第1話はじまり

文字数 4,652文字

退院して10年目の入院、
あの子は山の上にいた。
再発したのだ。
以前入院した精神科病院第八病棟だ。
山の上とはその病院のことだ。

そこへ行くには八甲田山へ向かって国道を登って行く。
その八甲田山の裾野、雲谷に大きな病院はあった。
その八階が第八病棟だ。
みな青森の人はその病院へ行くことを山へ行くと言った。

「薬か…」
「ここはどこ……」
「寝てるのか…」
「いや起きてる…」

「なんでここいるんだ、」
「どこだここは…」
「ここは病室…」、
「違うのかな、やわらかい枕と布団だ。」

どこだここは…かすんだ光の中に明るい電球が見える。
昼なのか夜なのか思い出せない。

「寝てたのか……、起きてるのか」

最初の入院からあの子の青春は布団の中。
もう何年経ったのか。
幻聴、幻覚、妄想の苦労と共生する。
それは無意識に体が自分自身を苦悩から守る力だった。
あの子は妄想の世界を旅し、聞こえる幻の声の友と語り合い、
時を越えて見えるものは何かを友に伝えた。

布団の中、脳の中の見えない世界で、彼は生きていた。
そしてそれは三次元の空間に投影され、自然の風景と重なった。
あの子の「聞こえるもの」は目に見えるこの世界と融合し、一つの風景となった。

八階の窓からは眼下に街の夜景がきれいに見えた。
カーテンがその夜景をさえぎり、分厚い割れないガラス窓が外の世界と内の世界を分けていた。
窓はわずかしか開かず、体がすり抜けて飛び降りできないようになっていてた。
清とした四人部屋ではあの子だけが布団の中で丸まっていた。

他の入院患者は病室から出て談話室でテレビを見たり、オセロに興じていた。
発病からの10年の記憶はどこかへ溶けてしまった。
あの子が今わかるのは楽になったことだった。

再発したあの夜、頭の中で耐えられないくらいの幻聴の饗音、
頭が膨れて街を飲み込み、街が頭の中になだれ込み破裂しそうになった。

あの子は平成25年の12月28日、
大雪がおさまった、夜の外へ飛び出した。

いつもとは違う階段を下りていく足音を聞いて、二階の自室にいた父ははっとした。
いつもとは違う、叩きつけるような早足で階段を降りる音。
直感で異変を感じ、反射的に部屋の扉を開けて、階段に飛び出て、大きな声であの子の名を呼んだ。

「どこへ行く!」
あの子に声は届かなかった。
あの子は二階から父が呼び戻す声が聞こえないのか。
振り向きもせず、玄関を力いっぱい押し開けて、雪降る夜へ飛び出した。

手には孫の手、10年前は包丁だった。
幻聴の声の源を突き止めに飛び出したのだ。
あの子の後を追って父は階段を駆け下り玄関の外へ出た。

道路はモーグルのゲレンデのようにこぶだらけで、
10センチから30センチの厚さの凍った雪に覆われ、つるつる凸凹だった。
その直線の道を北へ走り出した。

あの子の父が手間取って冬靴をはいて、慌てて後を追ったときは、もうあの子は50m先を疾走していた。
あの子はナイキのトレーニングシューズを履いていたが氷結した路面には無力だった。
ピエロのような滑稽な足の動きで、凍った雪の道を器用に全力で走って行った。
道は5メートル幅の雨どいのようになっていた。滑ったらその道の深い真ん中に滑り落ち、通り過ぎる車にいとも簡単に轢かれてしまう。
道の両脇は雪の壁となっていた。
車がすれ違える道は、今雨どいのようになり、一台がその真ん中をやっと通ることができた。

あの子の大怪我と事故死を意識して父は叫んだ。

父はあの子の名前を大声で呼んで
「危ないから走るのをやめて戻っておいで」と叫ぶとあの子は足を止めた。
父はもう言葉が届かないと思ったのに、あの子の足が奇跡のように止まり、
そして体がこちらを向いたと思ったら、その先の緩やかな曲がりのところで戻ってきた。
声が届いたのでは無かった。
ナイキの夏靴をはいているのに気が付き冬靴に履き替えようと、
家の玄関目指して一目散に戻って来たのだ。

向かってきたあの子は車道の真ん中に突っ立っていた父の前で止まると思ったら、
脇を通り過ぎ一目散に玄関めざした。
あの子の父は脇を通った瞬間、あの子の肩をつかんだ。
「あっ…、」

あの子は前のめりに道路へ倒れて、手を前にして滑り込んだ。
あの子の父はすぐに首根っこをつかんで、もう走れないようにあの子を押さえ込んだ。
そして車に轢かれないように、その一軒隣向かいの家の前の道脇の雪の壁に引きずって行き、
あの子の体を人の丈ほどある雪の壁に押し沈めた。
もうそれしかあの子を救う手段が思いつかなかった。

それでもあの子を押さえつけている父の手を振り払おうと応戦した。
両足に力を入れて、父の腕から逃れようと操り人形のように宙ぶらりんのまま足をばたばたさせた。
足は走っているが、滑って空まわりだ。

この氷の道で父は助かったと思った。
力では負ける息子だった。
冬靴をはいていた父は足をしっかり地面につけて、
あの子を押さえつけで、捕まえることができた。
夏靴を履いていたあの子の足は氷で滑って雪面で全く無力となった。、
あの子はただ父の腕に抱えられた子犬のよに足をばたつかせ氷の道の上で観念した。
もう逃げ切れなかった。

通り過ぎる車は速度を落とし、ゆっくりと凸凹に揺られて通り過ぎた。
騒ぎを起こしているだろう親子を見て誰も止まって声をかけて助けてはくれない。
横目に関わりを避けるかのようにただ通り過ぎていった。
大声を上げて、あの子はなにかを伝えようとしていた。

その間、あらゆる義憤をあの子は父にぶつけた。
父は「そうだな」、「そうだな」と、幾度も声を出した。

親子喧嘩と勘違いした雪壁の内側の家の老夫がブロック塀の門から出てきて
格闘しているあの子と父の頭の上から見下ろして
「なにしているの」と声を掛けて来た。

あの子の父は「警察呼んでください。」
「110番お願いします。」
「へ」と気が抜けた返事が返って来た。

同じ言葉を老夫に繰り返しお願いした。
もう赤子のようになっているこの老夫は
何も驚くことなく何もなかったかのようにゆっくりと家に入いった。
それを窓のカーテン越しに見ていた老父の妻がゆっくりと受話器を取り、ゆっくりと110番した。

パトカーが来るまでの40分雪の中はなぜか寒くはなかった。
あの子の父は両腕であの子の首を羽交い絞めにして
雨どいのような氷の道の上で滑りこまないよう足を踏ん張り、
道路脇の雪の壁に自身も一緒に埋まりながら耐えた。

ほんの一瞬あの子の腕から力が抜けた。
あの子の父は見逃さなかった。
今がその時だと思った。
「さあ、家に入ってゆっくり話そう。」
首を押さえつけた腕をほんの少し緩め父は、あの子をゆっくりと引き起こし家の玄関まで導いた。
小さな奇跡が起きたと感じた。

玄関に入ったのもつかの間、
あの子は器用に父の後ろに周り込み、
体をひるがえして父の首を孫の手でまた押さえつけ絞めつけた。
落ち着いた心がまた熱くなり、
「俺の靴をよこせ」と叫び、
靴を履き替え、外へとまた飛び出す準備をしていた。
その時、ドアベルがなり、遅れて警官が来た。
パトカー三台と黒いワンボックスカーが来ていた。

ドアを開けて、「こちらですか」と警官が聞いてきた。
警官が外に5人、そして一人玄関に入って来たらあの子は静かになった。
降参したかのように腕を抱えられ、言われるままに静かに頭をたれて、静かに警官の問いかけに答え、
ワンボックスの黒い車の後部座席におさまった。
一瞬のことのように警察官は手際よくあの子を後部座席に収めたのだ。

警官があの子の父に「病院へ行きますか。」と確かめた。
「病院にはひどく言ってください、でないとこんな時間では今夜病院に受け入れてもらえないので。首を絞めて、人を傷つけるに及んだと言ってください。」
すでに午後9時近くになっていた。
もちろん診察時間はとうに過ぎており、夜間担当の医師がいるが、命の危険がない限り受け入れてくれないという。
電話をするあの子の父の脇で、警官は一言一言小声で言うことを伝えた。
あの子の父はそれを淡々と繰り返した。
その狙い通り事は運んで、警官6人の付き添いのもと、
あの子は山の病院へ入院の手はずとなった。

あの子はパトカーでなく警察の黒いワンボックスカーに乗せられ山の上の病院へと連れられていった。
10年前に通りなれた裏にある夜間用入り口から入り、警察官6人に付き添われ診察へ入った。
あの子の父と母は後から診察室に入った。あの子はもう落ち着いていた。

母が事に気が付いたのはあの子と父が玄関で警察と大事になっていた時だった。
2階でお笑いの番組を見ていた。
子供のころ中耳炎で右耳が聞こえなくなり、外で父が母を呼ぶ大声も聞こえずにいた。
何も聞こえず気が付かず、まったく起きていることに気づかず、年末のお笑い番組を見て笑いの中に時間を過ごしていた。

警官が玄関に来た時、母は物音がしてあの子の声が聞こえ、
「ママ」と呼ぶあの子の父の声を聴いて、初めてどうしたかなと思い、二階のテレビ部屋から階段の下をのぞいたのだ。
そこにはあの子と父と警察官がいた。寝耳に水の事態だった。

まるで隕石が落ちたかのように万分の一の確率で起きることが、日常のお笑い番組の裏で起こったのだ。
再発だけは避けたいとあらゆる努力をしていた母は山へ向かう車の中で泣いた。

父はもう連れて帰りたいと思った。
しかしまた外へ飛び出されたらもう体力も心も持たないと思った。
決して望まなかった、決して起こしてはならない再入院を目の前にして、父は今起こっていることを傍観しようとした。
あの子が飛び出すまでに見ていたテレビのバラエティーのように無理に笑いに変えようとした。
そんなことしかできなかった。
「なんで今日なんだ。12月28日だぞ‥‥」本当にお笑いだ‥‥

あの子は夜勤の医師を目の前にし気持ちが落ち着いたのか、静かに答えていた。
「入院したいのかい?」「はい」「じゃこれにサインして」
ボールペンを渡されたあの子は任意入院の申し込み書にサインを試みたが、
どうしても手が鉄のように動かない。
右手がまったく動かない、誰かに押さえられているように動かない。
右手に左手を重ね力を入れて名前を書こうとするが一向に動かない。
右手がそのまま石になり、もう自分のものでなくなったのかと思った。手が動かない。

夜勤の医師は待ってくれていたが、手がまったく動かないのを見て、この言葉を口から発した。
「自分で書けないなら、医療保護入院だな。いいな。」
それでもあの子は書こうともがいたが、いくら手に動けと指令を送っても、鉄のように動かない。
夜勤の医師は十分待ってくれた。

失われた希望があの子を無表情にした。
捕まえられた野良犬のようにあの子はサインをあきらめ、看護師に連れられ、従順に医療保護入院の準備のために隣の診察室へと連れられていった。
それを静かに父は見た。母は見た。もう終わりだ、観念するしかない。父はそう思った。

また長い長い夜だった。
何もかもが終わり、山から下る道から見る師走の街明かりはいやなくらい静かに美しかった。
またここを毎日行き来するのか。
あきらめと一緒にこれからのお金の心配とともに、単調な見舞いの日々が来ることを思った。

今日もあの子は病床のコクーン。
10年の時を経て、また布団の中で眠っている。
この世界にいるかな、
いやあの世界にいる。
宝の苦労をして、三次元の世界から飛び出し、
再び亜世界の中で宙ぶらりんになり一人旅に出た。
もう時間も空間もない。
ただベットの四角い世界の中に丸く布団にうずくまり、
魂は永遠の空間へと旅に出た。
さあ、こっちの世界に戻って来いよ。
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