マチダダイスケ5(第22話)

文字数 2,869文字

「君、名前はなんて言うの?」

 やっぱり犬が喋った・・・口の動きと言葉が合ってないような気もするけど間違いない。さっきより苛ついてるのがわかる。これって答えておいたほうがいいんだよな。心の中で自分に言い聞かせた。

「タケウチですけど・・・タケウチコウキです。」

「おぉ?そうか、うん・・・」

 犬は何か不満があるかのように頭を沈ませ首を捻った。そんなの知ったことか。不満があるとすればこっちのほうだを。〈早く帰らなきゃ〉窮屈な椅子からお尻をすっぽ抜いて腰を上げると、天井が低すぎて前屈みを強要される始末。息が詰まる。やっぱりこんなところは僕がいるべき場所ではなくて、あの小さい扉。あそこから出ていけばいいんだな。レトリバーの横を抜けて扉に触れると扉が音も無く開いた。その向こうに出した足に踏みつけるものは何も無く身体が放り出されるように宙に浮いた。

◇ ◇ ◇

「大分良くなりましたね。いやぁ凄い凄い。最近目覚ましい回復ですよ。」

 いつもの治療椅子にほぼ寝ているといって姿勢で座っている僕にオオタ医師はいつものように後ろ向きで言い、僕の答えも聞かずに言葉を繋いでいった。

「今の様子を見てるとほぼ完治に近いんじゃないかな。どうかな?自分では。」

「そうですね。大分良くなったと思います。」

「この調子だと、すぐに職場復帰しても大丈夫そうですね。」

「・・・そうですかね。」

「他に何か?」

「いや、あの・・・」

「もしかして、パーパスとか?苦手な人?」

 オオタ医師は勢いよく椅子ごと振り返った。どうしてそう思うんだろう。医師の勘とか、オオタ医師にそんなものあるのかな。

「苦手とか、そういうわけでは・・・だけど、パーパスとは暫く接してないんで。どうかなって・・・ちょっと思っただけです。」

「あ、そう・・・それならいいけど。パーパスとの付き合い方に悩んでここに来る人結構いるんだよね。まぁ、来るっていうか強制連行に近いけど。タケウチ君も心配なら一回やっとく?パーパス用のイメージ補正。」

「いえいえ。」

「そうだねぇ。あんまりこればっかりやってると依存症になっちゃうからね。そういう人もいるんだよ。これ続けないと生きていけないって人が。」

「うわぁ、ひどいですね。」

「タケウチ君も最初はどうなるかと思ったけど。若いっていいよね?」

 オオタ医師は安心したように背もたれに身体を預けながらいつもの作ったような笑顔を向けた。

◇ ◇ ◇

 うだるような暑さが過ぎて、たおやかな空気が辺りを包んでいた。空に浮かぶ雲も随分遠くなったような気がする。僕はセンターからの帰り道を自転車で走っていた。頬に当たる心地よい風がペダルを踏む力をどんどん強くさせていく。最近はなんだか自分がどんどん前向きになっているような気がする。今日もそんな思いが僕の身体を自然と動かしているようだった。

 とりあえず第7工場は通り過ぎ、緩い上がり坂を一気に登ると橋の上で止まって河川敷を様子を確認した。よし、今日もいるぞ。今日こそは行ってやる。少し引き返し河川敷へと続く堤防の道路に入る。いつも橋の上から見ていた河川敷へ初めて足を踏み入れることに対する期待と不安が入り交じり、こんなことでも簡単に胸が高鳴った。

 堤防の道路をしばらく進んで分岐する、雑草に挟まれた細い下り坂をブレーキの音を響かせながら進んでいく。坂を降り切った先は既に芝生で自転車から降りて引きながら川のほうへ進む。いつも見ていたジョギングコースとその脇にひとつだけあるベンチ。それに座っている老人の後ろ姿がだんだん大きくになってくる。ミズノさんと会った日。医療センターの帰り道に見た、あの頃と変わらない景色の中で今も溶け込むように座っていたあの老人の姿はずっと頭から離れずにいた。

 長い間、自分から人との関わりを避けてきた僕のような人間に都合良く新しい関わりの機会を用意してもらえる程、社会は甘くない。どんな些細なことでもきっかけにして何かをしないと変わらない。何を言ってるんだろう?本当に自分の言葉なのかと疑うけど、それが今の心境だということに間違いはなかった。

 「こんにちは。」老人の座るベンチの横まで行くと躊躇無く声をかけ、老人は面倒そうに眉を吊り上げて僕を見た。

「今日は良い天気になりましたね・・・隣に座ってもいいですか?」

 「どうぞ。」少し間があって、老人は軽く目を瞑りうなだれたように頷いた。近くで見る老人は何だか表現しにくいけど、くすんでいるように見えた。無造作というより適当に短く切られたような白髪。頬には真っ白な髭が苔のように張り付いていて、茶色い厚手のジャケットや灰色のズボンや黒い革靴など。身につけているものすべてが細部まで確認する必要も無く疲れ果てボロボロになっている。そして老人からは人間の生活で発するにおいを一箇所にぐっと詰め込んだようなにおいが漂っていた。だけど僕は後ずさる気持ちもなく、話しかけた勢いのままで老人の横に座った。いつの間にか老人の視線は僕がここに来る前の、いつも橋の上から見ていたときのように真っ直ぐ川のほうに向き直っていた。

「君は無職?こんな昼間にホームレスの相手とは。」

 突然、老人の口から出た言葉は、僕が老人について、うだうだと湾曲しながら抱いていた思いを率直に表現していた。「あれが私の家。」そう言いながら老人が顔を向けた橋の下には、くすんだ角材の骨組みや青いビニールシートが紐で無理やりまとめられているような大きな四角いかたまりがあった。

「あぁ。一応、家があるということはホームレスでもないのか。」

「・・・ずっと前からここにですか?」

「まぁ前から。いつからとかはっきりしたことは言えんがね。」

「僕は8年前くらいからこの橋の向こうで住んでるんですけど、その頃からこのベンチに座っているところを橋を渡る度にあなたを見てたんです。」

「ほう。8年前か・・・多分もっと前からいると思うな。」

「でも初めて知りました。」

「何をだね?」

「この橋の下に・・・」

 あなたの家があるなんて。そんなこと言えるはずもなく、前の言葉を掻き消すような新しい言葉を慌てて探した。

「あぁ、僕は今、休職中なんです、だから・・・」

「あ、そう。で?」

「だからあの・・・仕事は今してません。さっきの質問の答えで・・・」

「だから、行く末を案じて先輩の私に話しを聞きに来たのか?」

 老人が少し表情を緩めると僕もつい苦笑いをこぼす。

「理由は?」

「理由?」

「休職の理由。ケガとかそういうの。無いの?ただのサボり?」

「あっ、えぇ、精神的というか・・・心身というか。なんだろう?あの・・・」

「精神的な病気?それは穏やかじゃないね。仕事の関係で?」

「えぇ、そうですねぇ・・・何というか・・・」

 僕がどんな8年間を過ごし、今ここに座っているのかを説明するのには複雑すぎる。そもそも初めて会ったような人に話す内容でもない。だけど僕は、それは言いたくありません。とだけ言って、この時間を終わらせたくない。そんな思いが何処からともなく湧き上がっていた。
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