第8話新しい地で

文字数 3,447文字

時は流れた。
あの子には一日も過ぎてはいない。
目が覚めればまた同じ朝だ。
いつものお客さんが来て、とりとめのない物語を話し始める。
それにまたただ向き合い、その物語にまた飲み込まれ、同じ一日を過ごした。

あの子は来る日々、病気の苦労を和らげる技を身に付けた。
傷にカサブタができるように日々の心の痛みや傷に上手にカサブタを作る技を身に付けた。
あの子の日々の苦労はあの子にしかわからなかった。
ただぼうっとして空想と妄想の中に沈溺し、
夢想の森を彷徨い、ただ食べて寝る暮らしをしている暢気ものだと
彼を知らない者にはそうしか見えなかった。
ただ一人の世界であの子は生きていた。
理解されることを一つも望まず、その日をまた生きた。
そしてまた朝が来て、同じことが始まる。
あの子には朝が来るが、翌日になることはなかった。

変わらぬ日々に一瞬扉が開き、予期もせぬ大きな転移が起きた。
あの子の両親の引っ越しで、あの子は宮城へと引っ越した。
引っ越しが何かをあの子は知らなかった。
あの子の今日が消えてなくなることを恐れた。
今日のお客さんがいる場所が消えてなくなる。
なぜあの家から別の家に行くのか理解できなかった。
決して変わることのないあの子の居場所はそこしかなかった。
いつもの窓、いつもの本棚、いつもの棚の上の置物、それがあの子のゆがんで行く空間を真四角に保っていた。
その置石が無くなる。
それは理解できないことだった。

あの子の両親の父母、そうあの子の祖父母は高齢になり、大きな病気を抱えていた。
その祖父母のそばに行くためにあの子の両親は今のすべてを置いて、宮城への引っ越しを決めた。
ゼロからのスタートを決めた。
それをあの子は飲み込めなかった。
そして有りえないことだった。
目の前の空間が揮発し蒸発し消えてなくなる。

あの子の父と母があの子に引っ越しのことを何月も前から小出し、小出しに話していった。
理由も時期もあの子が飲み込める一口一口にして、それを一さじ、一さじ食べさせるように、話していった。
そしてあの子の心も準備で飲み込んでいると受け止め、引っ越しの1か月前に引っ越しの日を伝えた。
あの子は理解し、そして納得したと考え、最終確認であの子に確かめた。
あの子は両親に「わかった」と言っていたが、それはあの子は心配させまいとそう言っただけだった。

引っ越しの予定の日が迫って来た。そしてあの子は自身が消滅する日を予見した。
そしてそれは恐れに代わり、恐怖の中に陥った。

引っ越し三日前の荷物かたずけの時、あの子は調子を崩した。

「どこへ行くの」
とあの子は父に聞いた。
「えっ、話してたでしょう。
引越し、山の家に行くんだよ。」

「引越ししないよ!いつ決めたの。聞いていない。」

あの子はまるで記憶がないかのようだった。
大事にしていた木製の手作りの海賊船ブラックパール号の梱包を拒んだ。
「引越しするんだよ。」
「これどこに置くの。」
「ここに置く。」

あの子の父と母は来たかと思った。
昨日は自分で片づけると言っていたが、翌朝には引越しなど知らないと言った。
ほとんどの荷物は梱包を終わり箱に詰められ後は積み込みを待つだけだった。
残ったのはあの子のへ屋にあるものだけだった。

明日、違う家にいる。
それはあの子の脳と時間を止めた。
理解不能なのだ。
今日という日をあの子は終わりなく目を覚ませば繰り返し繰り返し生きた。
あの子には昨日の記憶はなく、明日という言葉はなかった。
あの子には今日なのだ、いつでも。
今日以外のことはすべてわかりえない理解不能のことだった。
目が覚めれば、そこはいつもの部屋だった。
それがそうでなくなる!
!あの子は気が狂いそうになった、全体いや!それが心の声だった。

荷物がすべて車に積まれ、あの子の部屋にある荷物だけになった。
その時、一瞬の機会がきた。
幻聴のお客さんがあの子から離れたのが見えた。
点になっていた目が柔らかくなった。
父の友人が手伝いに来てくれて、二階に上がって来た。
そしてあの子に「よー、さあ運ぶか」と声をかけた。
その瞬間だった。
あの子の父は、「じゃーこれ下に持っていくよ、いいね」
「うん」
「じゃ、ケースの箱から」
「さあ、そっち持って」
「重くないな二人だと」
「ありがとう」
ブラックパール号とアクリルケースは対だった。
永久に動かすことはできないと思っていたが、
ほんの数分で運び出すことができた。
あの子の思考が緩んでこちら側に来た瞬間だった。

それからは流れるように進んだ。
いや流れるように動きを止めないで、あの子の父はあの子の為に進めた。
こちらへの扉が開いている次元があの子の思考が別の思考へと上書きできる機会だった。
あの子の今日は一瞬で入れ替わる、そしてあの子はそのことに気づかない。
記憶が無いのだ。
まったく違った今日になってもあの子は気が付かない。
目の前にある今日が今日になる。
昨日の今日は全く記憶にない。

引っ越すなら、「今日」を入れ替えると、記憶の無いあの子には
入れ替わったは今日があの子の何年もいる居場所にすり替わるのだ。

あいまいな中に事は流れ、荷物がすべてトラックに積み込まれ、あの子は何かを納得し、
午後には父母、あの子とトラックに乗り、宮城へ向かって出発した。

「さあ、ジュース買おうか!」
宮城の家には引っ越しに備え毎月一度は行っていた。
夕方出発し、高速に乗る前にコンビニにより、飲み物とパンを買った。
その時の掛け声を掛けた。
それはさあ出発の合図だった。
あの子はその宮城への旅のモードに入ってくれた。
不安のない、先のわかる行事だ。
いつもの仙台の山の家へ行くときのいつもの行程だ。
代わりのないいつもの日になったのだ。
あの子は引っ越しをスルーした。
大きなパニックの源となる出来事を絶妙なタイミングと言葉のつながりで脳を混乱させることなく
日常の変わらぬ日々の幻影の中の今日としてただその日が過ぎた。
三次元では大移動だったが、あの子の意識の中では何も変わっていない、どこにも行っていない。
変わらぬ今日として今日を無意識の中で思考回路を一切刺激せずにただ過ごせたのだ。

コンビニでジュースとパンを買って、車に戻り、そして車は高速のインターへと向かった。
今回は日の沈んだ夜でなく、それより2時間ほど早い夕方だった。
そしていつもの自家用車ではなく、トラックだった。
トラックの運転席の窮屈な三人席だった。
会話もなく、いつもの移動になった。
我慢強く椅子に座り、あの子は眠ることも無く、無口で真正面を見つめ、ただ座り続けた。
そしてサービスエリアで予定通り止まり、フードコートで遅い夕食を取った。
ただのカレーライスだった。
いつもそうだ!
なんでもいいから美味しいもの食べてというが、たのむのはカレーかかけそばだった。

ひどく疲れて、朦朧とした旅の後、夜遅くあの子は新しい地に着いた。
あの子の意識の中ではまるで一瞬のことだったのだろうか。
しかし深いあいまいさとだるさの中、あの子は宮城へ引っ越した。

宮城の山の家はあの子には何年も住んでいた部屋となった。
今日敷いたばかりの布団はもう何年も敷きっぱなしの布団になった。
今日の記憶ではもう何年もなじみのある万年床であった。
あの子にはそれでよかった。

あの子は新しい地に来たのに、そこは新しい地ではなかった。
もう何年も前から、いや生まれた時から住んでいるところとなった。
あの子は引っ越したのだった。
ここは長く住んでいるところであり、
以前の家は記憶の中だがそこも今も長く住んでいるところだった。

蔵王の麓に山の家はあった。
別荘地のゲートをくぐり、松川をかかる橋を渡り、そして登っていくと高い丘の森の縁に山の家はあった。
漆黒の夜空に澄んだ空気と冷たい風が吹いた。
その二階の一角にあの子の部屋があった。
そこに運ばれたあの子のお気に入りの本棚にブラックパール号が置かれた。
そして折り畳みのテーブルの上に、宇宙船模型ニューファルコン号が飾られた。
その二つがのあの子の座標軸だった。
その二つとあの子の作る三角があの子の今日だ。
それがあの子が自分の場所と認識する座標だった。

無意識に記憶を消しているのだろうか、あるいは記憶がないのだろうか。
しかしあの子の父はまさにあの時を捉え、次元ワープ抜けて、あの子を隣の世界へと瞬間移動させることに成功した。
あの子の心が傷つくことなく、認識されることもなく、病気を悪くさせることもなく。
奇跡だった。
否、あの子は本当は知っているのだ。
無意識ではなく、奥深くにあるあの子の目に見えない意思がそうできたのだ。
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