第6話
文字数 1,515文字
いつも影のうすいパパが、
「部長さんにはコニャックかなにかのほうが……」といいながら立ち上がって、しかしリビングの隅にあるお酒のならぶテーブルやグラスのキャビネットにはむかわず、お手伝いさんのいるキッチンのほうへと歩き去った。そのままパパはどこかへと永遠に消え去ったのだった。
(パパの方法がよかったのかはわからない。その後、彼をみた者はいないのだから)
運営担当幽霊はたぶんスマートフォンをポケットに入れていたのだ。それをつかって外部から助けを呼ぼうとエディター幽霊に相談したにちがいない。ただ恐怖に漏らしそうになったなどという、そんな理由ではないはずだと、ぼくは信じはじめた。
それにしてもガタガタとふるえてフローリングがうるさいほどなのに、誰も火をつけようとしないのはバカげていた。この部屋の暖気は、煙道が室壁内部をめぐるようにした暖炉だけに頼っているのだから。
ぼくは念のため、友好的なほほ笑みをブロンズ像のようになった招かざる客にむけ、「逃げたりしない」という意思表示をしたあと、立ち上がって暖炉のまえにいった。チャッカマンの火を凍ってしまった炎にあてると、それはパサリと水色の絹布のようにくずれた。薪は姿も形もなくて、凍えてペニスもちぢまった体をあたためるすべはない。
それを見てか見ないでか、
「もう茶番はよしましょうよ」とママが腰の座った重たい声でいった。
ママは自分たちが死んでいることに気づいたのかもしれなかった。それとも前から知っていたのだろうか?
「パパはもうもどってこないわ」と、彼女は乾いた声でつづけた。
そのときになって、ぼくは、パパが逃げ出したことを知った。はじめからいるのかいないのかわからないパパだったが、いなくなって初めて、彼がさっきまで存在していたのだということが実感された。
「茶番って……」トランス状態からふっと首をあげてエディター幽霊がいった。ボブヘアが冷や汗で顳顬(こめかみ)にはりついている。
ママがヒステリックな笑いで短く空気を破いた。
役員幽霊がうつろな目のままで周囲を見回したとき、トイレから水のフラッシュ音がきこえた。
耳をすましたぼくたちに、それにつづく無音状態はおそろしくなるくらい長かった。
やがて、からからという回転音、衣擦れ、ゴムがぱちんといって、トイレのドアの開閉音、化粧室の開閉音。それらが克明にきこえたあとで、永遠につづく廊下を歩むようなスリッパが刻む床の反響。
客間の敷居をこえて入ってきた運営担当幽霊は、かたわらに灰色の影をともなっていた。人の形をした灰色の気体のようにしかみえない。
「わたしたちがしようとしていることは茶番ではありません」青ざめた体のどこにそんな力があるのか、ピシッとエディター幽霊がいった。たぶん、灰色の影の出現が彼女に力を与えたのだろう。
でも彼女はまちがっている。きっと影はぼくの味方だ。
「そう茶番ではない」緑青を浮かせたブロンズ像がメガネを顔にもどしながらいった「人類の本題とでもいうべきもので、メタモファシスにつながるものだ。お久しぶりでございます」そういって招かれざる客は頭を下げたが、それは灰色の影に対してだった。
それで席に着く機会を得た灰色の影はブロンズ人間の対面となる椅子にかけ、運営担当はエディターの隣たるソファにもどった。
「わかったんです。わたしたちは間違っていなかった」エディターはそういって、運営担当とは反対どなりにいる役員の頬に拳骨をくらわせて、彼を一気に現実世界に連れ戻した。「アレが起きつつある」彼にそういった。
影よ ぼくを連れ去ってくれ
あなたならできるはずだ ぼくが取り返しのつかないことをするまえに
「部長さんにはコニャックかなにかのほうが……」といいながら立ち上がって、しかしリビングの隅にあるお酒のならぶテーブルやグラスのキャビネットにはむかわず、お手伝いさんのいるキッチンのほうへと歩き去った。そのままパパはどこかへと永遠に消え去ったのだった。
(パパの方法がよかったのかはわからない。その後、彼をみた者はいないのだから)
運営担当幽霊はたぶんスマートフォンをポケットに入れていたのだ。それをつかって外部から助けを呼ぼうとエディター幽霊に相談したにちがいない。ただ恐怖に漏らしそうになったなどという、そんな理由ではないはずだと、ぼくは信じはじめた。
それにしてもガタガタとふるえてフローリングがうるさいほどなのに、誰も火をつけようとしないのはバカげていた。この部屋の暖気は、煙道が室壁内部をめぐるようにした暖炉だけに頼っているのだから。
ぼくは念のため、友好的なほほ笑みをブロンズ像のようになった招かざる客にむけ、「逃げたりしない」という意思表示をしたあと、立ち上がって暖炉のまえにいった。チャッカマンの火を凍ってしまった炎にあてると、それはパサリと水色の絹布のようにくずれた。薪は姿も形もなくて、凍えてペニスもちぢまった体をあたためるすべはない。
それを見てか見ないでか、
「もう茶番はよしましょうよ」とママが腰の座った重たい声でいった。
ママは自分たちが死んでいることに気づいたのかもしれなかった。それとも前から知っていたのだろうか?
「パパはもうもどってこないわ」と、彼女は乾いた声でつづけた。
そのときになって、ぼくは、パパが逃げ出したことを知った。はじめからいるのかいないのかわからないパパだったが、いなくなって初めて、彼がさっきまで存在していたのだということが実感された。
「茶番って……」トランス状態からふっと首をあげてエディター幽霊がいった。ボブヘアが冷や汗で顳顬(こめかみ)にはりついている。
ママがヒステリックな笑いで短く空気を破いた。
役員幽霊がうつろな目のままで周囲を見回したとき、トイレから水のフラッシュ音がきこえた。
耳をすましたぼくたちに、それにつづく無音状態はおそろしくなるくらい長かった。
やがて、からからという回転音、衣擦れ、ゴムがぱちんといって、トイレのドアの開閉音、化粧室の開閉音。それらが克明にきこえたあとで、永遠につづく廊下を歩むようなスリッパが刻む床の反響。
客間の敷居をこえて入ってきた運営担当幽霊は、かたわらに灰色の影をともなっていた。人の形をした灰色の気体のようにしかみえない。
「わたしたちがしようとしていることは茶番ではありません」青ざめた体のどこにそんな力があるのか、ピシッとエディター幽霊がいった。たぶん、灰色の影の出現が彼女に力を与えたのだろう。
でも彼女はまちがっている。きっと影はぼくの味方だ。
「そう茶番ではない」緑青を浮かせたブロンズ像がメガネを顔にもどしながらいった「人類の本題とでもいうべきもので、メタモファシスにつながるものだ。お久しぶりでございます」そういって招かれざる客は頭を下げたが、それは灰色の影に対してだった。
それで席に着く機会を得た灰色の影はブロンズ人間の対面となる椅子にかけ、運営担当はエディターの隣たるソファにもどった。
「わかったんです。わたしたちは間違っていなかった」エディターはそういって、運営担当とは反対どなりにいる役員の頬に拳骨をくらわせて、彼を一気に現実世界に連れ戻した。「アレが起きつつある」彼にそういった。
影よ ぼくを連れ去ってくれ
あなたならできるはずだ ぼくが取り返しのつかないことをするまえに
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