第10話 薬

文字数 1,331文字

薬が変わった。
リスパダールからエピリファインに。

峠の向こうの大きな病院の老医師がいった。
「初めてだなこんな量は!
ここには6mmgなんてないから3mmgを二つにしましょう!」

それが始まりだった。

リスパダールは飲むと、まどろみ、あいまいにしてくれる、だから助かっている。
エピリファインはファインとあるように、なんでもものごとがはっきときっぱりと見えてくる。
もちろん現実だけではなく幻聴や幻覚もはっきりしてくる。

薬がかわり、あの子の世界も変わった。
朦朧として、あいまいな日々の中に小さな光が差した。
焦点の合わない歪んだぼやけた世界
あいまいさの中に何かが見て、それがくっきりと見えてきた。
考えも水に浮かぶ泡のように、生まれては形になる前に消え
なにかになることはなかった。
それが煙が柱になり、形になりはじめた。
あの子の自我の宇宙誕生の始まりだった。

最初に見えたのはなんだったのだろう。
目覚めたかのように、あの子は自分の今の姿を見たのだ。
そして今まで知らなかった苦悩をあの子は知った。
あいまいだった記憶の中に自分の年齢を知り
すべてが霧のような時間の止まった世界だったのに
現在に降りてきたのだ。
悲しみの始まりだった。

エピリファインは使者だった。
真っ暗な世界から徐々に見えるようにないり、そしてあの子の目の前にはっきりと見えるようになった。
「ほらこれがお前だ」
朝が来ても、それが朝だとは知らなかった。
否、知ることはなかった。
時間のない世界にあの子はいた。
そしてカーテンは閉まり、暗い部屋の中で時計は空回りするだけだった。

エピリファインはあの子の時折覚ました。
向こうの世界からこちらに連れてきてしまった。
安住の不安のない向こうの世界。
冷徹なエピリファインは正気に目覚めたあの子に今を見せた。
真っ黒な泥の波に変わった不安があの子を襲う。
胸が締め付けらえ、そして鏡に映る自身の姿が見えた。
涙がこぼれ、なぜ僕がと
何もない手の中に握っていたのは魔法の杖だった。
それを一振りすれば、この向こうに行けると念じたが、
無いも起こらなかった。
不安が黒く黒く深く重く、そして手ではぬぐい切れないほどの霧になった。
そして限界に達した。
無意識に立ち上がら外に飛び出した。
何かを探さないと、
あいつを探さないと
あそこだ
あの道の先だ
進め、
進め、
ただ歩いた。
そして腹がすいた。
家に帰らないと。

赤いランプが回っている。
それがぼんやりと視界の中で近づいてきた。
そしてドアが開き、
その後はわからない。
気が付くと家の玄関にいた。

パトカーに保護され家まで送ってもらっていた。

母が玄関で
「すみません、ありがとうございます。」と
「通報があったんで連れてきました。」
「それなければしないんですけど」
「よく見ててください」

あの子の深い闇は薄くなり、おなかが減っていたことだけが強い意識となった。
あの子の母は慣れていた。
ざまざまな出来事に積み重ねで、あきらめ、そして受け入れ、あの子を見ていた。
「はい、晩御飯」
同じものばかり食べていた。
ハンバーグと白いご飯
それを来る日も来る日も食べていた。
何も考えずにお腹が満たされた。
夜の薬を飲むと、静かなけだるさと朦朧とした気配があの子を包み、
寝床へと連れ去った。

あう、エピリファインが消えた。
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