ミツオ1 (第34話)

文字数 2,779文字

「明日の仕事のことで教えておかなくてはいけないことがあって、どうしても今日中にやっておかなくてはいけなくて・・・」

 自転車のハンドルを固く握り、無駄に重く変速させたペダルを力一杯踏みながら自分なりに考えに考え抜いて作られた台詞を何度も繰り返しながら寝静まりつつある夜の街を走り抜けていた。

 変速を軽くし坂を一気に上がるとあの川に掛かる橋に出た。もうこの橋の下にあの老人はいない。今となっては色々聞いてみたいことがあったけど。そう思う度に「あとは自分で考えなさい。」というあの老人の声がどこからか聞こえてくるような気がした。

 第7工場に配属されて頃には毎日のように走っていたこの道。橋を渡りきると緩い下り坂を下って最初の角を右に曲がると第7工場へ繋がる住宅街に挟まれた道に入る。辺りは暗く静まり返り、遠くの方には正門の脇にある守衛所の灯りだけが微かに光っていて、そこを目指してペダルを踏みこんだ。

 守衛所の前で自転車を停める。訪問者に気づいた中の守衛がガラス戸を静かに開けた。
「あの、すいません。ちょっと忘れ物をしちゃって・・・」
 IDカードをガラス戸のレールの上に置いて示すと、守衛はそれを手に取って確かめる訳ではなく、ただ、まじまじと見つめている。年度が変わる度に更新され郵送されてきたIDカード。だけど写真はいつまで経ってもグループ長の頃のままだった。あの頃の自分が逆さまになって今の僕をじっと見ている。僕は何故だか込み上げてきた笑いを悟られまいとグッと堪えた。「はいどうぞ。」守衛は将棋の駒を動かすように指でIDカードを僕に差し返した。よし、第1関門通過。
 再び自転車に乗って目の前のまっすぐにのびる道を走り始める。第7工場は住宅街の真ん中にある工場なので、近隣住民との兼ね合いもあって夜間の操業は出来ないことになっていた。操業中は運搬用の大型トラックが忙しく行き交う、工場を囲む外周の道路の真ん中を走りながら、心の中であの台詞の最後の確認をした。

 工場を右に見ながら暫く走り、外周に沿って角を曲がると道路の向かいに別の建物が見えてくる。食堂などがある厚生棟と、その隣りにあるのが目的地のパーパス待機棟だった。入り口前で自転車を降り、すいません。と口だけ動かし重いガラスの扉を押し開け中に入る。しぃんと静かな玄関の左手の壁には〈受付〉の小さなガラス窓。ほの明るい光が透けるカーテンで遮られたガラス窓の向こうは管理人室も兼ねていて、常駐の管理人の生活スペースにもなっている。

 僕はなぜだか忍び足で〈受付〉を通り過ぎ、その先にある管理人室の扉を軽くノックして、気づかれないのか、少し強めにノックをすると 「はい!はい!誰!?」 という声と共に、ゆっくりと扉が開いた。出てきたのは完全に職務を終えたスエット姿の初老の男性で 「どうしたの?」 と訝し気な表情を微塵も隠さず向けられて、僕は慌てて、あの台詞を頭の中から引っ張り出した。

「あの・・・管理人さんですか?」

「そうだよ。」

「え・・・明日の・・・仕事のことで教えておかなくてはいけないことがあって、今日中にやっておかなくてはいけなくて・・・」

「なになに・・・急に・・・」

「あの僕、第7工場で管区長をやっているものなんですけど・・・明日の仕事でどうしても必要なことがあって今日中にやっておかなくてはいけないことがあって、あの・・・パーパスを工場に連れて行きたいんですけど・・・」

 やっとのことで言い終えて、IDカードを見せようとポケットに手を突っ込んだ。

「今から?」

「はい・・・どうしても今日のうちに・・・」

 IDカードを取り出して管理人の目の前に差し出す。管理人はちらっと確認すると、あっちを向いて白髪の頭をなでながら、その背中からは困惑が透けて見えていた。

「本当に?」

「すいません・・・」

「もう寝ちゃってるのよ・・・スリープ状態だよ。今からじゃなきゃだめなの?」

「はい・・・すいません。どうしても、今日中に。」

 もう言い通すしかない。ただ、それだけだった。

「どれだけ連れてくの?」

「どれだけって・・・あ、ひとりです。あ、一体・・・」

「一体ね。どれでもいいの?」

「いや、決まってます。」

「ふぅん、ちょっと待って。」

そう言って、管理人は受付のガラス窓の前にある事務机の引き出しからボールペンとメモ用紙を持って戻り 「番号解るんでしょ・・・ちょっと書いてくるかな。」 とそれを差し出して、僕はそれに [JPーIー35Aー000320] ミツオ君の製造番号を書いて渡した。

「・・・JP、ハイフン、I、ハイフン、35・・・いやさぁ・・・こんなことは今まで無かったから。少なくとも俺が管理人になってからはさぁ・・・いいのかなこんなことして。」

「すいません・・・お願いします。」

「じゃあ、ちょっと待ってて。今連れてくるから・・・服装はそのままでいいんだよね。」

「はい・・・すいません。」

  管理人は僕の度重なる、すいません。を意に介さず、ただただ面倒そうに事務机の側にぶら下がっていた懐中電灯を持ち、扉の前のスリッパを履いてそのまま部屋を出て、奥の暗がりに溶け込んでいくと、その先にある階段をパタ、パタ、パタ。という静かな響きをたてながら上がっていった。うまくいったのかな。なんとなく釈然としない達成感が残った。管理人室は、受付の事務机と、その向かいの壁にはたくさんのモニターが並び、表から見えない奥の方には2段ベッドやパソコンや小さな生活空間が凝縮された狭い部屋で、僕が来たせいでかき乱された微睡んだ空気がこれ以上冷えてしまわないように、部屋を出て扉を閉めた。

◇ ◇ ◇

 パタ、パタ、パタ。奥の暗がりから微かに聞こえてきたその音に、乾いた喉がザラリと鳴った。階段の上の方からほのかな明かりが揺れだすと、それはすぐに強烈な光の円になって、その向こうにあるはずのふたつの影を覆い隠すように、こっちに近づいてくる。それが何なのか当然解っているはずなのに、何故だか胸はぐっと締め付けられ、その音が大きくなるにつれ、呼吸は細くなり、足は竦み、身体の自由が奪われていくようだった。パタ、パタ、パタ。僅かな放心の間に直前まで来ていたその音が止み、光の円がふと床面に逃げ、管理人と向かい合う。

「連れてきたよ、ほら。」

 管理人に背中を押され、つんのめるように前に出たミツオ君と唐突に間近で向かい合った。今まで見たことのない半袖半ズボン姿。だけど、暗がりに浮かぶその表情はあの頃のそれと変わりはない。だけど、その表情とはミツオ君だけのものではなくて。さっきまで身体にのしかかっていた動揺や緊張はいつの間に消え去って、得も言えない疲労が湧き上がってきて。それは毎日のようにミツオ君と向かい合っていたあの頃を懐かしむような感覚でもあった。


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