第5話 外泊その2

文字数 2,871文字


今度こそ…足早にまた4日が過ぎた。
外泊報告書に次の希望はその週の土、日、月と記した。
連絡が先生からも病院からもなかった。
金曜日、母が面会に行ったとき確認したら了承されていた。
翌日、更年期で二十年も早起きできないでいるあの子の母が早起できて、父と一緒に迎えに出向いた。
迎えに早くいって外泊の一日が長くなるようにと早起きとなった。

朝一番の空気はさらに清んでいた。
上り坂の山への道は晴れて日が射していた。
真っ白な八甲田山の山脈が見え、その手前の山が日の光で銀色に輝き、心がそれだけで明るくなった。
あの子の父も母もほんのちょっとしたうれしさで気が焦っていた。
あの子はベットの中で丸くなっていた。「はーい、迎えに来たよ。」
「あれ、外泊」
昨日言っておいたのに記憶があいまいだ。
「そう、さあ着替えて」
「今日、何日」
「21」
「21?」
いつまで
「23日まで」
「え、何回」
「また二回寝るの」

あの子はゆっくりとふらつきながら着替えて、閉鎖病棟のドアの前に立った。
入るときとは違って、簡単に鍵が開き、外へとでた。
前と違ってもっと無口だった。
言葉も無く、今日も車の助手席に座った。

「さあ、今日どうする。」
返事も無く、車はまた坂を下った。
今度は何の言葉も無く、まっすぐ前を見て座っていた。
父は言葉をかけるのをやめ、良くしようと努力するのも頑張るのもやめていた。

今日はそうだ「降りる生き方」このまま坂道を下りて行くのもいいさ。
最近たまたま手にした本からそれを知った。
誰もが上え上がろうと無理をする。
良くなろう、治そうと、無理をする。
そうではなくそんなことを止めて今日をただあるがままに生きてはどうか。
降りていくのだ。
無理を止めて、弱い自分になり、そして誰かと支えあい、生きていければいい。
助けてもらえるようにそこへ降りて行くのだ。
調子が悪くなってもいいさ。生きていればいいさ。

バックミラーであの子の様子をうかがった。
新しい道を見つけたような、うれしいような、そんな思い中、気持ちを新たにして、
どんな時を一緒に過ごせるのか、楽しもうと思うものの、やはり暗い影が背中についている。

今回は家に帰ってすぐとんかつ屋へと向かった。
早めの昼食だった。いつも大盛りのとんかつ定食だが、今回はみんなでかつ丼をたのんだ。
この店の一番料理なのに今まで一度も頼んだことが無かった。
あの子の目はまだ死んだ魚のように白くかった。それでも目の前に来たかつ丼をゆっくりほうばった。
「おいしかった?」
「おいしかった」この答えが最初の会話だった。

お腹か一杯になって家に帰ったら、そのままあの子はベットに入った。
静かに寝息を立てて眠った。
「…、…、」
布団の中で丸くなっているが、魂は眠っているわけではない。

頭は眠っているのに、魂はあの扉を開けて、あの時の小学校へと行っていた。
「ここだ、ここから始まったんだ。」

あの子は教室にいた。そしてその日は小学校6年の春の日にいた。
女子生徒を笑わせてちょっと喜ばせようと、ひねりにひねった話しや、しぐさをした。
それが、思ったように行かなかった。
そんな小さなことから小さな疑惑が生まれ、それが大きなもぐらの山となり、聞こえない声が聞こえるようになった。
他の男子は女の子に馬鹿にされている、俺が何とかする。それには何とか女の子にうけないと…
寝床の中で布団にまるまり、繭となったあの子の思いの中で6年生の春は続いた。
もう何ヶ月も続いていた。

「あの時だ、自分が病気になったのは。」
「ただみんなを楽しく盛り上げようとしたのにみんな相手にしてくれなかった。」
「なんで苦しくて暗いんだ。」
「どうしてみんな暗いところにいるんだ。」
「苦しいことのどこか楽しいんだ。」
「みんなを楽しませ、笑わせようと、いろいろ演技したんだ。」
「だれも気がつかない。」
「どうしてだったんだろう。」
「だから女の子はだめだ。」
「男だって…」
そこからは時間は消えた。
時計はいらない。
そして旅に出た。

体はどこにあるのかはもうどうでもいいことだった。
ただただ重い、それが錨のように体を深い海の底へとしばりつけた。
そのまま海の底に魂が沈められていうような気がした。

面白いことを記憶の断片から拾って、
それを浮にして水の上へと顔を出して息をした。
あの子は沈まないようにコルクになった。

あの子の世界が創造された。
天地創造はあの子にもできた。
そしてそこへあの子は毎日いた。
この世の時計が正確に時を刻み、一秒一秒が過ぎていくが、
あの子の時計は違う。
進むことも止まることも無かった。
時間のない世界なのだ。

まだ正午を少し過ぎた時間なのに、あの子はすでに長い時間を繭の中で過ごした。
わたしたちが瞬きする時間でさえあの子には一日となることもある。
それがあの子の繭の中の世界の時間なのだ。
また夜が来た。
外食に出た。

同じ中華屋で同じ定食を注文し、満腹になり、そして同じことを繰り返し、山の道を登って行った。
あの子の父と母は病棟が閉まる時間まで戻らなかった。
9時に裏口から入り、外来者の名簿に名前を書き、静かな裏廊下をゆっくり歩き、
いつものランやシクラメンの花を見て、二つの廊下の角を過ぎて、エレベーターのドアにたどり着き、
そしてボタンを押した。
静かにエレベーターは降りてきて、ドアが開いた。
そこへ無言で静かにあの子と父母は乗り「8」を押す。
エレベータ―は静かに上昇し、8階に着きドアが開いた。

またあのなじんだ病室の匂いがしてきた。
そしてその匂いにほっとした。
無事、帰った。何事もなく。これで大丈夫か。
あの子は良くなったか。
そう感じた時、病室の匂い、それが安堵の匂いだった。

インターホーンのボタンを押し、
「ただいま戻りました。」
ナースステーションにいる誰かに聞こえるように大きな声で伝えると
「はーい」と看護師の声が聞こえた。
電動の鍵が開く鈍い音がした。
スライドドアがするすると軽く開いて、その向こう側に看護師がいた。
「どうしますか?」
「ここでいいです。」
あの子は食後の薬でもう朦朧としていた。
別れる寂しさも無く、ドアの向こうに着替えのバックを持ってすっと消えた。
父は侘しく思ったが、あの子が寂しく思うよりはいいと思った。
あっけなくまた外泊は終わった。

エレベータ―のボタンを押すとエレベーターはすぐに来た。
ただ今回は7階で止まった。
ドアが開き、「あれ先生…!」「今帰りですか」あの子の主治医に出会ったのだ。
「今日早い方よ!」
「お疲れ様です。」
主治医はゆっくりとエレベーターに足を踏み入れた。
寝る前の回診から戻って来たのだ。
もう70近い女医先生だが、疲れた様子は見えなかった。
この仕事が本当に好きなのだ。
「外泊どうでした。もうそろそろですね。」
「三ヶ月ですから!」
「またすぐ外泊しますか、それとも退院ですかね」

退院と病気が治ることは無関係だ。否、病気が治るなどどだれが思っているのだろうか。
危機を脱して落ち着くことが入院の終わりであり、退院の入り口だった。
入院期間は三ヶ月と決まっていた。
「そうか」父は思った。
今度こそ。
それはどんな意味だったのか。
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