第15話 遠千根宮Ⅳ
文字数 2,502文字
老婆は皺だらけの顔の中の小さな目で二人を見る。
目は濁っている。
皺だらけの口元が動く。どうやら笑ったらしい。
口には黄色の歯が数本。
人がいたのか?
何時の間にここに。
何処からやって来たのだ?
足音がしなかった。
由瑞はそう思った。
「・・・赤津様がまた娘御を連れて参られたのかと・・まあ、お盛んな事よと思うて来てみれば。ほっほっほ・・また、こりゃあ良か殿御よのお・・・おうおう。久し振りに下腹が疼くわい」
老婆はそう言うとぺろりと赤い舌を出して茶色の唇を舐めた。
二人は背筋に悪寒が走る。
「赤津様から客人(まろうど)が来るとお知らせが届いておったが・・。さて、お主等の事かのう。・・・だが、こちらに参るとは聞いておらぬ。さてさて・・・・これはちいと不味いのではござらぬか?お客人。こちらは奥の院。立ち入る事罷り成らぬとあった筈。」
由瑞は言った。
「済みません。近道かと思って・・。私達は赤津さんに縁のある者です。小夜子さんにも。・・・あなたはあの村の方ですか?」
老婆はひっひっひと笑う。
「ほう・・小夜子様にも、とな。・・・」
老婆はそう呟くと
「主よぉ。小夜子様の遣いじゃ。喰うてはならぬ」
と池に向かって声を張り上げた。
声が岩壁に当たってあちらこちらで反響する。
遣いじゃあ・・遣いじゃあ・・
喰うてはならぬ・・ならぬ・・ならぬ・・
周囲が静まり、また無音の世界に戻る。
老女はじっと二人を見ると首を傾げた。
「何と狗神様かいの・・・。こりゃあ珍し。・・・道理で。・・・儂は赤津様から遠千根の社と池の世話を頼まれておる御婆 よ。・・・さて、狗神殿。もう帰られよ。さもなくば・・・」
そう言うと老女は杖を振り上げ、タンッと跳んだ。
史有と由瑞は慌てて飛び退く。御婆は史有がいた場所に杖を突き刺す。
杖の先には一匹の細い蝮が突き刺さっていた。
蝮は腹を刺し貫かれて、くねくねと杖に絡み付く。
「ひっひっひ。・・早く去られた方が身の為よ。それとも儂が喰うてやろうかのう・・・美味いじゃろうなあ。閨でたっぷりと舐めてやろう。・・おお、いかんいかん。
下腹がむずがゆい。・・・。ひっひっひっひ」
老婆は蝮の付いた杖で二人を交互に指し示す。蛇は苦しそうにぐるぐると動く。
老婆は一歩前に出る。
二人はじりりと後退る。
老婆はニヤリと笑うと杖から蝮を引き抜き、それを森に投げ捨てた。
「疾く去れ」
そう言うと腰を屈めたまま森の中に去って行った。
二人はそれを茫然と眺める。
「・・何だ。あのこえー婆さんは・・・ありゃあ妖怪か?」
史有が言った。
周囲に静寂が広がる。
聞こえるのは水の流れる音だけ。
辺りがふと暗くなって来た。
まだ陽の陰る時刻では無いのだが・・
由瑞は時計を確認する。
周囲の空気が青く感じられた。
・・・何だ?
山が青っぽく見える。
空を見上げる。
同じだ。‥景色が青の濃淡に変化して・・。
由瑞は池と社を眺める。
風も無いのに紙垂 がゆらゆらと揺れている。
「?」
池の水面に波紋がひとつ広がった。
・・水が‥赤い?
赤黒い?
由瑞は目を瞬いてもう一度水を見る。
いや、確かに赤い。
透明な水に・・赤い・・血だ。血を流した様な・・
波紋がまた起きる。
もう一つ。
もひとつ。・・またひとつ。
ゆらり、ゆらりと水面 が揺れる。
ひとつ。
ひとつ。
ひた・・ひたと。
波紋は同心円状に波及を繰り返す。
「史有」
由瑞が言った。
「・・・何かが来る」
史有も池を見詰める。
「水が・・赤い?」
突然大きな波が立った。
ざばんと赤い波が岩壁に砕ける。
「逃げろ!」
由瑞は叫んだ。
二人は大急ぎで森に入る。滑る階段を夢中で駆け降りる。
宙を跳ぶように走る。
その時、何かが由瑞の前を横切った。
由瑞の頬がすぱっと切れる。
「つっ!」
由瑞が頬を押さえる。
一瞬前を横切ったそれを史有が素早く掴む。
それは鴉だった。
鴉の嘴で頬が切れたのだ。
「この野郎」
史有は鴉の首を捩じろうとした。
「史有。止めろ」
由瑞が止める。
「見てみろ」
由瑞が空を指差す。
そこには夥しい数の鴉が葉が落ちた木々に鈴生りに止まっていた。
まるで出羽に棲む鴉が全部ここに集合した様な、その数。
「何時の間に・・」
鴉たちはじっと二人の侵入者を見詰める。
史有は天井の鴉を見詰めたまま手を緩めた。捕らえられた鴉は飛び去って行く。
鴉たちは彫像の様に動かない。
「史有。動くな」
由瑞が言った。
「・・すげえな」
史有が呟く。
どこからか大きな羽音が聞こえた。
巨大な鴉が一羽。近くの欅の大木に止まった。
鴉の重みで枝がしなる。
鴉はじっと二人を見詰める。
「兄さん。あの鴉・・・」
「いや、違う。病院に居た奴よりも、もっとでかい」
鴉が一声鳴いた。
「がぁ」とも「ぎい」とも取れる濁った声。
一斉に鴉が飛び立った。
ざざっと山が揺れたと感じた。
凄い羽音だ。二人は頭を抱えて蹲る。
鴉はどこかに飛び去った。
一羽残った巨大な鴉は木の上から二人を見下ろしていたが、枝を蹴って空に飛び立った。
木はゆらゆらと揺れた。
史有と由瑞は飛び立ったそれを見送る。
空が真っ暗になる。
風が出て来た。風はごうごうと吹き荒れた。
二人は急いで階段を跳んだ。そして一気に参道を駆け降りて、赤津の家の門までやって来た。
はあはあと息を切らせてそこに屈む。
二人の後ろを車が通りかかった。
軽トラックに乗っていた男が声を掛けた。
「あんたら、赤津様に何か用か?」
二人は男を見る。
「人間だよな?」
史有が呟く。
「いや・・。大丈夫です」
由瑞が答える。
「赤津様は今は留守だ。何か用があるなら・・」
「いや、大丈夫です」
由瑞は繰り返した。
「神社にお参りに来ただけなので」
「そうか。そんなら、ええが。早くけえった方がいいぞ。こりゃあ時雨れて来る。・・・日が暮れるとこの辺りは危ねえからな」
「有り難う御座います」
軽トラックは行ってしまった。
「人、居たな。・・人だよな?ちょっとホッとした」
史有はそう言った。
「・・・史有、行くぞ。とんでもない所だったな。何だったんだ。あそこは。・・・こんな恐ろしい所は早く出よう。・・淵も見る予定だったが、時雨れて来たので今日はもう取りやめだ。
今夜は珠衣の温泉に泊まるぞ」
「まさか、狐狸の宿じゃないんだろうな」
史有がそう言った。
由瑞は「まさか」と言うと車に乗り込んだ。
目は濁っている。
皺だらけの口元が動く。どうやら笑ったらしい。
口には黄色の歯が数本。
人がいたのか?
何時の間にここに。
何処からやって来たのだ?
足音がしなかった。
由瑞はそう思った。
「・・・赤津様がまた娘御を連れて参られたのかと・・まあ、お盛んな事よと思うて来てみれば。ほっほっほ・・また、こりゃあ良か殿御よのお・・・おうおう。久し振りに下腹が疼くわい」
老婆はそう言うとぺろりと赤い舌を出して茶色の唇を舐めた。
二人は背筋に悪寒が走る。
「赤津様から客人(まろうど)が来るとお知らせが届いておったが・・。さて、お主等の事かのう。・・・だが、こちらに参るとは聞いておらぬ。さてさて・・・・これはちいと不味いのではござらぬか?お客人。こちらは奥の院。立ち入る事罷り成らぬとあった筈。」
由瑞は言った。
「済みません。近道かと思って・・。私達は赤津さんに縁のある者です。小夜子さんにも。・・・あなたはあの村の方ですか?」
老婆はひっひっひと笑う。
「ほう・・小夜子様にも、とな。・・・」
老婆はそう呟くと
「主よぉ。小夜子様の遣いじゃ。喰うてはならぬ」
と池に向かって声を張り上げた。
声が岩壁に当たってあちらこちらで反響する。
遣いじゃあ・・遣いじゃあ・・
喰うてはならぬ・・ならぬ・・ならぬ・・
周囲が静まり、また無音の世界に戻る。
老女はじっと二人を見ると首を傾げた。
「何と狗神様かいの・・・。こりゃあ珍し。・・・道理で。・・・儂は赤津様から遠千根の社と池の世話を頼まれておる
そう言うと老女は杖を振り上げ、タンッと跳んだ。
史有と由瑞は慌てて飛び退く。御婆は史有がいた場所に杖を突き刺す。
杖の先には一匹の細い蝮が突き刺さっていた。
蝮は腹を刺し貫かれて、くねくねと杖に絡み付く。
「ひっひっひ。・・早く去られた方が身の為よ。それとも儂が喰うてやろうかのう・・・美味いじゃろうなあ。閨でたっぷりと舐めてやろう。・・おお、いかんいかん。
下腹がむずがゆい。・・・。ひっひっひっひ」
老婆は蝮の付いた杖で二人を交互に指し示す。蛇は苦しそうにぐるぐると動く。
老婆は一歩前に出る。
二人はじりりと後退る。
老婆はニヤリと笑うと杖から蝮を引き抜き、それを森に投げ捨てた。
「疾く去れ」
そう言うと腰を屈めたまま森の中に去って行った。
二人はそれを茫然と眺める。
「・・何だ。あのこえー婆さんは・・・ありゃあ妖怪か?」
史有が言った。
周囲に静寂が広がる。
聞こえるのは水の流れる音だけ。
辺りがふと暗くなって来た。
まだ陽の陰る時刻では無いのだが・・
由瑞は時計を確認する。
周囲の空気が青く感じられた。
・・・何だ?
山が青っぽく見える。
空を見上げる。
同じだ。‥景色が青の濃淡に変化して・・。
由瑞は池と社を眺める。
風も無いのに
「?」
池の水面に波紋がひとつ広がった。
・・水が‥赤い?
赤黒い?
由瑞は目を瞬いてもう一度水を見る。
いや、確かに赤い。
透明な水に・・赤い・・血だ。血を流した様な・・
波紋がまた起きる。
もう一つ。
もひとつ。・・またひとつ。
ゆらり、ゆらりと
ひとつ。
ひとつ。
ひた・・ひたと。
波紋は同心円状に波及を繰り返す。
「史有」
由瑞が言った。
「・・・何かが来る」
史有も池を見詰める。
「水が・・赤い?」
突然大きな波が立った。
ざばんと赤い波が岩壁に砕ける。
「逃げろ!」
由瑞は叫んだ。
二人は大急ぎで森に入る。滑る階段を夢中で駆け降りる。
宙を跳ぶように走る。
その時、何かが由瑞の前を横切った。
由瑞の頬がすぱっと切れる。
「つっ!」
由瑞が頬を押さえる。
一瞬前を横切ったそれを史有が素早く掴む。
それは鴉だった。
鴉の嘴で頬が切れたのだ。
「この野郎」
史有は鴉の首を捩じろうとした。
「史有。止めろ」
由瑞が止める。
「見てみろ」
由瑞が空を指差す。
そこには夥しい数の鴉が葉が落ちた木々に鈴生りに止まっていた。
まるで出羽に棲む鴉が全部ここに集合した様な、その数。
「何時の間に・・」
鴉たちはじっと二人の侵入者を見詰める。
史有は天井の鴉を見詰めたまま手を緩めた。捕らえられた鴉は飛び去って行く。
鴉たちは彫像の様に動かない。
「史有。動くな」
由瑞が言った。
「・・すげえな」
史有が呟く。
どこからか大きな羽音が聞こえた。
巨大な鴉が一羽。近くの欅の大木に止まった。
鴉の重みで枝がしなる。
鴉はじっと二人を見詰める。
「兄さん。あの鴉・・・」
「いや、違う。病院に居た奴よりも、もっとでかい」
鴉が一声鳴いた。
「がぁ」とも「ぎい」とも取れる濁った声。
一斉に鴉が飛び立った。
ざざっと山が揺れたと感じた。
凄い羽音だ。二人は頭を抱えて蹲る。
鴉はどこかに飛び去った。
一羽残った巨大な鴉は木の上から二人を見下ろしていたが、枝を蹴って空に飛び立った。
木はゆらゆらと揺れた。
史有と由瑞は飛び立ったそれを見送る。
空が真っ暗になる。
風が出て来た。風はごうごうと吹き荒れた。
二人は急いで階段を跳んだ。そして一気に参道を駆け降りて、赤津の家の門までやって来た。
はあはあと息を切らせてそこに屈む。
二人の後ろを車が通りかかった。
軽トラックに乗っていた男が声を掛けた。
「あんたら、赤津様に何か用か?」
二人は男を見る。
「人間だよな?」
史有が呟く。
「いや・・。大丈夫です」
由瑞が答える。
「赤津様は今は留守だ。何か用があるなら・・」
「いや、大丈夫です」
由瑞は繰り返した。
「神社にお参りに来ただけなので」
「そうか。そんなら、ええが。早くけえった方がいいぞ。こりゃあ時雨れて来る。・・・日が暮れるとこの辺りは危ねえからな」
「有り難う御座います」
軽トラックは行ってしまった。
「人、居たな。・・人だよな?ちょっとホッとした」
史有はそう言った。
「・・・史有、行くぞ。とんでもない所だったな。何だったんだ。あそこは。・・・こんな恐ろしい所は早く出よう。・・淵も見る予定だったが、時雨れて来たので今日はもう取りやめだ。
今夜は珠衣の温泉に泊まるぞ」
「まさか、狐狸の宿じゃないんだろうな」
史有がそう言った。
由瑞は「まさか」と言うと車に乗り込んだ。