第2話 第八病棟

文字数 3,059文字

陽が昇った。
ここはどこだ!ガチャンと音がするところだ。
知らない自分が絶叫していた。
幻聴が大音響をたて、体の中を走りぬけ、皮膚をずたずたに切り裂き、もう限界を超えた。
眠っている自分と絶叫している自分がいて、罵声が聞こえる。
何日ここにいるんだ。
ここは保護室だ。
ガチャンの部屋だ。
自由時間に耐えられなくて大声だして、大暴れするものが入れられるところだ。
なんで自分がここにいるんだ。
罵声を発しているからだ。
ここで上杉謙信が死んだとか、なんだとか、意味もないことを言っているからではないか。
誰と話しているんだ。
そうだあいつだ。
うるさくしつこく話しかけてくるあいつだ。
だから耐えられなくて罵声を発するのだ。
いや、罵声を発するのはあいつだ。
俺は静かだ。
あいつのためにここにいるんだ。
…気が付くと、大部屋にいる。
ここはどこだ、この部屋はガチャンじゃないぞ。
鍵のかかる鉄格子の扉はもう目の前にはない。

もう保護室から出て病棟に戻り幾日かたっていた。
薬で意識の中で、時間は進むことはなかった。
何かがスイッチになり、この世界に一瞬舞い降りてそして気が付く。たわいもないことで。

カーテンの向こうから聞こえてくる声で気が付いた。
ここは大部屋だ。
病室のカーテンは閉まったまま、薄暗い。
薬で幻聴から相手にされなくなって布団の中で丸くなり、今はゆっくりと眠っている。
目を瞑り、時がたち暗闇の中にいるとそこからまたあの世界へと入っていく。
光が差し込み、そして思いもしなかった人と出会い、話し、そして時間を旅する。

気が付くと面会室にいた。
ふとこの世界に帰ってくる瞬間がある。
朦朧とした薬の作用の中で「面会だよ」
そのアナウンスは魔法のようにあの子の目をわずかに覚ました。
気が付くとあの子の父と母が目の前にいた。
あの子は父に幻聴の話をした。
規則で大部屋で病気の話は禁止だとあの子は思っていた。
が、ここ面会室なら話せる。
だれにも話を聞かれることのない面会室があの子にはありのままも話せる部屋だった。

「僕は処置入院なのそれとも普通の入院?!」
「幻聴がそう言うんだ」
「普通の入院だよ」
「じゃ、そう幻聴に言っておく」
「もう疲れた行く」

ほんの数分、あの子はこの世界に降り立った。
面会室の扉を開けて、ふらふらしながら病室へ戻っていった。
そして4人部屋の病室の布団の中でまた丸まってしまう。
そこが安住の地。
ほんのわずかしか起きていられない。
薬ですぐ眠気がやってくるのだ。
眠っても幻聴が足音を立ててやってくる。

幻聴は嘘をつき、だまし、落とし込む。
それでも耳を傾けるのを止められない。
それは有って有る誰かだった。
そして今のたった一人の知り合いだった。
幻聴さんと呼ぶようになっていた

この頃だますのがへたくそになってきた。
同じ手を使っているからあの子は幻聴さんだと気が付くようになってきた。
聞こえなければと願うのに
静けさが苦痛だ。
そして幻聴さんはぽかんと開いたところへやってくる。
ひとつの言葉を落としていくと、それが始まりとなり、妄想が芽生える。
それがどこへ行くのか、脳は知っているが、止める事ができない。
それは有り余るほどの自由時間があるからだ。何が楽しみがあるだろう。
病床のコクーンには楽しみはない。
心休まる時も無く、幻聴を相手に押し問答が繰り返される。

天井の蛍光灯がそれを見ている。
布団の中で丸まっているあの子は繭の中の蛹のようにしか見えない。

夜8時半のアナウンスで薬の時間。皆さん集まってください。
一人一人並んで薬を待つ。口を開け、コップの水と一緒に何粒かの錠剤を飲み干す。
小さな白い錠剤。そんな小さなものが繭の中に眠るあの子の脳を日々違ったものにする。
あの子はそれが大切なものだと少しずつ気が付いてきた。
不安は消え、順番を待つ列に並び、口を開けコップの一杯の水と一緒に何粒もの錠剤を飲み込んだ。
疑いも不安もない。何分か経つとあの子は感じ始める。
幻聴は元気に意味も無いことを語り続けるのに、あの子は声を聞きながら眠りに付く。

眠っているのだろうか起きているのか、いや眠っている。いやでも聞こえてくる。
もう今自分がどこにいるのか、どうでもいい。
幻聴が元気に喋り捲ろうが眠っていることに変わりはない。
ただ意識は目覚めている、でも体は寝ているのだ。
大部屋の規則を破って病室に話好きの若い人が集まり、話し声が飛び交っている。
会話でなく、自分よりはるかに年を取った隣人が勝手に自分のことを話し、集って来た若い人が聞いている。
布団の中に包まり寝ているのだが
そのうるささが心地よい。

あの子の父、母は水曜と土曜日に面会に来る。
時間はあの子がいいという午後8時
「今日はどうだった」
「人間になってきた」
「今までなんだったの」
「へびだった」
「皮膚がずたずたに切り裂かれる・・・
蛇の脱皮だ。
幻聴さんのうるさいストレスでそうなるのだ・・・」と。

「黙知衆(もくちしゅう)」
「黙知衆になっているんだ」
「これは修行だ」
「何・・」
「知っていることをべらべらしゃべらないこと」
「べらべらしゃべると鉄格子のところに入れられるんだ。」
「だれが教えてくれた言葉」
「誰も」
「自分で思いついたの」
「…」
「すごいじゃない」
「どんな感じ、黙るの『黙』と『知』」
「黙っている事は知なんだ。」

「グレート愛坂さんみたいに知っていることを誰も聞いていないのべらべらしゃべる人がいるんだ」
就労支援事業所で会った有名大学の哲学科を卒業した人を覚えていた。
もう60を過ぎているのに自分は発病した28歳のままだと思っている人だ。
あの子には強く記憶に残っているのだろう。

「聞いているの」
「聞いていない・・・でもいい人だよ」
「黙知衆じゃないから」
「知っていてもしゃべらないように気をつけているの」
「そうだよ、喋りまくると周りの人が調子悪くなるからね。」
「そして悪い人に思われるから…」
「気をつけてるんだ」
「ん…」
「黙知衆になって自分を守っているんだ」
「ん…」

あの子には頭の中に思い出せる人が何人かいる。
悪い人の思い出ではない。
人と違う、独特な風貌と動きをする人だ。
そんな人に親しみを感じるようだ。
そんな人たちが妄想の中で行き来する。
やさしい思い出が行き来する。

長い間話した後、朦朧としてきた、
我慢も限界を過ぎたのにまだ面会室から立とうしない。
いつまでも面会室にいたいのだな。そのうちに薬の時間になり、それも過ぎてしまった。

「薬の時間だよ…」しぶしぶ面会室のスライド扉を開け、談話室へ、
もう誰もが薬を飲み終えて、談話室の思い思いの場所でテレビを見たり、雑誌を見たり、誰かと話し込んだりしていた。
あの子は薬の棚の台車の前に行き
「すみません薬」
「はい」
あの子の親は看護師に気を使っていた。
こんな遅い時間になり迷惑だったかなと。
薬の時間まで面会が食い込んでしまった。

あの子の後を追ってあの子の親も面会室から出た。
副作用が気がかりだった。
どんな薬を飲んだいるの知りたくて袋の錠剤に関心があったが、それを見分けることはできなかった。
朦朧としているのが副作用なのか、それとも病気なのか。
薬を渡されたあの子は口を開け、何粒もの薬を口に運んで、
「さよなら」を言って大部屋の廊下へ消えていった。
もう寝る時間だったのだ。
さびしそうに大部屋の自分のベットに向った。
廊下の曲がり角で後ろを振り返り。
「またね」その一言であの子の親はほっとしてエレベーターに乗った。

あの子の父は、あの子が持つ回復しようとする力を認め、信じた。
それだけががむしゃらに不安な心に道を創ってくれた。
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