第7話 あれから

文字数 3,740文字

また一年がただ過ぎた。
あの子には一日も過ぎていない。
いつも毎日だ。
来る日も来る日も布団の中であの子は今日を生きていた。
口の奥底から意味のない思考の流れが脳みそに流れ込み、思考回路を縦横に流れていった。
あの子が求めようが求めまいが関係なく思考は口の奥底から沸き上がり、脳の中の暴れ馬のように走り回った。

その馬をあの子は野放しにして思うままに走り回らせていた。
それがあの子の毎日だった。
あの子の意思に関係なく、あの子の脳の中を思うままに走りぬいていた。
あの子の意思に関係なく、その思考にあの子の意思は無意識に追従した。

頭の中にその思考が毎日空に浮かんでは消える雲のように途切れなく流れていった。
晴れも曇りも関係ない。
それに喜びも悲しみもない。
その思考がただ流れ続けた。
そして深く重い疲れが目の奥に座り込む。

その思考をあの子は幻聴といった。
幻聴が何かをあの子はわからなかった。
それを意味も分からず幻聴といった。

その声はどんな声だったのだろう。
あの子に聞こえてきたTVで見た刑事ドラマのセリフとあらすじが意味もなく流れた。
意味のないことだと知っていたが、それが流れた。
あの子が意味のあると思ったことは流れなかった。
ただただ縦横無尽にあの子と無関係で意味のない言葉の羅列が思考として頭の中を流れた。

背中を丸めて布団の中で繭のように固まったあの子の頭の中をその思考が走り回り、
それがあの子の思考を乗っ取っていた。
それがあの子の日々だった。
病床のコクーン!
いつ成虫になるのだろう。

小さな変化があった。
それは5年前のこと

この再発の前

ある昼間のTVで出版社の絵のコンテストのお知らせ。
あの子と母が見ていた。
描いてみたらとあの子の目の前にはがきとカラーペンが用意された。
あの子は弱い意識の中でペンをつかみ5分ほどで書き上げた。
そのはがきを母は送った。
そしてあの子はコンテストを通り、
その出版社の通信の絵画教室の生徒に推挙された。

小さな意思が生まれた。
やりたい!
やりたい!
やりたい!
それは飛び出して行った。
仕事だ。
仕事だ。
仕事だ。
あの子の向こうの世界の中に、この世との橋が架かり、
その橋を渡ってこっちへ来た。
あの子には絵画教室への入学が仕事を持つことであった。
こちらへ意識が戻ってきた。
あの子のこの世界はそれでも頭の中の思い込みの世界だ。
通信生になることはあの子にとってこちらの世界の一員になることと思い込んでいる。
そこで仕事を得たと!

あの子の母は喜んだ、父も喜んだ。
学費が高額だった。
5年間で250万円。
それを年金で払うからいいかと。
学校へ行きたいというあの子の願いが叶うなら250万円は安いと。

それから数日後、出版社から担当者が来て面談があった。
40代のベテランらしき女性担当者はスラックスに身を包み、
足を組んであの子と向かい合った。
あの子の両脇には母と父が。

「誰の真似でもなく、オリジナルです。いいですね、著作権の問題がありません。」
「出版社ではコンテンツの新しいキャラクターを必要としています。」
「似ていたりすると使えないんです。でも誰のコピーでもありません。使えます。」
「可能性ありますよ!勉強してください。」
優しい口調で柔らかい声で、しかしはっきりと、絵のことを話した。
誰の真似でもないいい絵だと。

あの子は顔が緩み小さな笑みがあった。
まるで振り返ることのなかった日々に誰からが自分のことを見てくれて、
何か認められていたのは感じた。
しかしあの子の頭の中ではあいまいだった。
何が起こったのかも。
ただ目の前の女性が自分に苦悩を持ってきたのではなく、
話してくれているのだと。
話かけてくれたことだけが分かった。
それだけだった。
あの子は曖昧なまま入学手続きの書類に必要事項を記入して判をついた。
それだけだ。

コンテストで送ったドイツワールドカップのイメージのはがきの絵は返してはもらえなかった。
あの子の父はそれを写真に収めた。

出版社の女性との出会いはそれっきりだった。

それから数日後入学の通知が来て、教材が届きそして毎月のリポート提出が始まった。
あの子がこちらに帰ってきたときは、それが彼の意思だった。
向こうへ行ってしまえば、もうそれは遠のいた。リポートのこともなにもかも消え去ってしまう。

あの子の母は毎月、リポートを提出させるために、3日間という日を設けて
あの子と交渉した。
課題の絵を描けるようにと絵具と画用紙が用意された。
月にわずか二日だがテーブルに座り、あの子は画用紙に向かった。
二日で課題を仕上げた。

母はあの子のテキストにすべてフリガナを振り、一緒に読んだ。
そして課題に一緒に取り組んだ。
あの子は言われることに妄想や思い込みから、意味不明の反論をしたり、理屈をこねた、
あの子の母はそれでも、「わかった」「今はこうして・・・」と、
適当でもとにかく二日間のタイムスケジュールを順を追ってこなし、最低限の絵をかかせ、郵便局から送らせた。
そして送った後はご苦労さんとお祝いをした。
その夜にはレンタルDVDを借りて映画を見ながら酎ハイとつまみを用意した。
あの子と母と父とで映画の時間を過ごした。
あの子はそれを楽しいと思った。

あの子にはそれだけだった。

そしてまた同じ次の日が来るだけだった。

課題の絵を描いているときは、あの思考が頭の中を走ることはなかった。
あの子はそれを知っていた。
その時はあの重い、重い疲れはなかった。
ただ絵を描いて集中力を使い果たし、深い疲れと眠気がやって来て長い長い間寝た。
それが波を起こした。
でもその波はすぐ静んだ。

あの子の母は偉かった。
入院を念頭に、それに備えて課題を早めに終わらせ貯めていたので、
再発入院中はそれを送って時をつないだ。
あの子は絵の通信教育の学生であることを覚えていたのだろうか。
母は退院した後、テーブルに同じように画材と画用紙を置いた。
何も言わず、課題を読み上げて、あの子に筆を握らせた。

意識があるのか、自分がやっていることを知っているか母にはわからなかったが
あの子は絵を描き、課題を仕上げて行った。
終わると深い疲れと眠気がやって来た。
父と母は課題が終わるごとにお祝いをした。
なんの祝いなのかあの子は知ってたのだろうか。
無表情のまま祝いの第三のビールとポテトチップの大袋を平らげ、布団に入った。

ふと目覚めたあの子の意識が自己に帰還し、言葉を自分自身に語った。
「…ああー!僕はここにいるが外が良く見えない。曇りガラスを通して見ているようなんだ。
絵を描くのは楽しい、課題だってわかる。でもそれが遠くに見える。
長い長い手を伸ばして遠く遠くに見える画用紙に『わたし』は描いている。
絵を描いているときは、あの声は聞こえてこないし、TVのセリフが意味もなく頭の中を流れて行かない。
それをああ…どう伝えられるんだ。」

そして気は遠のき、深い疲れと眠気の中に体は丸くなりコクーンのように動かなくなった。

あの子は繭の中で一人、意味のない思考の羅列の止まることのない流れに頭は飲まれ、意識を失ったかのように、その意味のない物語が頭の中でとどまることなく語られていた。
あの子はこの世界と内世界の境界がどこなのかも知らずに生きていた。
境界などどうでもいいことだった。
体の感覚もそうだった。
外の暑さ寒さも曖昧だった。
体の感覚のセンサーがずれていた。
真夏に冬の格好をし、真冬に半袖のシャツで短パンの時もあった。
あまりにも可笑しくあった。

そして母とあの子の努力は最後の課題を仕上げた。
母はだましだまし課題をあの子の前に用意し、一つ一つを仕上げ、この日を迎えた。
5年の月日が流れた。
母はあの子は良くやったと。
何のためだろう。

あの子は兄弟がそれぞれ上の学校へ行くのを見てきた。
5人兄弟。
一番上の姉は東京の大学へ、一番上の兄は群馬の大学へ、下の妹は東京の専門学校へ、そして二番目の兄は、中卒、夜間高校に受かったものの中退。
あの子は発病し高校を2年休学し、そして中退した。
結果中卒。
あの子は上の学校へ行きたいと願った。それも強く。
その願いが叶うならと、大学へ行くほどの学費がかかるこの絵の通信課へ入学した。
ということをあの子がこちらの世界へ来て意識がさえているときに言葉にしたのだ。
父はほっとした。
無理やりやらせたんではなかった。
あの子の主訴だったんだと。

蒙昧な意識の世界の中にあってあの子は課題をだし続けた。
薬はあの子の脳を曖昧なものにした。そしてそんな曖昧な意識の中で課題に向かった。
あの子の才能の一割も出し切ることはできなかっただろう。
それでもあの子の独特な一味が絵の中に見えた。
その才能を省略し、描き続けた課題の絵。
独特な味が一つ一つの絵に有った。
母はそれでいいと思った。
最後の課題は静物。
リビングルームの絵だ。
ソファーとテーブル。
歪んだ部屋の中に、歪んだソファーとテーブル。
色は独特な赤と緑、背もたれは斜めに傾くが、テーブルがその安定を維持した。
薬の副作用がなかったらどんな絵になっていたのだろう。
限界まで踏ん張り、そして手を抜いてもあの子は課題を仕上げる。

母はそれを天晴と思った。
最後の課題が仕上がり、郵便で学校に送られた。
長い長い月日が過ぎた。
そしてあの子は何か一つのことを成し遂げたのだ。
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