く分からなかった。
だから帰り掛けに由瑞に言った。流石に蘇芳の冗談は言えなかったが、自分に好意を抱いている様子だと。由瑞は知っていると答えた。
「一目惚れだと言っていました。彼女にとっての初恋です。遅い初恋ですよね」
由瑞はくすくすと笑った。
笑い事じゃないと融は言った。
「俺達は結婚する積りなんだ」
そう言うと、「そう蘇芳に言えばいい」と由瑞が返す。
「言ったよ。俺は樹にべた惚れなんだからって。悪いが君が入る余地は無いとはっきり言った」
融は真顔でそう言った。


病院の帰りに樹と二人で食事をした。
別に詮索する積りも無いのだが、つい聞いてしまった。

「さっきは佐伯さんと二人で出て行って何を話したの?」
「あー。色々。主に学校の事。私とやんちゃ君達との日々のバトルとか」
「佐伯さんに睨まれたら怖いだろうな」
その通り。
樹が頷く。
めっちゃ怖い。

「でも、普段の彼はとても穏やかだし、誰に対しても同じ態度で、生徒に対してもすごく丁寧なの。・・もう神だね。神として崇めるしかない。
彼のクラスはとても落ち着いていて、熱心に学習に取り組んでいるよ。まあ3年生全体が落ち着いているけれどね。私も佐伯先生のクラスの生徒になりたい位」
樹がにこにこと笑って言う。
融は少し面白くない。
が、考えてみたら、同じ職場という事は、俺よりも長い時間を二人は一緒の場所で過ごしているという事になる。それも毎日。
融は今更ながらそんな事に気が付いた。
まあ、彼には結婚する積りと宣言してあるから、大丈夫だろうけれど・・・。
面白くない事には変わりはない。

「ふうん」
「それと好きな食べ物と、好きな女性のタイプ」
「えっ?」
融は驚く。
・・・そんな事を話すまでに親しいのか・・・。知らなかった。

「どんな女性がタイプなの?」
「年上で体が大きくて包容力のあるタイプ。自分をお姫様抱っこ出来る位に逞しい人がいいって。そんな彼女に甘々にされたいって・・・・。大丈夫。融君。私、いっこも当てはまらない。・・・大体、あんなでかい男をお姫様抱っこできる女性なんか居るかよって。巨人か。」
樹がからからと笑った。

「でも、佐伯先生は今年度で退職しちゃうの。凄く残念」
「えっ?そうなの?それは初耳。退職して何をするの?」
「お父さんの会社に勤めるんだって」
「へえ。そうなんだ」
そう言いながら、融はほっとする。
もうすぐ彼は居なくなる。



樹が起きて来た。
Tシャツの上に融のパーカーを着ている。襟ぐりのサイズが合わなくて肩がずれ落ちている。袖から手も出ていない。短い髪は寝ぐせであちこちに跳ねている。
樹は頭をふるふると振った。
融はその姿を見て笑った。
「何で俺の服を着ているの?」
「自分の上着が見当たらなくて・・・寝ちゃったなあ。・・何だか疲れたよね」
樹が欠伸をして言う。

このだらしない恰好。
今朝とは大違いだ。と思いながら、ぶかぶかのパーカーが可愛くて仕方がない。。
「その恰好をさ。佐伯さんに見せたらびっくりするだろうな」
と言いながら、こんな格好は他の男には見せられないと思う。
「ねえ。ちょっと、フード被ってみて。・・・あっ、いいね。可愛い」
そう言って樹の写真を撮る。
自分が樹の後ろに回って肩に手を回して自撮りする。

「さて、シャワーを浴びよう」
樹がそう言ってすたすたと浴室に向かう。

「無自覚にあざといな。こういうのが一番危険だ」
その後姿を見て融はそう思った。




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