第20話 すみのえの 藤原敏行朝臣(十八番)

文字数 1,635文字

住の江の

岸による波

よるさへや


夢の通ひ路

人めよくらむ

すみのえの

きしによるなみ

よるさえや


ゆめのかよいぢ

ひとめよくらむ

三時間目の授業終了のチャイムが鳴った。トオルは、空腹に耐えた自分を讃えるように伸びをする。




ぐう、と腹が答えた。



あと一時間で昼だ。そしてあと三時間で、放課後だ。



トオルはトイレに行こうと廊下に出た。

(あ、先生)

廊下の向こうから、授業を終えたらしい笹塚先生がこちらへ歩いてくるのが見えた。


笹塚は、いつもすれ違う時にはちらりとトオルと目をあわせてくれる。だから、トオルは今日も期待した。


(え?)
だが、笹塚はトオルには一瞥もくれず、スタスタと歩き去っていく。トオルが笹塚の後姿を目で追うと、数人の女子生徒に囲まれてしまっている。
せんせ~、テスト範囲広すぎる~
そんなことないだろ
え~
笹塚が、楽しそうに笑っている横顔が、見えた。




……という夢を昨晩見たため、トオルは本日とても機嫌が悪いのだった。


今日は水曜日だから、生物の授業がない。なので、笹塚先生に会うのは放課後までお預けである。

どんな顔したらいいんだよ
若人(わこうど)は、年相応の悩みに苛まれていた。
笹塚先生なら、今日はもうお帰りになったわよ
現国の五十絡みのおっとりとした教員は、眼鏡の奥からこちらを見上げている。


放課後、なかなか現れない笹塚にトオルは業を煮やし、職員室にかち込んだところだ。

え? 健康診断?

金曜日には学校に来るとおっしゃっていたけど、夕方になるそうだからと、


今しがた最後の審判を言い渡された。


つまり、地獄行き決定だ。


……
陽の長くなった帰り道を、トオルはとぼとぼと歩く。


笹塚先生に会いたかった。


でも、会えなくてちょっと、ほんのちょっとだけ、ほっとしている自分もいた。

金曜日の放課後も、笹塚先生は現れなかった。
なあ、頼むよ~。スコアボードめくってくれるだけでいいから~。マッ〇おごるから~
わかったよ。ビックマッ〇ね
おう! じゃあ、明日な!

トオルは時々、サッカー部の友人に頼まれて休みの日に学校に呼ばれることがあった。いつもは並みのテンションで引き受けるトオルだったが、今回は少々事情がある。


そう、笹塚先生に会えるかもしれないからだ。


トオルは、思った。
この前あんなことがあったあとで、こんな仕打ちは正直あんまりじゃあないですか? 夢に出てきても、そっけないとか、なんか、俺、俺なんかしましたか? それともなんだ? あんな、人のく、くちびる触っといて、冗談、とか? え? そういう? そういうことなの? 大人の? たしなみ?(?) とかなの?

トオルは、サッカーの試合を気にしながら、その胸の内はぐるぐると混乱していた。


そのモヤモヤは、部活が終わりを迎える夕方まで続いたのだった。


トオル~さんきゅ~なぁ!
うん
片付け終わったら、マッ〇いこうぜぇ!
その時、生物室の窓越しに、白衣姿の笹塚先生が見えた。
……ごめん、それ、また今度にしてもらっていい?
えあ? べつにいいけど
用事、あったの思い出したわ
友人と別れたトオルは校舎にむかう。


階段を上りながら、どんな顔で、どんな声で、話しかければいいのだろうと、不安になった。

……
考えて、分かることじゃない。

トオルは(ノックをしてから)意を決して、生物準備室の扉を開けた。


生物教師笹塚は、


特盛のカップ麺を啜っていた。


ぅん? トオル?

笹塚先生は、

今すすった麺をもぐもぐしている。


部屋中に、

味噌ラーメンのいい匂いがしている。


ぐぅと、トオルの腹が鳴いた。


食うか?
戸口で突っ立ったままのトオルに笹塚は、スーパーのシールが貼られた大きなおにぎりをそっと差し出した。トオルも、よく購入するものだった。
ふっはははっ
笹塚の目の前で、トオルがふいに笑いだした。
せんせい、

明日の夕方とかって、

空いていますか?

お、おう……

変なことで悩むのはやめよう。

トオルは、なぜか清々しい心持ちになっていた。


そうだ、一歩踏み出すべきだ。

前にしか、答えはないんだ、きっと。


宵宮(よみや)、

行きませんか?





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登場人物紹介

藤原 トオル

生物教師 笹塚

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