第1話

文字数 1,105文字

 ぶーん、ぶーんと奇妙な音がする。
 それは、この蒸した七月の中旬の、真夜中に羽虫が病室の中を飛び回っているのかと思ったが、冷房の効いている部屋に、羽虫がいる筈(はず)がなかった。
 何より――この精神科病院の中に、閉ざされた閉鎖病棟の中に、虫が入って来れる筈(はず)がなかった。
 いや――と、二十一になる、本多隆章(ほんだ・たかあき)は思った。その考えはフェアではない。一センチ、いや一ミリの隙間でもあれば、虫という虫は、遠慮なく入って来るのだ。また、調理人の作った夕餉(ゆうげ)の、そのお椀のどこかに、虫が付いていたのかも知れない。願わくば、自分も虫となって外に飛翔していけたら――そう思っていると、看護師の男の足音が、カツカツと重みを持って、響いて鳴って来た。【まだ、目を覚ましていると思われたら、また少量の睡眠導入剤を追加されてしまう……】隆章はそう思い、薄っすらとした眠りから、本格的な眠りへと入る努力をした。
 本多隆章が、この古い病院に入院したのは、平成も終わりに近付いている、春のことであった。
 元来、人と交わるのが苦手で、口をきくのも億劫で気が引ける隆章にとっての趣味は、好きな心理学書を、ひもといて読むことであった。普通科の、地元ではいわゆる「ハイレベル高」と形容されるような、高等学校を卒業した隆章にとって、父母と親族の望みは、国立大学の法学部に入って、司法書士の資格を取得すること、若しくは、あわよくば司法試験に合格することであった。
 「たっちゃんは、一家の中で一番頭が良い子だから……」それが、本多家の一族の、口癖であった。いわゆる「トンビが鷹を産む」というものであろう。実際、隆章は勉強ができた。また、本を読むことは、気質のごく大人しい隆章にとって好ましい趣味であったし、ゲームや格闘技など、同年の男の子が夢中になる趣味とは、縁がなかった。
 看護人は、隆章が自然と眠ってしまったと思っている様だ。
 いや――退院まで二週間と伝えられた隆章には、看護人も【不憫な若い子】と、同情を寄せられて、赦(ゆる)されている部分があったのかも知れなかった。実際、隆章はまだ眠ってはいなかった。
 隆章は、高校卒業後の進路は「心理学科」に進むことを、希望していた。法学部に入って、エリートコース、または、それに似た進路を辿ってくれることを期待していた親類縁者はいたく落胆したが、高等学校卒もしくは、中学校卒が、ほとんどの本多家の者にとって、国立大学に入学してくれるだけで、自慢のタネであった。実際、隆章はそれほどの苦労もなく、浪人をすることもなく、隆章の地元の国立大学心理学科に、入学を果たしたのであった。 
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