第5話

文字数 739文字

 昼飯をすませた後に、隆章の父と母が、病室を訪れた。昼飯は、質素だがよく味の染みた旨い食事である。隆章がぼんやりと、窓の外の光が撥(は)ねる様子を目で追っていると、またいつの間にか、父母が、着替えやリクエストした二、三冊の本を携えて、部屋の中に来ていた。
「たっちゃん……」
 母親の恵利子が、隆章に声をかけた。表情の上に、なんとも言い難い苦渋の感情が満ちている。
「ああ――『暗夜行路』持って来てくれたんだね」隆章が言った。
「心理学の本――あれは駄目ですって……退院したら家で読んで欲しいそうです」恵利子が、隆章に短歌集と『暗夜行路』を、渡しながら言った。
「綺麗な本――わざわざ買い直さなくても良いのに……」隆章が、冷たい背表紙に触れて言った。
「あたしらには分からない難しい本ばっかりだから――お父さんがお仕事の帰りに、池袋の本屋さんで見付けてくれました」
 父の啓造は、終始黙っていた。怒っているというよりも、隆章の様子が落ち着いて、食器を空にしていることに安心したようである。
「本郷先生にもご挨拶しました。予定通りの退院になるそうです」恵利子が言った。
「ああ――それは良かった」隆章が、他人事のように言った。
 隆章は、父母と、陽当たりのよい窓辺で話しをした。これからの大学のこと、隆章の下宿となっているアパートは契約を解除せずに、そのまま戻れるということ、お父さんは無理に、学業を続ける希望はないので、大学をそのまま辞めても良いということ――。
「自分たちにも……悪かった落ち度がないか考えていた」啓造が、重々しい口調で隆章に言った。
 いや、と隆章が言った。
「これからは、新生活をはじめるよ」
「新生活――?」
「僕の好きな本にそう書いてあった」
 隆章は、珍しくにっこりと笑って見せた。
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