第6話 退院

文字数 2,410文字

明日退院です。
後はお父さんお母さんで頑張ってください。

前回とは違い知事の許可無く退院となった。
最初の入院の時の退院とは違い、希望がかすんで来た。
長い何かとの付き合いになるなと感じた。

最初の退院の時はこれで終わった後は良くなるだけ
あの子がこれからまた友達が出来て、勉強も出来て、恋もして
また戻るんだ…なんて根拠の無い希望に満ちて、大きなお祝いをした。

二度目の退院は静かだった。
家に戻りあの子はゆっくりと布団の中で繭になりぐっすりと寝た。
そして毎日がまた次の朝になると「今日」になるような、時間が止まったような日々が始まった。
薬は退院前の一錠から、マーブルチョコレート並みに掌一杯の薬になった。
日々、薬の副作用に耐えながら、サバイバーの暮らしが始まった。

入院中休んでいた就労支援事業所にもまた通い始めた。
あの子の父が事業所にもう通えないと話すと、送迎しましょうかとなった。
車が迎えに来ると、あの子は無言で出かける用意を始めた。
入院前とは違う。
今日は行くぞと力が入って、足早に片道30分を歩いた。
なんの苦も無く。
帰りも同じだった。
今は意志が見えないくらい、一日をぼうっとして過ごしている。
強い薬で脳の働きが止められていた。
暴れることのないようにおとなしく眠らせているのだ。
ただ言われるままに動いた。
意思があるのかないのかもわからない。
家族も事業所の職員にもわからなかった。

迎えに来てもらっても
その日の出勤の予定を全く覚えていなかった。
玄関から迎えに来たよと声を掛けられると、
「よし」と言って、布団の中から、芋虫のように這い出てて来て、着替えを始める。
待っているとネクタイまでして身支度して、
ゆっくりだが車に乗って来た。
無表情でまだ眠そうだった。
車に揺られると体も揺れた。
街の真ん中の事業所が入っているビルに着くと、
ゆっくりと下りて、4階までエレベーターで上がった。
エレベーターを降りて目の前のドアを開けると事業所だ。

「こんにちは!」
「おー、調子どう」
「お疲れさん」
「おー!ぺんぺん!」
と声が上がった。
それにも無反応だった。

入院前はしゃべりすぎて、
「どーどー」
「わかった」
「しずかに」
と言われるほどだったのに、話し出したら止まらなかった。
事業所内をあっちからこっちへと動き回っていた。
それがまったく話さなくなっていた。
事業所の職員も利用者メンバーも静かに受け止めた。

今は出勤したら、小上がりで横になり、
毛布をかぶり眠る。
それを誰も起こさなかった。
変わったしまったとも思わなかった。
再発して退院して来たらそうなると。

仕事はしなかった。
3時になると送ってもらう。
それがあの子の一日だった。
それが来る日も来る日も続き、調子を崩したり、戻ったり、
綱渡りのような再々入院を避ける日々の暮らしと工夫。
そして季節はゆっくり過ぎた。

大みそかまで無事にすごし、そして正月を迎え、
春、夏、秋、冬と過ぎ、それがいつのまにか3回まわった。
そしてあの子と関わる人と父と母にはも3年が過ぎた。

あっという間ではないが、毎日が同じようにやってきて3年が過ぎただけだ。
今では時の過ぎゆくことは時計の刻みとは関わりなかった。
何も起こらず、淡々と過ぎた。
ただそのために日々が消費されていく。
しかしあの子の時計は一秒も変わっていなかった。
時間はもうあの子にはない。有って有るもの。
体だけは3年分は過ぎた。
容貌も変わった。
お腹か出て足には肉が付き、顔も丸くなった。
そして髭が伸びた。

テレビだけは見た。
テレビの映像がもう一人の誰かのようにあの子のお相手となった。
画面の映像はめまぐるしく変わって行く。
あの子は何を見ていたのか。
反応がないのか、あるのかもわからない。
ただあの子の時間が過ぎることない「目」はテレビに向いていた。
あの子の心はどこかの次元に有って、テレビの画面はそこにあったのだろうか。
時には次元の一面になり、そこの世界の縦か横かになったのだろう。
よく見たのは大河ドラマだった。
大河ドラマも3つ目になった。
歴史ドラマがあの子にわずかな変化が起こした。
それは髭だった。

あの子の時は戦国時代、
そして真田昌幸の髭に反応して、同じような髭を生やした。
それがあの子を何かから守ってくれていると感じた。

髭を生やして、あの子はこの世界へほんの一歩だが足を降ろした。
ほんのひとさじの安心の一歩をこちらの世界へ降ろした。

「ひげそれ!」
通っている作業所の仲間が言った。
「いやだ!」
「ひげそれ、仕事して稼げるぞ!」
「いい。」
「ひげそれ、彼女できないぞ!」
「いい!」

「ハハハ!・・・・・」

それが息をして生きているこの三次元とあの子の次元の最初のコンタクトだった。
あの子は何かの言葉がカギになり、一瞬で妄想の世界に飛んで行ってしまう。
あの子の言葉には主語がなくて、あの子のその瞬間に意識の中の目に見える光景を話し出す。
テレビで見ているものはドラマでなく、それは今起きている現実だった。
それが楽しくて、それを録画するように脳にすべて記録し、それを妄想として何度も再生した。
眼が見ているのは現実の光景ではなく、脳から投影される妄想の記録だった。
それがあの子にとっての今だった。
退院した後はあの子の言葉には主語がなくなった、
ただ形容詞と擬音の意味不明の言葉をはっする。

「金色のピカー、ドドドド、バキーン…、あははは!」

誰もあの子の話すことを理解できなかった。
しかしそれは統合していないとりとめもない世界ではなく、
良く聞けば、しっかりとした土台の上に築かれたあの子の意味ある世界の話だった。
しかしあの子のことを理解できる人はいなかった。
しだいにあの子は無口になり、語ることを止め、そして一人その世界に浸った。
あの子に悩みは無かった。
誰からも理解されなくてもあの子は悩みもしなかった。
目に見えない友がいてそして仲間がいた。
三年が過ぎようとしていたのに
なんと不思議なことか。あの子は孤独ではなかった。
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