第12話 桜祭り

文字数 1,846文字

春になり桜が満開になると何年も前のことをあの子の父は思い出した。
あの子を人込みで見失ってしまうことばかりあったので、
決して祭りというものには行くことはなかった。
もう退院して時間がたっていて、落ち着いているだろうと
あの子を連れてあの子の母と父は弘前城公園桜まつりへと出かけた。

コンビニのトイレに入って、一分も経たない間のことだった。
あの子は消えた。
弘前城には2万人の人出だ。
そこに紛れ込んだらもう探しようがなかった。
計り知れない不安と「やってしまった」と深い後悔が圧倒した。
迷いなく一直線に祭り会場の特別交番へ届け出た。
全署、全パトロールカーの動員で捜索が始まったが、
見つからなかった。

日が傾くころあの子の母と父は桜まつり会場特設交番から本署に行き、事情聴取を受けた。
生まれた時からの話を長い時間をかけて話した。
またこの繰り返しか。
あの物語をまた一つ誰かに語った。

時は流れ、日は暮れ、雨が降りそうだった。
黒い重い雲が空を覆い、不安をあおった。
絶望感が漂い、あきらめがそこまで来ていた。
「では署で待ってもらいましょう!」
主になって連絡を取ってくれていた婦人警官から言われた。
そう夜になるのだ、そしてただ待つしかない。
久しぶりの花見、楽しい夜が逆転して、暗い不穏な取り返しのつかない夜になったと。
少しの覚悟と淡い期待、外を見るともう真っ暗だった。
ただただ生きていることを願うだけだった。
そしてその時、連絡が入った。
婦人警察官が
「見つかりました」と
「ここから4キロ離れたバイパスの眼鏡屋さんが駐車場に座り込んでいる人を見つけて通報してくれました。」
「ひげが生えている特徴から間違いないと思います。」
「今、パトカーで戻ってきます。待っていてください。」
ほんの10分もしたら黒いワンボックスカーが到着し、乗せられてきたあの子が降りてきた。

「どうしてたの」
あの子の父は何もなかったかのようにあの子に聞いた。

「散歩に行ってた」
「はい、お見上げ」
あの子は父の手にラーメンの100円割引券を渡した。
「ラーメン食べたの」
「ん、」
「ありがと」
「美味しかった」
「ん。」

それが警察署での最初の言葉だった。
弘前桜まつりの5月3日一番の人出だった。
あの子の父母、兄夫婦と祭りの前にコンビニのトイレに入った30秒の間にあの子はふらっと外に出ていったのだった。
一瞬で妄想にに飲み込まれ声が聞こえてきた。
そして一瞬でそこは「本能寺の変の日」に
弘前の城下町は本能寺にそしてあの子は声を聞いた「信長の逃げ道を探せ」
その声に引かれて、足は外へと向いた。
「急げ逃げ道を探して信長を助けろ」
速足でお堀に沿って歩き始めた。
そして記憶は飛んだ。
信長の逃げ道を探し、そこを速足で歩いているうちにそれは散歩の場に変質していた。
気が付くと腹が減っていた。

ふと見ると目の前に山岡家ラーメン店が、
「あ、、ここ来た」
暖簾をくぐり、ポケットの中をまさぐると小銭があった。手に握り、食券販売機に800円お金入れるとランプがついた。
醤油ラーメンのボタンを押すと、食券が出て来た。
カウンターに座り、待ってるとラーメンが出て来た。
「いいにおい」
空腹の腹にラーメンスープがしみた。
最後の麺をすすり終わると
「はい、くじ引いて。」
と店員さんに言われた。
くじを引くと当たりだった。
100円の割引券が当たった。
ラーメン屋の暖簾をくぐって外に出ると、足がもう体を支えられなかった。
お腹も満たされ、体も温まった。
足が動かない。
そのまま外に出てしゃがみこんだ。

そのラーメン屋の向かいが眼鏡屋さんだった。
眼鏡屋さんの女性店員があの子に気が付いて通報した。
全パトカーで3時間も探し続けていたが見つからなかったが、
この電話で終わった。

パトカーが着くとあの子は名前を聞かれ「はい」と
そしてそのまま弘前署に
あの子の父と母は待っていた。
生活安全課の捜索の警察官と婦人警察官が付き添っていた。

「良かった」
そしてなんにも言わなかった。
「何してたの」
「散歩」
「へー」

道に迷い、わからなくなったら、歩いて青森まで帰ろうとして、闇雲に東へ向かって歩いたらバイパスに出た。
その道はわかった。
それを歩いて青森へ帰ろうとしていたのだ。

あの子の母も父も涙が目に滲んだ。
そして笑顔を作った。
まるで本当に散歩から帰って来たところを待っていたように振舞った。
あの子の足はもうくたくただった。
疲れが顔に見えた。
「帰ろうか」
そのまま車に乗り、青森に向かった。
家に帰り、あの子は静かに階段を上り部屋に入り静かに眠りについた。
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